区庁舎はピロティと広場を中心にコンクリート打ちっ放しの複数の建物で構成される。このうち、区民会館(1959年)、第1(60年)、第2庁舎(69年)が前川の作品だが、区は老朽化を理由に、区民会館は改修、第1、第2庁舎などは建て替えることを決定。第1庁舎は大型連休明けの5月中旬に、第2庁舎は2026年9月以降に取り壊しが始まる。
◆「セメントの臭いが染み付いた」
23日は、区民会館と第1庁舎を担当した奥村珪一さん(90)、第2庁舎を担当した大宇根弘司さん(82)が約30人に施工当時の思い出を披露した。コンクリートといえばモダニズム建築の代表的な素材だが、当時の日本ではまだ普及しておらず奥村さんは「試行錯誤だった」と明かし「セメントの臭いが体に染み付いちゃいましてね」と現場で格闘した当時を述懐。見慣れないコンクリート打ちっ放しの建築に対し「完成後も『これでもう完成ですか』とよく尋ねられました」と懐かしそうに振り返った。
近代以前の建築には、材料に石や木材など費用がかかる自然素材が使われ、権力や富の象徴の側面があった。20世紀に入り、コンクリや鉄、ガラスなど安価な素材の登場で建築も近代化。「人間のための建築」を志向するようになった。
◆「人が集まる」民主主義の象徴に
その担い手の一人が、仏建築家ル・コルビュジエに学んだ前川だった。日本でも戦前の公共建築は重厚で権威的な雰囲気があった。奥村さんは「世田谷区庁舎の建設は、戦後の民主主義の時代。建築は市民の方を向き、市民に提供できる空間をつくろうという意識が強かった」と話した。
「市民が集まる公共建築」の象徴が24時間誰でも自由に出入りできるピロティを敷地の中央に置いたことだろう。区民会館には完成当時、結婚式場もあった。
だが、戦後10年余の当時は「まだ食うや食わず」。建築家の意気込みの一方、予算は抑えられ、コストカットに苦労したという。第1庁舎のロビーには戦後洋画壇をリードした大沢昌助デザインの巨大レリーフをあしらったが、大沢の兄弟が前川事務所に所属した縁で、「デザイン料が払えないから無料にしてもらった」と明かした。
◆利益優先の再開発に警鐘
大宇根さんは前川の代表作でやはり自身も関わった東京・丸の内の東京海上日動ビルなど、名建築といわれた戦後の建築物が再開発で次々に壊されている点に言及。「建築は長く使い続けることで景観をつくる。建築家もそれに耐える建築を造ることが課題だったが、今のまちづくりはどうすれば利益を上げられるかがテーマになっている。いつもピカピカかもしれないが、落ち着かない街になっていくのではないか」と危惧した。
主催したのは、市民団体「記憶をつなぎ人をつなぐ世田谷庁舎をのぞむ会」。メンバーの小林みどりさんは「建て替えは残念だが、実際に建築に関わった人の話を聞き、一人でもたくさんの人の記憶に残してもらえれば」と話した。
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