桐島容疑者を送検 公安警察の敗北を悔やむ(2024年2月28日『産経新聞』-「主張」)

桐島聡容疑者の手配ポスターに「手配を解除しました」のステッカーを貼る警察官

 

 警視庁公安部は、連続企業爆破事件を起こした過激派「東アジア反日武装戦線」のメンバー、桐島聡容疑者を昭和50年4月、韓国産業経済研究所爆破など5事件に関与したとして、爆発物取締罰則違反と殺人未遂の容疑で書類送検した。

 桐島容疑者は韓国産業経済研究所の事件で指名手配され、逃亡は実に49年の長きにわたった。今年1月、容疑者自らが神奈川県鎌倉市の入院先で「最期は本名で迎えたかった」と名乗り出たが、すでに病状は進んでおり、詳細な供述を得られないまま死亡した。

 長期の逃亡を許した挙げ句に容疑者の死亡に至ったことは、公安警察の敗北といえる。

 本来なら、逮捕、送検、起訴の手順を踏み、公判の場で被告本人から贖罪(しょくざい)と反省の弁を引き出すべきだった。

では、桐島容疑者は勝ったのか。他紙のコラムは、死の直前に名乗り出た行動を「彼なりの『勝利宣言』だったのかもしれない」と書いた。

 そんなことはあるまい。

 8人が死亡、約380人が負傷した三菱重工ビル爆破事件をはじめとする彼らの一連の爆弾闘争は、革命はおろか、何ら世の中を変えることに結びつくことはなかった。

 その独善的で残虐な事件の数々は、結果として新左翼運動衰退の契機となっただけだ。彼らは紛れもなく敗者である。

 桐島容疑者は病床での聴取に「後悔」を口にしたという。その中身こそが重要だった。

 以前に公安当局者から「白は完黙、赤黒は語りたがる」と聞いたことがある。

 ヘルメットの色からの符丁で、白ヘルを被(かぶ)る革共同系の革マル、中核は完全黙秘を通し、共産同(ブント)の赤ヘルアナキスト系の黒ヘルは闘争や自身のことを次第に能弁に語るというのだ。他に革労協の「青」などがある。

 赤ヘルからの派生に「よど号グループ」や「日本赤軍」があり、桐島容疑者の「東アジア反日武装戦線」は黒に属する。グループのリーダー格、大道寺将司・元死刑囚は、獄中で句集を出版した。

 桐島容疑者には闘争の総括や逃亡の詳細を存分に語ってほしかった。敗者をして真に敗れせしむるために。その機会を失ったことが何とも悔やまれる。

 

逃亡という敗北、桐島聡容疑者を書類送検(2024年2月28日『産経新聞』-「産経抄」)

 あるテロリストが残した句を引く。<捨てし世を未練と思ふ遠花火>。過激派「東アジア反日武装戦線」を主導した大道寺将司元死刑囚である。世の中を震撼(しんかん)させた連続企業爆破事件で死刑が確定し、平成29年に獄中で病死した。

▼一味は潜伏、沈黙のうちにテロを重ね、逮捕されると凶暴な本性をあらわにした。法廷で「革命兵士」と自称し、机やいすを蹴って暴れたこともある。大道寺元死刑囚が公の場で初めて被害者に謝罪したのは、口火となる昭和49年8月の三菱重工ビル爆破事件から実に25年後だ。

▼それとて自らが死刑廃止運動に関わる中で、被害者の声を無視できなくなったがゆえの軟化という。市民に犠牲を強いた「革命」を含め、はがれたメッキの下に見えたのは独善という地金だった。むろん、テロに膝を折るほど柔弱な日本ではない。

▼逮捕を逃れていた桐島聡容疑者が書類送検された。「桐島」を名乗り病死した男が、本人と特定されたからである。長らく「内田洋」の偽名を使い、神奈川県内で暮らしていた。「うっちー」などの愛称で呼ばれ、市井に溶け込んでいたとも聞く。

▼事件としては公安の敗北に違いないが、桐島容疑者の勝ち逃げでもない。半世紀近い逃亡と沈黙が意味するのは、革命の敗北だろう。本名に倍する春秋を偽名で送った代償が、末期まで受診できなかった大病である。死の床で口にしたとされる「後悔」の、中身を聞きたかった。

▼逃亡生活の実相も被害者らへの思いも確かめるすべはない。<短詩さへ詠めぬを嗤(わら)ふ冬の蠅(はえ)>。大道寺元死刑囚は死の数カ月前、骨髄腫の痛みの中でそう詠んだ。句ににじむ自嘲にすら痛憤を禁じ得ない。語らずして死んだ桐島容疑者には、なおのことである。