壁(2024年4月9日『福島民報』-「あぶくま抄」)

 個性、肩書、社会的地位…。普段身にまとう存在の証しが揺らぎ出す。あなたは一体何者で、どこに向かうのか―。今年生誕100年を迎えた作家・安部公房の作品は、静かに問いかける

芥川賞を受けた「壁」の主人公はある朝、自分の名前を失ったことに気付く。動物園のラクダを胸の中に盗み入れようとしたと、裁判で疑われる。でたらめのような現実味のない世界が広がる。人名とは人間を現世につなぎ留めている、もろい命綱のようだと教える

▼500年後の日本人は「佐藤」さんだけになる。人口動態などから、東北大の教授がはじき出した。県内で最もと言っていい身近な名字だ。全てが同姓なら、相手を識別するのは「姓」でなく「名」だけになる。人違いが頻発し、頼んでいない荷物が届く。犯罪の加害者と誤解される人も…。文豪がペンを執れば、背筋の寒い世界へいざなうかもしれない

▼先の主人公は最後に壁になる。絶望の2文字のようだ。くだんの教授は、夫婦別姓の導入で事態は変わると試算する。先進社会の潮流とはいえ、この国には伝来の家族観も根付く。多様な名前文化は失いたくない。立ちはだかる「壁」の向こうに新時代の希望はあるのだろうか。