72年、練習中の笠谷幸生さん
1972年(昭47)札幌冬季五輪のスキージャンプ70メートル級(現ノーマルヒル)で優勝し、日本初の冬季五輪金メダリストとなった笠谷幸生(かさや・ゆきお)さんが今月23日に虚血性心疾患のため死去したことが26日、分かった。80歳。関係者によって24日に通夜、25日に告別式が営まれた。
1943年8月17日、北海道の現・仁木町で生まれた笠谷さんは、98年長野五輪時にジャンプ部長を務めた兄・昌生さん(故人)とともにジュニア時代から活躍。余市高時代から海外遠征組に入り、明大1年時の64年1月に全日本選手権を制して日本のトップジャンパーとなった。64年のインスブルック大会で冬季五輪初出場。ニッカウヰスキー入社後の68年グルノーブル五輪を経て、71年には札幌で行われたプレ五輪の70メートル級を制して、初の日本開催となった冬季五輪のメダル候補として期待される存在となった。
伝説の71~72年シーズン。年末年始のジャンプ週間4連戦で開幕から3連勝し、日本人初の総合優勝は確実といわれたが、札幌五輪代表選考会が重なったため帰国した逸話は、今も欧州では語り草だ。72年2月6日、宮の森競技場で行われた70メートル級は1回目のリードを守り切り、日本人初の冬季五輪金メダリストに。銀に金野昭次、銅に青地清二と日本が表彰台を独占し「日の丸飛行隊」と呼ばれた。
1972年の札幌オリンピックのスキージャンプで日本選手が表彰台を独占した「日の丸飛行隊」のひとりで、金メダルを獲得した笠谷幸生さんが4月23日に札幌市内の病院で亡くなりました。80歳でした。
笠谷さんはスキージャンプの選手として1972年の札幌オリンピックでは自国開催の重圧をはねのけて海外の強豪を相手に金メダルを獲得しました。
冬のオリンピックで日本勢初めての金メダル獲得という偉業で、銀メダルの金野昭次さん、銅メダルの青地清二さんとともに日本選手が表彰台を独占したその姿は「日の丸飛行隊」として語り継がれ、海外でも称賛されました。
現役引退後は指導者として活躍し、1978年から全日本スキー連盟のジャンプコーチに就任するなど後進の育成に力を尽くしました。
さらに、国際スキー連盟の国際審判員として冬のオリンピックで審判も務めるなど指導者、競技団体の役員としても長年にわたって日本のスポーツ界の発展に貢献してきました。
関係者によりますと、笠谷さんは4月23日に札幌市内の病院で亡くなったということです。
80歳でした。