雨風が吹き込み、横にもなれない家に「屋内退避」しろと? 原発事故対策の絵空事を能登で見た(2024年3月12日『東京新聞』)

<連載・能登から見る 3.11後の原発防災>㊥

◆「危険」を示す赤い紙が貼られた家屋

地震で被害を受けた藤田賢誠さんの自宅

地震で被害を受けた藤田賢誠さんの自宅

 鉛色の空から横殴りの風と雨が吹き付ける。3月3日、石川県志賀(しか)町の富来領家(とぎ・りょうけ)町地区の細い道に入ると住民の姿はなく、集落は静まり返っていた。所々で家屋が倒壊し、屋根をブルーシートで覆った家の玄関に、応急危険度判定で「危険」を示す赤い紙が見えた。
 土足のまま案内された藤田賢誠(けんせい)さん(58)宅は、天井の板がはがれて隙間から空がのぞく。バラバラッと音がし、あられが降り込んできた。立っていると、軽いめまいを覚えた。「家全体がゆがんで、長時間おると気持ち悪くなる」

◆破れた屋根「外にいるのと何も変わらん」

地震で天井が落ち、屋根に隙間ができた藤田賢誠さんの自宅

地震で天井が落ち、屋根に隙間ができた藤田賢誠さんの自宅

 北陸電力志賀原発から約10キロのこの地区は、原発で重大事故が起きると、建物内にとどまる必要がある。放出された放射性物質による被ばくを避けるためだ。藤田さんは「外にいるのと何も変わらん。家で屋内退避は無理」と切り捨てた。
 地区の避難所の富来中学校は地震直後、帰省客も含め約300人でごった返した。1人に配れた食料は1日に小さなビスケット1包みだけ。屋内退避となれば生活物資の補給が欠かせないが、区長の山本政人(まさひと)さん(66)は「道路の寸断で運べる状況ではなかった。体を横にすることもできず、長期間の屋内退避は難しいだろう」と話す。

放射性物質を防ぐはずの施設が機能喪失

地震の被害で雨漏りする藤田賢誠さんの自宅

地震の被害で雨漏りする藤田賢誠さんの自宅

 放射性物質を内部に取り込まない設備がある防護施設も機能を失った。原発30キロ圏内の21施設のうち、町内の5施設が地震で損傷して防護できなくなった。
 その一つ、町立富来病院を訪ねた。2階の一部分の防護施設で、放射性物質を除去した空気を送る装置が天井から落下。給湯配管も壊れ、廊下は水浸しになった。病院側は建物を危険と判断し、入院患者72人全員を転院させた。事務長の笠原雅徳さん(57)は「このような状態でも事故時にはとどまるしかないだろう」と話した。

◆肝心の放射線量もデータが取れない

 屋内退避では、空間放射線量の正確な把握が生命線となる。屋外の危険度を把握し、実測値によって避難に切り替えるかを決めるからだ。しかし線量を測るモニタリングポストは、原発北側の最大18地点でデータが取れなくなった。複数の通信回線が途絶え、復旧に約1カ月を要した。
 原子力災害対策指針が定める屋内退避の前提は、ことごとく崩れた。山本さんに政府へ求めることを聞くと、間を置いて言った。「これだけ被害が大きいと、正直どうにもならんかな」(渡辺聖子)
 
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◆「無計画な避難を避けるため」屋内退避を設定

 東京電力福島第1原発事故では、福島県が設置したモニタリングポスト24カ所のうち、23カ所が津波で流されたり通信回線が断たれたりした。放射線量を測定できず、政府や東電の情報発信も不十分な中、多くの住民が原発の北西方向に避難。ところが同じ方向に放射性物質の雲状の固まり(プルーム)が流れていき、被ばくを強いられた。原発から約39キロ離れた福島県飯舘村の村役場では2011年3月15日、最大値の毎時44.7マイクロシーベルトを記録。村には今も帰還困難区域が残る。
 事故後に発足した原子力規制委員会は、無計画な避難を避けるとして、重大事故時は原発5キロ圏内で避難。5〜30キロ圏内は屋内退避するとし、避難に切り替える際は線量の実測値を基に政府が判断すると定めた。速やかに避難に移る目安は毎時500マイクロシーベルト、1週間以内の避難は毎時20マイクロシーベルト

 原子力災害対策指針 東京電力福島第1原発事故後に原子力規制委員会が策定し、自治体が作る原発事故時の避難や屋内退避の方策を定めた防災計画の土台。規制委は2024年2月、原発立地自治体の要望を受け、屋内退避の期間に限って指針を見直す方針を決めた。家屋倒壊などへの対応は内閣府自治体が検討する事項とされ、見直しの検討対象になっていない。

<連載・能登から見る 3.11後の原発防災>
 能登半島地震では、2011年の福島原発事故後に見直された避難と事故対策のあり方に致命的な問題が露呈した。原発と共存できるのか、能登の被災地で考える。