巨大な「女性ネットワーク」が被災した人たちを支えていた 現代でも生かせる関東大震災の教訓(2024年3月26日『東京新聞』)

 
 約100年前の関東大震災で被災した子どもや女性を支援したのは、女性のネットワークだった―。社会学者で元宮城学院女子大教授の浅野富美枝(ふみえ)さん(75)=埼玉県吉川市=が、こんな研究結果を「関東大震災 被災者支援に動いた女たちの軌跡」(生活思想社・1430円)にまとめた。「現代に共通する課題で、学ぶべきことが多くある。若い人に手に取ってもらいたくて本にした」と語る。(出田阿生)

◆障子で避難所に間仕切り

 当時の避難所を撮影したモノクロ写真。カメラを見つめる子どものそばに、パーティションとなる障子がある。「大正時代にプライバシーを確保していて驚いた。特に女性にとって目隠しは重要」と浅野さん。
障子で仕切られた避難所=東京都復興記念館所蔵

障子で仕切られた避難所=東京都復興記念館所蔵

 女子大の同窓会員たちは東京・上野公園にテントを張り、連日400人分の給食を提供。女学生らは小学校で温かい豚汁や五目ご飯を100日間も作り続けた。関東大震災での女性たちの動きは「迅速かつ驚異的な力を発揮した」。
 中心的な役割を担ったのが、震災1カ月足らずで発足した「東京連合婦人会」。日ごろ生活困窮者を支援するキリスト教系の団体や女学校、同窓会など、42の女性団体が集まった。「平塚らいてう羽仁もと子をはじめ、大正デモクラシー期に活発に動いていた女性たちが思想信条の違いを超え、大同団結した」
 会がまず取り組んだのは、乳幼児がいる家庭へのミルク配布。女性同士の話しやすさを生かし、病人や高齢者の有無も含めた状況を、被災女性から細かく聞き取った。独自の個別調査カードを作り、行政や警察と連携した。物資の配給や相談を担当する「社会事業部」、約4万人に上った失業女性に仕事をあっせんする「職業部」など、幅広い活動を展開したという。
被災者支援でミルク(練乳)を配布する自由学園の女子学生たち=自由学園資料室所蔵

被災者支援でミルク(練乳)を配布する自由学園の女子学生たち=自由学園資料室所蔵

 被害が甚大な横浜でも、2カ月ほどで「横浜連合婦人会」が発足。「彼女らが自発的に動いたのは、同情やあわれみからではない。主義主張や階層差を超えた生活者としての思い、女性が置かれた環境への共感と連帯があったと思う」と浅野さんは推測する。

阪神・淡路大震災では女性の死者数が男性を上回った

 当時の動きから学べるのは、主に女性が担ってきたケアの視点を、防災に取り入れる重要性。浅野さんは、全ての人の尊厳を守ろうと「災害女性学」を提唱。女性や子ども、高齢者や障害者の命を守るために、普段からの格差解消の必要性を唱える。
著者の浅野富美枝さん=さいたま市南区で

著者の浅野富美枝さん=さいたま市南区

 1995年の阪神・淡路大震災で女性の死者数が男性を大きく上回ったのは、耐震性の低い老朽家屋に住む高齢女性が多かったからとされる。背景に賃金や年金が低い女性の貧困がある。関東大震災でも女性の失業率が男性を大幅に上回ったとの調査報告があり、性暴力も古今で共通する。
 一方で、関東大震災で活躍した女性団体が、軍国主義の台頭で権力に取り込まれた経緯から「災害対応は、戦争への対応ともつながりやすい」と警戒する。「権力に取り込まれないためにも、意思決定の場に女性や多様性を持った当事者が参画することが必要です」

 関東大震災 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源に起きた、推定マグニチュード(M)7.9の地震。各地で火災や建物倒壊、土砂災害、津波などが相次ぎ、東京、神奈川を中心に約29万棟の住宅が全壊・全焼。死者・行方不明者は約10万5000人に上った。