ビキニ事件70年 核廃絶への思い新たに(2024年3月25日『東京新聞』-「社説」)

 

 

 日本のマグロ漁船員が人類初の水爆犠牲者になった「ビキニ事件」から今月で70年。世界にはいまだ1万2千以上の核弾頭があり、実戦での使用をほのめかす国家指導者さえ現れた。広島、長崎、そしてビキニ-。この国に三たび刻まれた被ばくの記憶を、何としても世界に伝えていかねばならない。
 ソ連(現ロシア)との核開発競争が激化する中、米国は1946年から58年にかけて、中部太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁とエニウェトク環礁で、計67回の原水爆実験を行った。
 1954年3月1日、ビキニ環礁で炸裂(さくれつ)した「ブラボー」という呼び名の水爆は、サンゴ礁を粉々に砕いて巻き上げ、放射能を帯びた「死の灰」を振りまいた。
 静岡県焼津港所属のマグロ漁船「第五福竜丸」=写真=は、爆心から約160キロ東で操業中、米軍が指定した危険区域の30キロも外側にいたが、死の灰を浴びた。
 2週間後に焼津港へたどり着いたが、23人の乗組員全員が「急性放射能症」と診断され、無線長だった久保山愛吉さん(当時40歳)が約半年後に亡くなった。
 そのころ「原子力の平和利用」に傾いていた「唯一の戦争被爆国」では、久保山さんの死をきっかけに反核のうねりが起こり、翌年夏、広島市での第1回原水爆禁止世界大会につながった。
 第五福竜丸は東京水産大(現東京海洋大)の練習船として使われた後、67年に廃船。東京湾のごみ処分場「夢の島」に捨てられた。
 しかし、それを知った地元市民らが保存に動く。役目を終え、公園として整備された夢の島の一画に76年、船体を展示する「都立第五福竜丸展示館」が開館した。
 「ここは、過去と今とをつなぎ、未来を見つめてもらう場所だと思います。ビキニ事件は決してひとごとではありません」と、同館学芸員の蓮沼佑助さん。展示館前の記念碑には、久保山さんの「遺言」が刻まれている。
 「原水爆の被害者はわたしを最後にしてほしい」
 世界の現状に照らせば、一層重みを持つ言葉だ。悲劇の教訓を無駄にしてはならない。