取材・文/沢木文 親は「普通に育てたつもりなのに」と考えていても、子供は「親のせいで不幸になった」ととらえる親子が増えている。本連載では、ロストジェネレーション世代(1970~80年代前半生まれ)のロスジェネの子供がいる親、もしくは当事者に話を伺い、 “8050問題” へつながる家族の貧困と親子問題の根幹を探っていく。
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日常的にきょうだいの世話や、家族の介護、家事などを負担し、十分な学びや遊びができない18歳以下の子供を、ヤングケアラーという。 2015年ごろから注目され、今では多くの人に知られるようになった。各自治体も対策を講じているが、子供が声を上げにくいという問題が潜在的にあることは指摘されていた。
東京都は2024年2月9日ヤングケアラー支援のための新たなウェブサイト「ヤングケアラーのひろば」(ベータ版)を公開。ヤングケアラーについて理解を深めるとともに、ヤングケアラー当事者が、必要な支援につながるきっかけとしてもらうことを目的としているという。
賢治さん(68歳)は、「長患いをしていた妻の世話を、当時小学生だった娘に、任せっきりにしてしまったことを今は後悔している」という。娘は妻の介護と家事を引き受けていた。娘が19歳のときに妻は亡くなった。賢治さんとの親子関係は悪く、20歳のときに娘は家を出る。
2年前に当時娘が住んでいた北関東の自治体から生活保護申請の扶養紹介があり、娘を呼び寄せる。 賢治さんは娘が家を出てから5年後に今の妻(65歳)と再婚しており同居はできないので、娘を近くのアパートに住まわせることに。その家賃6万円と生活費の4万円を支払っており、それが老後資金を圧迫している。 【これまでの経緯は関連記事から】
「お前のせいで私の人生はめちゃくちゃだ」
2年前、コロナ禍が少々落ち着いた頃に、娘は北関東から東京に戻ってきた。賢治さんが再婚したことは風の噂で知っており、父親との心の距離はさらに遠くなっていった。 「娘が家を出るとき、もう私を解放して欲しい、というようなことを言われたんです。妻の葬式のあと、私が大学受験や専門学校への進学の話をしたら、“いまさらそんなことを言われても無理だから!”と、ものすごい剣幕で怒鳴られて、どれだけ自分が我慢をしていたかという不満をぶつけられた。
私も若かったし、妻が亡くなってしまった喪失感などもあり、まともに返事ができないまま、娘の存在を疎ましく思うようになっていったんです」 それから半年間、娘は「お前のせいで、私の人生はめちゃくちゃだ」と毒づくようになり、「10歳のときに、あの子と遊べなかった」「本当はテニス部に入りたかった」「友達と海外旅行に行きたかった」などと、不満をぶつけるようになっていった。
初めのうちは、娘に対して、ひたすら謝罪していたが、度重なれば怒りの感情が湧いてくる。「じゃあどうすればよかったんだ! 今からできることをやれ!」と怒鳴り散らしてしまった。
「娘は、今までの慰謝料を払えという。妻が亡くなってから、保険金や妻が親から相続した財産が1千万円くらいあったんですが、それを丸ごと娘に渡しました」 友達とほとんど遊べず、自由な時間がなかった19歳の女性に大金を渡すことは、あまりいい結果にならないことは想像がつく。
「お金があるから、家を出ていったというのもあるかもしれません。私も当時、仕事が忙しく、妻が亡くなって悲しかったけれど、開放感もありました。もう気にしなくていいというか……。私も娘に全てを押し付けていたのではなく、飲み会や接待を控えたり、土日はなるべく家にいるようにしたりと、我慢はしていたんです」 娘が出ていってから、ゴルフを始めた。賢治さんの性分に合っていたのか、ゴルフの練習を通じて、現在の妻と出会った。妻は長年夫の介護をしており、話も合ったという。
「妻には子供がおらず、娘に会いたがっていたのですが、関係がうまくいっていないというと、それ以上追求しませんでした。そういうさっぱりとしたところに惹かれたのかもしれません」 だから、娘が戻ってきたときに妻は「できる限りのことをしてあげましょう」と言ったという。まずは、自立することが大切だと、就職させようとしたが、高卒で職歴がない38歳の女性を雇ってくれる会社がないことは想像がつく。
