「いつか立ち直った石川県を両陛下に」親族が犠牲になった“左手のピアニスト”が語る復興への闘い(2024年3月3日)

全寮制の専門学校で3年、さらに裏千家のお家元に入庵して、住み込みで6年修業した奈良さん。

「入学して1~2年、20歳のころ、再び縁に導かれていると感じることがありました。祖父(九代陶土斎)が隠居していた家が、千利休居士のひ孫であり、裏千家の四代仙叟宗室居士の住居跡だったことが偶然わかったのです。そこに現在、好古庵が建ち、稽古場として使用しています」

能登半島地震のため、好古庵も被害を受けた。

「年末に京都で行事に参加していたため、私が金沢市に戻ってきたのは元日のお昼過ぎ。そして夕方ごろ、買い出しに行こうとした矢先に衝撃が来たのです。

稽古場は瓦が落ち、内外の壁に20カ所ぐらい亀裂が入っていて、庭の灯籠も倒壊していました。もちろん能登の被害とは比べられませんが、父や祖父が作った茶わんも欠けてしまって、はかなさを覚えました。やはり形あるものは、いずれは崩れてしまうのだと……」

しかし奈良さんは、これからも決して色あせないであろう思い出を作った。

「昨年10月15日の『いしかわ百万石文化祭』オープニングステージでは両陛下の前で、お点前を披露させていただきました。

その後、別室でお話しさせていただいたのです。最初に皇后陛下は、『私も茶道をしていたんですよ』とお話しになりました。そして、陛下からの『今日は舞台で、どういうお気持ちでお茶を点てられたのですか』というご質問には、『開会式でしたので、これから始まる国民文化祭が無事に終わることの祈願、そして両陛下がお越しいただいたことへの感謝、この2つを思って点てさせていただきました』と、お答えしました」

コロナ禍での茶道のあり方など、両陛下からのご質問は、予定時間が過ぎても続いたという。

「最後に皇后さまが『ご家族の皆さまにもよろしくお伝えください』と、おっしゃったのです。’19年に皇居で即位の礼が行われたとき、父が招待されて参列しました。私も足の弱くなっていた父に付き添って行きましたので、そうしたことも気にかけてくださっているのだと思いました」

雅子さまの“ご家族の皆さま”というお言葉が、奈良さんの胸に強く響いたのには理由があった。

「95歳になった父が数日前から入院していたのです。私にとっては両陛下の前でお点前を披露すること、そしてお話をさせていただくことは、一生に一度の光栄なことです。そのことを病床の父にぜひとも伝えたいと思っていました。

開会式の2日後の夕方、病院で目を閉じている父に『天皇皇后両陛下の前でのお点前披露が無事に終わりました』『皇后さまが“ご家族の皆さまにもよろしくお伝えください”とおっしゃっていました』などと、耳元で報告しました。

看護師の方も『お父様、いつもとご様子が違いますね』と言っていましたので、きっと父にも聞こえていたのだと思います。父が他界したのは翌朝、およそ12時間後のことでした。最後に父に両陛下について報告できて、本当にありがたかったです。

現状では“石川県が復興したら”ということは被災された皆様のお心を思うとまだ考えられません。ただ石川県民には、昨年10月の両陛下のご来県の感動の余韻も残っているように感じます。天皇陛下と皇后さまが、この地にお心を寄せてくださっているだけでも、勇気づけられている人がたくさんいると思います」

雅子さまの『陛下もピアノをなさるのですよ』というお言葉に驚きました」

「女性自身」2024年3月12日号

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