【前編】「能登の素晴らしさを太鼓の音に」天皇皇后両陛下が交流した伝統芸能後継者が語る「復興への思い」から続く
苦悩の末、開催を決めたお誕生日の一般参賀で、被災地へのメッセージを送られた天皇陛下。そのとき思い起こされていたのは昨秋に大歓迎を受けたばかりの石川県の人々の笑顔だったのか。
今回取材したのは、「いしかわ百万石文化祭」で、両陛下が懇談された芸術家や伝統芸能を担う若者など。天皇陛下と雅子さまのお言葉は、石川県の復興を目指す彼らにとって、心のよりどころともなっていたーー。
天皇陛下と雅子さまは’94年と’98年にも石川県を訪問された。ご成婚から数年ということもあり、その初々しいご様子も石川県の人々の印象に残っている。両陛下が白山市の「石川県ふれあい昆虫館」を視察されたのは’98年8月のこと。
同館の企画展示係長・石川卓弥さんは、当時をこう振り返る。
「天皇陛下と雅子さまが約800頭のチョウが放し飼いにされていた放蝶温室に入られたとき、蛹が金色になることでも知られているオオゴマダラが、雅子さまの髪で羽を休め、とてもほほ笑ましい雰囲気になりました。 幼虫の飼育室では、私はアゲハチョウの小さな幼虫をカップに入れる作業をしていたのですが、雅子さまにお声がけいただいたことを覚えています」 ふれあい昆虫館は建物の倒壊など、能登半島地震による直接的な被害は免れたが、一時的に来館者が減るなどの影響を受けた。
「いまは二次避難で、金沢市や白山市に来ている方もいらっしゃいます。当館の展示をご覧いただいて、少しでも元気になっていただきたいです」 輪島市や珠洲市など、甚大な被害が出ている奥能登地方。その周辺でも「がんばれ能登!」のかけ声とともに、被災地を支援する機運が高まっている。 金沢市内で茶道教場「好古庵」を構える茶人・奈良宗久さん(54)もその1人だ。
「稽古始めでは、地元の茶器などをしっかりと使って茶会を催し、それを義援金という形にして被災地に送らせていただきます」 裏千家の業躰(宗家の内弟子で直下の指導者として仕える役職)である奈良さんの実家は、加賀藩の茶の湯文化を支えた大樋焼の窯元。父で陶芸家の大樋陶冶斎は、’11年に文化勲章を受章している。 「私も大学では美術を学び、陶芸家を目指していました。
しかし大学生活の終盤から、千利休を描いた映画や茶道に関わりのある方々との交流もでき、そして裏千家の千玄室大宗匠に出会ったことから、茶道に縁を感じるようになりました。それで茶道を学ぶために京都にある『裏千家学園茶道専門学校』へ入学したのです」
全寮制の専門学校で3年、さらに裏千家のお家元に入庵して、住み込みで6年修業した奈良さん。
「入学して1~2年、20歳のころ、再び縁に導かれていると感じることがありました。祖父(九代陶土斎)が隠居していた家が、千利休居士のひ孫であり、裏千家の四代仙叟宗室居士の住居跡だったことが偶然わかったのです。そこに現在、好古庵が建ち、稽古場として使用しています」
能登半島地震のため、好古庵も被害を受けた。
「年末に京都で行事に参加していたため、私が金沢市に戻ってきたのは元日のお昼過ぎ。そして夕方ごろ、買い出しに行こうとした矢先に衝撃が来たのです。
稽古場は瓦が落ち、内外の壁に20カ所ぐらい亀裂が入っていて、庭の灯籠も倒壊していました。もちろん能登の被害とは比べられませんが、父や祖父が作った茶わんも欠けてしまって、はかなさを覚えました。やはり形あるものは、いずれは崩れてしまうのだと……」
しかし奈良さんは、これからも決して色あせないであろう思い出を作った。
「昨年10月15日の『いしかわ百万石文化祭』オープニングステージでは両陛下の前で、お点前を披露させていただきました。
