山あいのふるさとは3月に入っても雪が降ります。福島県浪江町下津島にある木造の自宅は江戸期に建てられたもの。庭にはいくつも小さなかまくらを作り、中にろうそくを灯(とも)して瞬きを楽しみました。木には息子たちの幼いときに義父が作ったブランコが下がり、今度は生まれてくる孫のために新しいものを作るはずでした。
菅野(かんの)みずえさん(71)=写真=の暮らしは13年前、東京電力福島第1原発事故で一変しました。浪江町は全町避難となり、菅野さんはいくつかの町を経て兵庫県三木市吉川(よかわ)町への避難を決めたのです。
事故の日の記憶は鮮明です。原発建屋が最初に爆発した2011年3月12日午後。国からも県からも避難指示はありませんでした。ただ、白い防護服の男性が「早く逃げて、遠くに」と切迫した感じで伝えて回っていました。
原発事故で生活が一変
誰によるものかも分からない指示に従い、菅野さんは避難を決めましたが、原発から20キロ以上離れた下津島にも、放射性物質を大量に含んだ煙がすでに流れ込み、被ばくは避けられませんでした。避難途中、県の放射線量測定では針が振り切れていました。
その5年後、甲状腺がんが見つかり被ばくの影響を疑いました。でも、放射線の記録を県に情報公開請求しても、回答は「記録はない」。事故時に生後8カ月だった愛犬も翌年急死。菅野さんは被ばくとの因果関係を証明するすべのなさにも苦しんできました。
でも菅野さんは動じません。放射性物質を語らないことは原発事故の本質を隠すことになり、事故がなかったことにされてしまうからです。原発事故の苦労を子や孫の世代や、原発の風下に暮らす人たちにさせたくないのです。
一つの証左があります。今年の元日に起きた能登半島地震の震源地に近い珠洲市には、1970年代に関西電力などの「珠洲原発」の建設計画がありましたが、28年に及ぶ反対運動で計画は止まりました。もし原発が稼働していたら、今ごろどうなっていたでしょう。
ふるさとの「住民」として
菅野さんのふるさと浪江町の山間部は今も帰還困難区域ですが、下津島の一部が復興事業のために昨春、避難解除となりました。
でも、菅野さんは喜べません。自宅に入り込んだ放射性物質を除去することは難しく、昨年末、テーブルの上や床にたまったほこりを検査すると、非常に高いレベルの放射性物質が検出されました。国にとっては、住民の健康よりも事業優先なのでしょうか。
浪江町によると今年1月、住民票のある住民1万5109人に対し、実際の居住者は2162人。菅野さんも町に住民票を残した1人です。今後、三木市での住民サービスが制限されることになってもずっと「避難」を続けます。
「福島のばっぱ(おばあさん)」として生きるはずだったのに、ある日突然、何の落ち度もなくコミュニティーごと追われ、未来に引き継ぐはずだった家も、一緒に老いていくはずだった近所の友達も失いました。
六甲山系を望む吉川も冬は氷点下まで気温が下がります。舞う風花も冷たい風も、下津島の暮らしに重なります。福島のばっぱ、菅野さんら多くの人に苦悩をもたらした原発事故の意味を、私たちは繰り返し問わねばなりません。