盗まれた球春(2024年3月22日『産経新聞』-「産経抄」)

 
20日に行われた米大リーグ、パドレスとの開幕戦で試合を見つめるドジャース大谷翔平選手(右)と通訳の水原一平氏=ソウル(共同)

 国語辞典をめくっていると、わが国の言葉が少なからず野球の影響を受けていることに気づく。登板、続投、代打。全力投球や守備範囲なども日常的に出番の多い比喩だろう。手元の辞書で「盗む」を引くと、こんな用例も載っている。

▼「塁を盗む」。野球伝来から150年余り。語感の後ろ暗い「盗む」に、盗塁という用語が明るい表情を与えたようで、どこかほほえましい。大谷翔平選手の活躍を見慣れたいま、「二刀流」と聞いて宮本武蔵を浮かべる人は少数派だろう。野球の底力を見る思いがする。

▼と、ここまで書いて手を止める。「盗む」はやはり、暗いさだめを背負った言葉らしい。大谷選手の通訳として知られた水原一平氏を、米大リーグ・ドジャースが解雇した。違法賭博による負債を、大谷選手の口座から送金して穴埋めしたという。

▼「大規模な窃盗の被害」とは大谷選手側の声明である。二刀流が海を渡って以来、インタビューに会見に、影のように寄り添い続けたその人の面差しが忘れ難い。バッテリーを組む捕手以上に、「女房役」の言葉が似つかわしい人だと思っていた。

▼こうして書いていても、「盗み、盗まれ」の関係がピンとこない。大谷選手は賭博に関して知らなかったという。打撃に専念する今季、開幕直後に持ち上がった騒動がプレーに影響しないか。懸念が尽きない春である。折しも甲子園では、高校球児たちが熱戦のさなかだ。

▼「私たちは唯一無二の仲間とともに大好きな野球に打ち込める『今』に、喜びをかみ締めています」。開会式での選手宣誓の一節である。本来なら高校生の一投一打に胸が躍るものを、この騒動に球春の醍醐味(だいごみ)まで盗まれたような気がして、寂しさを禁じ得ない。