「『星一徹』みたいな“昭和の頑固おやじ”だったんです」
金沢市に住む場崎博之さん(64)は輪島市の実家で1人で暮らしていた父親の鷹峰(ようほう)さん(90)を地震で亡くしました。
以前、1月に亡き父への思いを取材で語ってくれました(そのときの記事はこちら↓)。
場崎さんは今、家主のいなくなった実家で、毎週のように片づけを続けています。
「自分もやっぱり整理つけたいんですけど、父が亡くなったというのは絶対、心の中で消えないことなので」
この日は雨の中、私の取材にこたえてくれました(以下、記者とのやりとりです)。
「今は誰もいません」
ーご実家はどちらのほうですか?
方向的には、あの鉄塔が建ってる先ぐらいですね。山を越えて、もうちょっと行ったら、田んぼ、棚田があるんですけど、その先っぽみたいな感じです。実家を出れば、ちょっと日本海が見えるっていう。きょうも金沢から来ましたけど、やっぱり地元はいいです。
ーここでお生まれになって、育ったんですね。
そうですね。高校までは、こっちにいました。父と母が建てた家があって、弟も高校までは一緒にいたんですけど、今は誰もいません。父親も母親もいなくなったんで。家の主がいなくなってしまったんでという状況で。
一緒に過ごせなかった正月
ー地震直後はどんな状況でしたか?
1月1日に地震があってすぐ電話したんですけど、全然、固定電話通じなくて。父親、携帯電話とか持ってないので。
あと地域の方にも聞いたんですけど、みなさん全体が被害を受けている中で、情報が全然入ってこなかったんで、すごく心配していました。
ーすぐにはご実家にいけなかったんですよね?
父親も高齢で1人暮らしでしたんで、心配はしていて、ふだん毎週のように帰ってはいたんです。ただ、金沢に住んでるんで、距離があって帰るにしても時間もかかりますね。
お正月はこっちで一緒に過ごせなかったんで、自分が被害に遭わずに、逆に父親が亡くなって2日後に発見されたというのは、そこがもどかしかったです。
まぁ、何て言ったらいいんだろう・・・、言葉にならないですね。
鷹峰さんは地震の2日後に自宅の玄関先で倒れているのを近所の人に発見されました。
警察からは死因は低体温症と説明され、鷹峰さんの右手は固く握られたままだったということです。
「星一徹」「昭和の頑固おやじ」
父・鷹峰さんは輪島で生まれ育ち、若いころから左官業の職人として働いてきたといいます。
輪島が好きで、息子の博之さんのもとには行かず、週に2回デイサービスに通いながら1人暮らしをしていたそうです。
ーどんなお父様だったんですか?
父親は知ってる人は知ってるんですけど、すごく頑固で、『巨人の星』の「星一徹」みたいなお父さんでした。
ちゃぶ台をひっくり返したり、それに近いこともちょっとあったりして、まあとにかく頑固で、ほんとに“昭和の頑固おやじ”みたいな父親でした。
ーどんなやりとりが印象に残っていますか?
そうですね、ちょっと親子でけんかになると、「ここは自分の家やから、おまえ、もう来んでいい」とか、そういうやりとりも。今から思えば笑い話みたいですけど、実際にはそんな実情でした。
ー今、頭によぎることはありますか?
父親はお風呂が好きやったんで。もうちょっと(この先の道を)行ったら「ねぶた温泉」って温泉があるんですけど、そこによく入りに行ってましたわ。
で、私、年末に帰ったときに一緒にその温泉に入って。それが最後になってしまったんですけど・・・
片づけ続ける理由は
博之さんはこの2か月間、ほぼ毎週、金沢市にある自宅から輪島市の実家に通い、家の中の整理を続けていて、この日も訪れました。
ー当初の実家の様子はどうでしたか?
県外にいる弟が、正月に食べる用におせちを送ったらしいんです。
それが冷蔵庫の中にあったんですけど、冷蔵庫も倒れていて、おせちも散らばっているような状況でした。ちょっと、あれを見たら、何とも言えない気持ちになりました。
ー片づけの中で、お父様の生活の手触りを感じることはありますか?
そうですね、父親はタバコが結構好きでしたので、亡くなったときにちょうど吸ってたタバコがあったんです。お骨はまだ今、実家にありますんで、お供えというか、タバコ持って帰ってお供えしています。
ー毎週、帰られて整理されていますね。
家の中がなかなか片づけられない、ボランティアさんも入ってますけど、なかなかすぐには来てくれないと思うので、自分でできることはやらんといけんかなと思ってます。
まあ家の中を片づけるってことは、自分の心の中の整理する面もあると思うんです。だから、そのままにしてても別にいいんですけど、やっぱ自分の中できれいに、元どおりにできるだけしてあげたいし、そういうのするのも自分の役目だと思ってますんで。
立ち止まれなかった日々
ー2か月間通われていますが、道中思うことはありますか?
私はこっちに実家やお墓がありますし、輪島に親戚とか友達も何人もいるんですけど、皆さんほとんど被害を受けています。この間、電気は来たんですけど、まだ水道が通じてないような状況です。
道路は、けっこうよくなってますけど、まだ陥没してたり、土砂崩れがあったり、本当の復旧途中やと思うんで。自衛隊さんや消防の方、あと民間でも一生懸命頑張っていただいとるんで、本当、感謝しかないと思います。
ーこの2か月間というのは、長かったですか、それとも短かったですか?
地震があってから、今日でちょうど2ヶ月たちますけど、あっという間だったなっていうのが実感です。やっぱり、目の前のことをやるのに精一杯で、立ち止まれないというか、前へ進むしかないと思うんで。
亡くなってから火葬まで、こっちではほとんど火葬場が使えない状況だったんで、金沢まで、葬儀屋さんにお願いして、火葬したんですけど、そういうこととか、いろいろよくやったなって、自分で思ってます。
落ち着いた時点で、いろいろ考えることも出てくるのかなと思ってますが、今はそういう余裕もないですし、まずは毎週こっちに帰ってきて、できることはやりたいなと思っています。
「絶対、心の中で消えない」
場崎さんは、最後にこれからのことと、今の思いを語ってくれました。
ー今後も毎週通い続けるのですか?
そうですね。自分もやっぱり整理つけたいんですけど、なかなか整理は簡単にできる部分とできない部分とあると思うんです。やっぱり月日というか、ある程度日がたてばそれも解決していくのかなと思います。
ー整理できない部分というのは?
これだけ能登全体に大きな被害にあった中で、父が亡くなったというのは絶対、心の中で消えないというか、絶対忘れることのできないことなので。
実家にはちょっと住めないんですけど、やっぱり自分の生まれ育った町なので、一日でも早く復旧と復興をしてほしいなと思っています。
ーお父様の存在、今どうお感じですか?
母親が去年亡くなってるんですけど、母親が、2月25日が誕生日だったんです。
自宅のすぐそばに梅の花があるんですけど、ちょうど今、きれいな赤い梅の花が満開になってまして。
それをちょっと見たら、誕生日に合わせて咲いてくれたのかなと思ってます。
父も母のもとに一緒に行って、今一緒に仲よく暮らしているかなと思っています。
(能登半島地震取材班 富岡美帆)