TBSドラマ「不適切にもほどがある!」は、バブル経済真っ只中の1986年(昭和61年)に生きる中学体育教師・小川市郎が、38年後の2024年(令和6年)にタイムスリップし、「2つの時代のリアル」を体験する物語だ。
第6話(3月1日放送)はサブタイトルが「昔話しちゃダメですか?」で“昔話”がモチーフになった。
市郎は、令和でテレビ局のカウンセラーとして働いている。市郎の孫だと判明したテレビプロデューサーの犬島渚(仲里依紗)が、ドラマ部の羽村由貴(ファーストサマーウイカ)を伴い、大物脚本家の江面賢太郎(通称エモケン・池田成志)に関する相談を市郎の元へ持ち込んでくる。市郎には知るすべもないが、90年代後半から00年代初頭に若者に絶大な支持を受けた脚本家だ。
市郎の前で、渚と羽村は青春時代に見た江面のドラマの話で意気投合する。高校生がみんな見ていたという「有名な放送室(の告白の)の場面」。誰かがゴールに向かって投げたバスケットボールのスローモーション映像など。共有する視聴体験=昔話を実演し盛り上がる2人の傍らで、市郎はほったらかしにされる。
江面は、一時代を築きながらも自慢話が多く、やや時代遅れな人物だ。羽村らドラマ部のスタッフとの打ち合わせでも、本題に入る前に「ギバちゃんがね…」「哀川翔ちゃんがね…」などと長々と昔話をし続ける。そのくせ、羽村が過去の作品を話題にすると「昔話するやつは嫌いなんだよね」などと容赦ない。昔話をしている自覚はないらしい。羽村が市郎に寄せる相談は、こんな江面とのつき合い方の悩みだった。
(羽村)「アイドリングトークというのですかね。自慢話をだらだら2時間近く。しかもそれがなんか…」 (渚)「古い!」 (羽村)「話題も、ワードセンスも“昔話”という感じ」 【中略】 (羽村)「実際、上からは『エモケンじゃ数字(視聴率)獲れない』とは言われているんです」 (渚)「自分がオワコン化しているなんて認めたくないだろうしね」 (羽村)「だからこっちも指摘しづらくて…」
市郎は、昭和で“あばずれ女子高生”として生きる娘の純子(河合優実)に、未来を見せてやろうとタイムマシンで令和に連れてくる。市郎は「常識クイズ! 令和Z世代VS昭和オヤジ世代」という番組に回答者として出演することになり、純子もスタジオを見学する。市郎は、インスタグラムの「ストーリーズ」や、人気アイドルの「坂道グループ」も「マウント取る」という言葉も意味を理解できない。Z世代の出演者との会話がかみ合わない。そのズレ加減がスタジオで笑いを誘っていたが、見学していた純子はキレてしまう。
司会者に向かって声を荒らげて歩み寄る。 「おい! 何だよ、今の…。オヤジの話ちゃんと聞けよ。さっきから若い方ばかり贔屓して。人のオヤジを小馬鹿にしやがって。謝んなよ。失礼じゃん」
番組のプロデューサーらが出てきて番組の趣旨を説明し「時代遅れのオヤジ世代を笑いつつ若者の無知を笑いつつ、双方のカルチャーへの気づきと学びを深めつつ、古い価値観を…」と弁明しても、純子は納得せずに啖呵を切る。
「わかんねー。要するに“さらしもの”じゃん。ふざけんなよ。うちのオヤジを小馬鹿にしていいのはな、娘の私だけなんだよ。どうせコケにするなら面白くやれよ。笑えねー。全然面白くねえ。38年も経ってこんなものなのかよ!」
このシーンは令和のZ世代と昭和のおじさん世代の「断絶」を描いているように見える。だがドラマは世代を超えた“つながり”を明確に意識しているように思う。
“昔話をすること”は同じ
このドラマの特徴である突然始まるミュージカルの場面で市郎は次のように歌う。
「昔話じゃない 17歳の話 しているだけ」
毎話、ミュージカル場面には脚本の宮藤官九郎が伝えたいメッセージが込められている。今回は、人は昔話をしているように見えても、それは17歳の頃の自分を始めとする「それぞれの青春」の思い出について話しているだけ。それは誰しも同じではないか、というメッセージだ。
そんな市郎に対し、出演者のZ世代のお笑いコンビが「知らねーし」「生まれてねーし」と拒絶的な合いの手を入れる。そこに市郎が割り込む。
「そんな君らも歳を取る TikTokも いずれ昔話になる」
その後で全員で合唱になる。
「おじさんが おばさんが 昔話しちゃうのは 17歳に戻りたいから」
「おじさんが おばさんが 昔話しちゃうのは 17歳には戻れないから」
この後で純子が歌声を披露し、「私は今17歳 まだ何者でもない 昔話のネタがない」
と締め括ってミュージカル場面が終わる。
「けど、今見ているこの景色。これが昔話になるんだよね…なんちゃって」と呟く純子。
この場面は、どの世代も人が“昔話をすること”は同じだと示唆していると感じる。どんな世代の人間も17歳という青春期を体験するのは同じ。だから世代を超えても人は理解しあえる、そんな思いが込められているのではないか。
Z世代だって“昔話”をする
実際、Z世代もよくよく観察すると“昔話”を頻繁にしている。筆者は大学教員という仕事柄、Z世代の若者たちと行動を共にすることがある。先日も、若者たちとある有名ラーメン店に入った際に、ミュージシャンのサイン入り色紙が壁に貼ってあるのが話題になった。彼らは「懐かしい…この歌」「あの曲よかったよね、よく聴いた…」と“昔話“に花を咲かせていた。昔話は、おじさんばかりの専売特許ではない。Z世代も大好きなのだ。
たしかに、価値観が多様化した現在、昭和の時代ほどには映画やテレビ番組や音楽で「みんなでハマって熱狂する」という経験を、若い世代は持ちにくくなっている。だからこそ、そこにある種の「孤独感」があり、他の人とつながりたいという欲求が人一倍強いのかもしれない。
人間は“昔話”で共通する体験を確かめ合い、一体感を持ってつながろうとする生き物なのかもしれない。
人間同士が共感し合えるものは何だろうか
「不適切にもほどがある!」が描いた“昔話“とは何か。それは“時代の記憶”もそのひとつかもしれない。
繰り返しになるが、現代は、人と何かを共有することがつくづく難しい時代だ。だからこそ、このドラマのように共有できる「昔話」をテーマにする物語に、人々は惹かれていくのではないだろうか。前回「ラジオ番組にハガキ、既読スルー問題…『不適切にもほどがある!』
メディア論でひもとく昭和と令和の『あるある』」という記事を配信したところ、コメント欄が読者の“あるある”“昔話”であふれたこともその根拠だ。
昨年、日本テレビが制作し数々の賞を総なめにしたドラマ「ブラッシュアップライフ」(脚本バカリズム)もまた、タイムマシンこそ出てこなかったものの、主人公が人生をやり直すなかで、小学生時代、中学生時代、高校生時代とそれぞれの時代で流行ったものを「追体験」していくディテールが描かれていた。
視聴者との間に時代ごとの「あるある」体験を共有することで、共感の輪が広がっていく。ドラマ「不適切にもほどがある!」もそうした「あるある」を通じて人と人とのつながりを模索しているように思える。筆者の周辺のZ世代の若者たちにも、このドラマは共感できると評判がいい。その理由は「あるある」「昔話」にあるのかもしれない。
水島宏明/ジャーナリスト・上智大学文学部新聞学科教授
デイリー新潮編集部