「静かにさせたい」から思いやりへ、家族の願い変化 認知症の診察室(2024年3月16日『毎日新聞』)

外来を担当しているメモリーケアクリニック湘南の診察室で話す繁田雅弘医師=神奈川県平塚市で2023年12月12日、宮間俊樹撮影
外来を担当しているメモリーケアクリニック湘南の診察室で話す繁田雅弘医師=神奈川県平塚市で2023年12月12日、宮間俊樹撮影

 認知症の当事者、家族と、医師が対面する診察室。そこで交わされる話の内容は時代とともに変わる。切実な思いでやってくる人たちと医師はどう向き合うのか。

一つ一つのことに振り回されない

 認知症専門医の繁田雅弘医師(65)が外来を担当するメモリーケアクリニック湘南(神奈川県平塚市)にその夫婦が通うようになったのは昨年秋のことだ。障害のある人たちと向き合う仕事に長年全力で取り組んだ2人。夫婦が訪れる診察室に私(記者)は昨年11月から3回、同席した。

 夫婦は同じ77歳で、夫が2019年にアルツハイマー認知症と診断された。物忘れはあるものの、好きな音楽を楽しみ、庭仕事や家事も当たり前にできている。穏やかな性格は変わることなく「僕ができることは何でもするよ」と妻をいつも気遣う人だ。

 11月の診察時、夫の鼻にはばんそうこうが貼られていた。夫と入れ替わりで診察室に入った妻によると、数日前に自転車で転んだという。その話を聞いた繁田医師は妻にこんな問いかけをした。

 「1年前と比べてどれくらい動作が変わったり、物忘れが増えたりしましたか」「3年前と比べるとどうですか」

認知症になった後も妻とともに好きな音楽を楽しんでいる77歳の男性。ウクレレの練習もしている=神奈川県内で2024年2月5日午後0時52分、銭場裕司撮影
認知症になった後も妻とともに好きな音楽を楽しんでいる77歳の男性。ウクレレの練習もしている=神奈川県内で2024年2月5日午後0時52分、銭場裕司撮影

 家族の中には本人の失敗に心を擦り減らしてしまう人もいる。繁田医師は長期的な視点で考えた方が一つ一つのことに振り回されず冷静に過ごせることを知ってほしかった。

診察室は時代の鏡

 繁田医師は診察室で①本人と、付き添いで来る家族とは別々に話をする②家族も同席させて本人と一緒に話をする――という2通りの方法を取る。

 最初に本人とだけ話すようになったきっかけは、家族が横から発言内容を訂正するなどして本人の話の腰を折ることを避けるためだった。そうして個別に話すうちに、本人にも家族には内緒で話したいことがあると気付いた。本人と話すことで次は家族とも個別に話すようになり、現在はそれぞれの様子を見ながらどちらの形を取るかを柔軟に決めている。

 診察室は時代の変化を映し出す鏡なのかもしれない。この10年ほどの間に自身の思いを発信する当事者が増え、社会全体の認知症に対する理解が深まった影響もあるだろう。繁田医師によると、診察室で家族が話す内容は昔とは根本的に違っているという。

 かつて家族の口から出るのは症状への対処法を尋ねる質問がほとんどだった。何も分からなくなった本人をどうすれば手際よく静かにさせられるか――という趣旨の問いかけだ。ところが最近は、本人に安心して過ごしてもらうためにはどうすればいいか、といった家族を思いやる内容が多い。

 繁田医師は自身の対応も変わったという。「昔は家族から『(本人が)興奮したり、歩き回ったりした時にどうすればいいか』と聞かれれば苦し紛れにいろんなことを答えました。でも今は『それに関しては僕は何もしてあげられないな』と言える。具体的な回答を示さないことには勇気もいりますが、今の自分には本当の意味で家族の思いを聞く大切な仕事があるんだと自信を持って言えます」

 家族には本人を監督することよりももっと大事なことがある。まずは本来の姿に立ち返って一緒にどんな時間を過ごしたいかを考えてほしい。繁田医師はそう願う。

これが認知症というもの

 77歳の夫婦は診察室で繁田医師と個別に話をしている。障害のある人たちと長年向き合った仕事のこと、信頼している妻のこと、父が牧師を務める教会で過ごした子ども時代のこと……。夫が繁田医師と交わした対話からは、日ごろから大事に感じているものが自然と浮かび上がってきた。本人はこの診察をどう感じているのか。

 「本気で聞いてくれるので気持ちがあたたかく、楽になります。そのあと、話した具体的な内容は頭の中から薄くなっていきます。これが認知症というものかもしれません。それでも話した時の感覚は残っていて『また行こう』ってなります」。細かなやりとりが記憶から消えても、対話から生まれた肯定的な感覚は残っていた。市民向けに講演する繁田雅弘医師=神奈川県平塚市で2024年2月3日午後2時34分、銭場裕司撮影

市民向けに講演する繁田雅弘医師=神奈川県平塚市で2024年2月3日午後2時34分、銭場裕司撮影

「おつかれさま」とねぎらい

 妻は11月の診察室で将来のことについても長期的な視点で考えた方がよいと繁田医師からアドバイスを受けた。その言葉に妻は「一番大事なのは彼(夫)が心地よい生活をできるかですね」と答えて、自身の胸の内も語った。

 夫婦は個別に医師と向き合い、普段は相手に話していないことも口にした。繁田医師が聞いた内容をそれぞれに伝えるのはほんの一部に過ぎない。それでも1人の医師を通じて夫婦の思いがつながるような不思議な感覚もあった。

 繁田医師はいつからか診察の終わりに「お大事に」ではなく「おつかれさまでした」と声をかけるようになった。そこには自分の問いかけに懸命に言葉を返してくれたことへの感謝がある。

 認知症の診察室は医師と本人、家族が真剣に向き合ってようやく前に進めるものなのかもしれない。多くの当事者がこうした医療とともに歩めることを心から願った。【銭場裕司】

しげた・まさひろ

 精神科医東京慈恵会医科大学教授。神奈川県平塚市の実家を活用して認知症の人たちが安心して集える場所を作った「SHIGETAハウス」の活動でも知られる。日本認知症ケア学会理事長。