「そこで、ゴルフ仲間のIT関連の会社が、猫の手も借りたいと言っていたので、娘のことを頼んだんです。娘は“週3日勤務ならやる”というので、その条件も飲んでもらいました」 最初こそ、決められた通りに通っていたが、だんだん体調不良やうつなどを理由に、欠勤しがちになったという。
昼になると、会社中の菓子を食べてしまう
娘は半年ほど通勤していたが、やがてフェードアウトしてしまったという。しかも、そのことを娘から知らされたのではなく、就職を頼み込んだ社長から半年後に聞いた。
「彼はゴルフ仲間でもありながら、私が定年まで勤めた会社のウェブサイトを、私の紹介で制作しているので、私に恩があるんです。年齢も私の方が15歳年上ですしね。前はよく話しかけてくれたのに、娘が働き始めて1年後あたりから、私を避けるようになった。おかしいと思って聞くと、娘が原因だったんです」 賢治さんの娘は、最初の頃は働く意欲があり、仕事の勉強もしていたという。最初の仕事は、営業用の手書きの手紙をフォーマットに従い、1日30通程度書くことだったが、字も綺麗で作業も早かった。宛名を書きながら、業界の傾向を分析しており、雑談交じりで話していた。
その分析力を見抜いたチームリーダーが、営業の手紙書きに加えて、アタックリストに加える会社のサイト分析の仕事を振ったあたりから、雲行きが怪しくなっていった。
「体調不良で会社を休んだり、お酒の匂いをさせながら出社したこともあるそうです。また、娘は困窮していた時代の名残なのか、昼になると会社のお菓子置き場から、せんべいを持ってきてボリボリと音を立てて食べていたそうです。また、会社の差し入れ、お中元やお歳暮でいただいたものが放出されると、誰よりも早く手を伸ばしていたとか。なんだかもう、色々恥ずかしくて、消え入りたいような気持ちでした」 仕事をフェードアウトする前に、同僚が「良い才能を持っているんだから、頑張りな」と励ましてくれたが「体調不良でできません」と帰ってしまったそうだ。
「娘が中学から高校時代、勝手に遅刻したり早退したりしていたんです。学校に呼び出され、先生の話を聞くと娘はすぐに“お母さんが病気なので、帰ります”と言っていると指摘されたことを思い出しました。なんというか、成長への挑戦や、勤勉であることの訓練を避ける性格であることは私も把握していたんです」 チャレンジすることは苦しい。そこに到達するまでに、辛いことを続けなければならないからだ。一つの目標に向かって進む意志があっても、母の介護があると中断せずにはいられなくなる。
「娘はおそらく、妻の介護生活で、なんでも諦める癖がついてしまったんだと思います。かつては“お母さんの病気”でしたが、今は“体調不良”を水戸黄門の印籠のように使っている。そういうふうに成長してしまったから、今から矯正するのは難しいと思うんです」 怠け癖は誰にでもある。学校生活でそれを矯正され、勉強や運動をすることによって、能力を磨き蓄積することの苦しさと楽しさを知る。
そして、それが社会人になったときに、キャリアを蓄積する喜びにつながっていく。 賢治さんの娘は、母親の介護という大義名分が与えられたために、成長に挑戦する力を育てることができなかったのではないか。賢治さんは65歳で定年後、妻とのんびり過ごしていたが、春から再就職して、娘の生活を支えるという。それが因果応報なのか、なんなのか……社会が抱える問題で、親がかりの大人が増えているという。
それは、社会の逃げ道が多くなったことも関係しているのではないかと感じるのは、考えすぎだろうか。
取材・文/沢木文 1976年東京都足立区生まれ。大学在学中よりファッション雑誌の編集に携わる。恋愛、結婚、出産などをテーマとした記事を担当。著書に『貧困女子のリアル』 『不倫女子のリアル』(ともに小学館新書)がある。連載に、 教育雑誌『みんなの教育技術』(小学館)、Webサイト『現代ビジネス』(講談社)、『Domani.jp』(小学館)などがある。『女性セブン』(小学館)などに寄稿している。
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