あの日の11日後に生まれたFM局「ラヂオ気仙沼」、きょうも放送続ける理由は…「次こそは助かる命を救う」(2024年3月12日『東京新聞』)

 
 13年前の3月11日、大津波に襲われて1300人超の人が犠牲となった宮城県気仙沼市。内湾の港を見渡せるガラス張りのスタジオに「ぎょっとFM」のロゴがある。港町の「魚」と「ぎょっとする情報」をかけたコミュニティーFM「ラヂオ気仙沼」の愛称だ。

◆「防災のバトンをあなたが届ける番」

サーフボードを土台にした看板の前で話す昆野龍紀さん

サーフボードを土台にした看板の前で話す昆野龍紀さん

 11日は特別な一日。朝からリスナーに「あなたの復興ソング」を募った。午後2時から特別番組「そして未来へ」に切り替え、午後2時46分に黙とうを呼びかけた。穏やかなピアノの音色が流れる。女性パーソナリティーが締めくくった。
 「たくさんの悲しみと感謝、震災の経験と教訓を次の世代へ。私たちが受け取った防災のバトンを、今度はあなたが届ける番なのかもしれません」

津波の翌日、防災無線に勇気づけられた

 東日本大震災から11日後の3月22日、社長の昆野龍紀(たつのり)さん(66)が、前身の臨時災害放送局「けせんぬまさいがいFM」を始めた。正しい情報を素早く発信しなければ―。漁船向けの無線会社を営んでいた昆野さんが知人に機材を借りて、消防署の訓練棟の上にアンテナを立てた。
 あの日、胸まで水につかりながら高台に避難して一命を取り留めたが、自宅と会社を失った。翌12日朝、防災無線から同級生の菅原茂市長の声が流れた。「大変なことがあったけど、がんばりましょう」。少しだけ、勇気づけられた。

◆生活情報「避難所で共有できる」

丘から見下ろした内湾。中央が魚市場

丘から見下ろした内湾。中央が魚市場

 ところが13日から防災無線がぱたりと途絶えた。無線のバッテリーが切れ、放送できなくなったためだ。市役所に市民が殺到し「水がほしい」「避難所はどこ」。同じような質問を繰り返し受ける職員は対応に追われ、本来の業務がままならない状態にあった。
 だからこそのラジオだった。炊き出しなどの生活情報を流した。「避難所でみんなで聞いていると声を掛け合いながら情報を共有できる。ラジオっていいね」。そんな声を励みに、少しずつ音楽を流し、夏祭りの再開にあわせて特番を放送した。町の人とともに日常を少しずつ取り戻した。

◆パーソナリティーに住民も起用

港を背に、ラジオへの思いを話す昆野さん=宮城県気仙沼市のラヂオ気仙沼で

港を背に、ラジオへの思いを話す昆野さん=宮城県気仙沼市のラヂオ気仙沼

 「災害時だけラジオがあっても意味がない。普段から放送していないと、いざというときに聞いてもらえない」と、昆野さんは17年に新会社をつくり、FM局を開設。パーソナリティーには地元住民も起用する。資金面の難しさもあるが、理念に賛同してくれたスポンサーが心強い味方だ。
 後悔もある。「情報を伝えるのに11日もかかってしまった。もっと早くできた」。だからこそ「今度は必ず、すぐに情報を届けたい」。あの日助からなかった命も、次は助かるかもしれない。そんな思いを、きょうも電波に乗せる。
  ◇  ◇

◆忘れられないよう「桜を植えてるんだ」

普段は海が見えるが、災害時には壁がせり上がる防潮堤の前で話す昆野龍紀さん

普段は海が見えるが、災害時には壁がせり上がる防潮堤の前で話す昆野龍紀さん

 昆野龍紀さんは私(記者)の父のいとこで、一昨年他界した祖父にかわいがられていた。2月下旬に案内してもらい、初めて祖父の故郷である気仙沼市を訪ねた。
 「おやじと女房と偶然合流できて、魚市場の屋上に逃げた」「対岸の家が津波にのまれた」「犬2匹をかばんに入れた」「水につかったおやじが失神した」「海から火が流れてきて、港が全て燃えた」。龍紀さんが淡々と語る姿に、どれだけの葛藤と後悔があったんだろうと、胸が詰まった。
 犠牲者の名が記されたモニュメントのある丘に登ったとき。「ここね、桜の木、植えてるんだ」と教えてくれた。「震災があったことは、少しずつ忘れられてしまう。石碑やモニュメントに目を向ける人もいなくなるかもしれない。んでもさ、美しい桜が咲いていれば、人は自然とこの場所に来る。そうしていつまでも覚えてもらえたら良いなと、俺は思うのさ」 (昆野夏子)