その後、別室でお話しさせていただいたのです。最初に皇后陛下は、『私も茶道をしていたんですよ』とお話しになりました。そして、陛下からの『今日は舞台で、どういうお気持ちでお茶を点てられたのですか』というご質問には、『開会式でしたので、これから始まる国民文化祭が無事に終わることの祈願、そして両陛下がお越しいただいたことへの感謝、この2つを思って点てさせていただきました』と、お答えしました」
コロナ禍での茶道のあり方など、両陛下からのご質問は、予定時間が過ぎても続いたという。
「最後に皇后さまが『ご家族の皆さまにもよろしくお伝えください』と、おっしゃったのです。’19年に皇居で即位の礼が行われたとき、父が招待されて参列しました。私も足の弱くなっていた父に付き添って行きましたので、そうしたことも気にかけてくださっているのだと思いました」
雅子さまの“ご家族の皆さま”というお言葉が、奈良さんの胸に強く響いたのには理由があった。
「95歳になった父が数日前から入院していたのです。私にとっては両陛下の前でお点前を披露すること、そしてお話をさせていただくことは、一生に一度の光栄なことです。そのことを病床の父にぜひとも伝えたいと思っていました。
開会式の2日後の夕方、病院で目を閉じている父に『天皇皇后両陛下の前でのお点前披露が無事に終わりました』『皇后さまが“ご家族の皆さまにもよろしくお伝えください”とおっしゃっていました』などと、耳元で報告しました。
看護師の方も『お父様、いつもとご様子が違いますね』と言っていましたので、きっと父にも聞こえていたのだと思います。父が他界したのは翌朝、およそ12時間後のことでした。最後に父に両陛下について報告できて、本当にありがたかったです。
現状では“石川県が復興したら”ということは被災された皆様のお心を思うとまだ考えられません。ただ石川県民には、昨年10月の両陛下のご来県の感動の余韻も残っているように感じます。天皇陛下と皇后さまが、この地にお心を寄せてくださっているだけでも、勇気づけられている人がたくさんいると思います」
「雅子さまの『陛下もピアノをなさるのですよ』というお言葉に驚きました」
「2月の連休に、珠洲市にある夫の実家を訪れていた際に地震がありました。震度4でしたが、ヒビが入り、少し傾いている家屋は、ミシミシとすごい音を立てて揺れたのです。“これが震度7だったら”と思うと強い恐怖を感じました」 そう語るのは、野々市市在住の“左手のピアニスト”こと黒崎菜保子さん(61)。
4歳からピアノを弾き始めた黒崎さんは、大阪音楽大学に進学し、卒業後は石川県内で音楽教員として勤めていた。
だが36歳のとき黒崎さんを異変が襲った。 「右手の中指が、徐々に上がらなくなって、症状がどんどん悪化し、手のひらを広げても、自然に閉まってしまうようになったのです。地元のお医者さんに見てもらったのですが、原因はわからずじまいでした。東京のいい病院をすすめてくれる人もいましたが、2人の子供の育児もあり、通院するのは難しかった。それで20年もの間、ピアノから離れていたのです」 そして運命的な出会いがあった。脳溢血のために右手の自由を失いながらも、左手だけでピアノを弾き続けている舘野泉さんのコンサートが石川県であったのだ。
「音が深く、作りが大きい舘野先生の音楽に魅了されました。それからまたピアノに向かうようになったのです」 ’18年には石川県で舘野さんも審査員の1人となった“左手のピアニストのためのオーディション”が開催され、黒崎さんは2度目の挑戦で審査員特別賞を受賞。短期大学で非常勤講師を務めるなど、ピアノを教える日々を送っていた。
「オーディションがきっかけで、作曲家の方たちともお知り合いになることができました。
さらに昨年には、天皇陛下と雅子さまの前でステージに立たせていただけることになったのです。 ほかの楽器の方たちとのアンサンブルでしたので非常に緊張しましたが、演奏後は、両陛下とお話しすることもできました。 雅子さまが『左手で弾いていらっしゃいましたよね』と、おっしゃると、陛下も『私も左手の曲を知っていますよ。ラヴェル(フランスの作曲家、モーリス・ラヴェル)の「左手のためのピアノ協奏曲」という曲がありますよね』と。 この曲は本当に音楽に詳しくないと知らないような曲なのに、陛下がご存じで驚きました。また雅子さまの『陛下もピアノをなさるのですよ』というお言葉にもびっくりしました。
