スキージャンプ競技で日本初の…(2024年4月27日『毎日新聞』-「余録」)

キャプチャ
札幌冬季オリンピック70メートル級純ジャンプ。笠谷幸生の試技=札幌市の宮の森ジャンプ競技場で1972年2月6日、大須賀興屹撮影
 
キャプチャ2
70メートル級純ジャンプでメダルを独占、観衆の祝福の声援に応える日本ジャンプ陣。(左から)2位の金野昭次選手、優勝の笠谷幸生選手、3位の青地清二選手、23位の藤沢隆選手=札幌市の宮の森ジャンプ競技場で1972年2月6日、中村太郎撮影
 
 スキージャンプ競技で日本初の冬季オリンピック金メダルをもたらした笠谷幸生さんは、競技生活の終盤まで「無念無想のスタート」を目標としていた。1972年、札幌冬季五輪の90メートル級(現ラージヒル)で、風と踏み切りのミスから7位に終わったことへの反省があった
▲その5日前の2月6日、70メートル級(現ノーマルヒル)の優勝シーンは、いまも鮮やかに脳裏に焼き付く。国民の期待を背負う中、「飛んだ、決まった」とNHKの実況は勝利を伝えた。金野昭次青地清二両選手とともにメダルを独占した「日の丸飛行隊」の快挙と熱狂を小紙は「やったぞ日の丸三本」と報じている
▲その笠谷さんが80歳で亡くなった。前傾姿勢や着地のテレマークの美しさが特徴で、全盛期には「鳥人」と称された
▲70メートル級の前はほとんど無言を通し、勝利後も記者団に「あなたがたに何がわかりますか」と言い放った。「金メダル確実」と言われつつ、十数秒ですべてが決まってしまう重圧はいかばかりだったろう
▲風に左右されるジャンプ競技を「賭け」と言いつつ、金メダルに輝いた。だが、90メートル級の失敗をむしろ重視し、新たな境地を目指し続けた。札幌五輪後の姿にこそ、笠谷さんの本質があるのかもしれない
▲金野、青地両氏はすでに世を去り、表彰台独占から半世紀以上を経た。2030年の札幌五輪招致断念を巡っては、冬季スポーツの振興が開催以上に重要だとメディアに語っていた。いかにも笠谷さんらしい。その功績は不朽である。