もちろん陛下がビオラを演奏されることは存じ上げていたのですが。思わず『いつか陛下のピアノをお聴きしたいです』と、申し上げました」 両陛下の前での演奏、そして語らいのひととき……、黒崎さんにとって“宝物のような時間”だった。
だがそれから2カ月半後ーー。 「珠洲市にある夫の実家は空き家でしたが、お墓参りもあり、よく行っていました。また珠洲市には夫の親戚たちも暮らしていました。震災直後、心配した夫が次男と車で珠洲市に向かったのです。
道に亀裂が入り、がれきがあったりで迂回しながら向かい、到着するのに15時間もかかったそうです。 そして叔父といとこが犠牲になったことがわかりました。地震発生時、叔父といとこは、こたつに入っていましたが、2階が落ちてきて下敷きになってしまったのです。
いとこの遺体は引き出すことができたのですが、叔父のほうはなかなか引き出すこともできなかったのです。火葬する場所もなく、金沢の葬祭業者さんが、2人の遺体を引き取りに来て、金沢で荼毘に付されました……」
震災発生からすでに2カ月がたとうとしている。しかし、 「両陛下は早々に、被災地を訪問するご意向を示されましたが、同時に“災害対応の支障になってはならない”ともお考えでした。慎重に検討された結果、3月下旬に日帰りで、珠洲市や輪島市などを視察されたり、被災者と懇談されたりする予定と報じられています」(前出・皇室担当記者) 能登半島では、いまだ通行止めになっている道路や、上下水道が復旧していない地域も多い。
黒崎さんはこう語る。 「水道が復旧していないことが大変で、うちの親戚の多くは金沢方面で避難生活を送っています。家を片付けたいという親戚もいますが、80歳の高齢者がとても手を出せる状態ではありません。 珠洲市内は宿泊場所もないので、ボランティアの方たちも、金沢方面からやってきて、1日に数時間しか作業ができないのが現状です」 “途方に暮れるばかり”という黒崎さんだが、すでに“能登復興のための活動”も始めていた。
「1月末に、野々市市でチャリティコンサートに参加させていただきました。出演予定者が被災で演奏できなくなり、お誘いいただいたのです。こんな状況で何人集まるだろうかと思っていましたが、140人もの人々が来てくださって、全額を郵便局を通じて石川県に寄付させていただきました。 これからもチャリティコンサートには積極的に参加していきたいです。
被害の大きかった地域でもコンサートができればよいのですが、今は難しいですね。ピアノが置いてある珠洲市のホールは、だいぶヒビが入っていました」 復旧すら先が見えない現状だが、黒崎さんにとって両陛下の存在は希望になっているという。
「昨年10月に来県いただいたとき、沿道には3時間あまりも前から多くの人たちが待っていて、“ひとめお会いできてよかった”と、みんな喜んでいました。被災地の人たちはみんな不安を抱えています。
でも、両陛下のお姿を見ることができたら、きっと元気が出ると思います」 取材の最後に、黒崎さんはこう語ってくれた。
「正直な気持ちを言えば、石川県の復興には、とても時間がかかるでしょう。それでも、天皇陛下と雅子さまには、いつか立ち直った石川県も見ていただきたいです」 長い時間をかけ、多彩な文化を育んできた石川県の人々。天皇皇后両陛下の被災地への祈りをよりどころにして、彼らが底力を見せる復興への歩みはすでに始まっているーー。
「女性自身」2024年3月12日号
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