孤独死は「かわいそう」ではない!自らの足で生き続けた証というケースも、私たちは最期の一人旅をどう過ごすか(2024年10月16日『Wedge(ウェッジ)』)

キャプチャ
人生の最期が一人というのは、自立して生き続けた証でもある(Butsaya/gettyimages)
 孤独死は、ことさらにその悲劇性が強調される。多くの場合、周囲に誰もいない淋しい最期として報道され、現代社会の闇のように扱われる。
 大原麗子山口美江梓みちよ宍戸錠野村克也ら多くの著名人が家族から看取られることなく、亡くなった。この人たちは、全盛期は、いつもその人を中心に人だかりができたような華やかな存在だったから、ひとりで旅立ったと聞けば、おのずとそこに哀れさのにおいをかぎとりたくなる。
 ただ、忘れてはいけない。孤独死することができる人は、死の直前まで自立していた人だけという事実である。
 2000年に世界保健機関(WHO)は、「健康寿命」という概念を提唱している。健康寿命とは、「健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間」を意味し、寿命と健康寿命の差は、健康を失って日常生活に制限が生じている期間を意味する。健康寿命と寿命とがほぼ一致していることが望ましい人生であることは、言うまでもない。
 その観点から孤独死を考えてみれば、健康寿命をすでに終えて、お迎えを待っている人が、孤独死できるはずがない。トイレや入浴などの日常生活を介護者に頼る人は、そもそも一人暮らしができない。当然、孤独死など不可能である。オムツを代えてもらったり、食事を口まで運んでもらったりして、人に頼りつつ晩年を過ごして、最期の時を迎えるのであろう。
 対照的に、一人で死ぬことができた人は、寿命と健康寿命の差がほとんどなかったことを意味する。この人たちは、誇らしい、独立自存の生涯を送れたことを、その逝き方をもって証明している。
 もちろん、家族・親族との不和があったのではないか、年とともに気難しくなって、誰も寄り付かなかったのではないかなど、いくらでも詮索は可能である。しかし、生涯を自分らしく過ごし、死の直前まで誰の手も借りずに、自分の足で人生の歩みを続けてきたということを忘れてはならない。
野生動物の孤独死
 登山や野外活動をする人々にとってはよく知られているが、山を歩いていて、動物の死骸を目にすることはめったにない。シカやタヌキ、サルといった動物が不意に藪の中から出てきて驚くこともあるし、遠方に黒い大型の動物の姿を見て、腰を抜かすこともあるだろう。しかし、これらの動物が死んで横たわっているのを見たことのある人は、ほとんどいない。
 野生動物の多くは、目立たない場所で、ひっそりと命を閉じる。それは、「孤独死」という語が不適切なほどに、まったくもって自然なことである。
 動物の場合、捕食者に食べられて死ぬ場合もあれば、飢えや寒さや病気で死ぬ場合もある。後者の場合、けもの道の中央で行き倒れるように死ぬことはない。
 動物は、病んだり、飢えたり、凍えたりすれば、結果として体力を消耗し、動作も鈍くなり、捕食されるリスクが高まる。それをさけるために、岩陰や木の穴など、捕食者に気づかれにくい場所に身を隠す。そして、そこでじっと体力の回復を待っているうちに、命が尽きてしまうのである。
 動物たちは、死に至る病でなくても、病気やけがをすれば、安全な場所を見つけて、そこに横たわる。この行為は、彼らが本能的に捕食者から身を守ろうとする結果でもあり、自然の中ではごく普通の現象である。
 ここで、動物たちが行動を控えるのは、必ずしも死を前にしたときだけではなく、むしろ、病気になったときの一般的な行動パターン(「シックネス・ビヘイビア」と呼ばれる)にすぎない。余計な活動を控えることで代謝資源を節約し、代謝にともなって発生するフリーラジカル(不対電子をもつ原子・分子。細胞を傷つけてしまう)の産生を最小限にとどめることができる。
 老いた動物が森の片隅の目につきにくいところに身を横たえるとき、彼らに「死の予感」があるわけでは、おそらくないのであろう。むしろ、強い倦怠感を自覚して、安全なところに身を隠しているだけであろう。そして、そこで休んでいるうちに病気・ケガが回復して、また、元気をとりもどすかもしれないが、そうならないでそのまま息を引き取ることもある。
 動物たちの孤独死は、野生の生涯の最期を締めくくるものである。悲劇的なものではなく、むしろ自然の摂理がもたらす壮大なドラマの一部に過ぎない。彼らは他のいかなる存在にも頼ることなく、自らの本能に従って隠れる場所を探し、そこに身を横たえて、静かにその生涯を終える。そして、その場所で母なる大地に帰るのである。
ペットの孤独死
 この点は、私たちの身近な存在である飼い犬や飼い猫にも共通している。ペットは、その多くが飼い主の家のなかで、孤独死する。彼らもまた、命が尽きる直前には隠れられる場所を選び、誰に看取られることもなく、ひっそりと息を引き取ることが多い。
 飼い主が外出中や寝ている間に、ベッドの下や家具の隙間で静かに命を終える。飼い主一家に見守られながら息を引き取るというような、感動的なシーンはめったにない。気が付いたら死んでいるのである。
 死の間際になると隠れようとするのは、動物の本能である。飼い犬や飼い猫は、生涯のほとんどを飼い主家族と一緒に暮らしている。その結果、社会性も身について、どうすれば、かわいがってもらえるか、どうすれば食べ物をもらえるかなどに習熟する。文字通り「愛玩動物」であるから、どうすれば人に愛されるか知っている。
 しかし、生涯の最期にあっては、動物としての本能の方が強く表れる。飼い主に配慮などしていられない。ともかく、だるくて、眠くて、動きたくないのだから、愛嬌を振りまいていられない。飼い主にとってはつらいであろうが、おそらくは、「放っておいてくれ」というのが猫、犬の本音であろう。
 「愛玩動物」として、飼い主たちに愛されるために生き続けてきた、彼らにしても、最期は「一個人」ならぬ「一個犬」、「一個猫」として、野生に帰る。そして、自然の摂理に身を任せて、生涯を終えるのである。
孤独死は、「孤高の死」でもある
 人は、孤独死をことさらに憐憫の対象としたがる。人間は弱いもので、自分より哀れな者、惨めな者を見つけたがる。その人との比較によって、本当は情けない自分を、それでも何とか持ちこたえさせようとする。
 しかし、孤独死に関しては、大きな誤解がある。そもそも、独居高齢者が皆、淋しくて、辛くて、悲しい存在ではない。そのように見なすことを、大きなお世話だと感じる、誇り高き高齢者もいる。
 核家族化した今日にあっては、独身の高齢者のみならず、配偶者と死別した人も、単身生活を送っている。この人たちを押しなべて、哀れで、みじめで、気の毒な存在と見なすことは、まったくもって失礼な話である。まして、孤独死についても、その多くは、「みじめな死」どころか、「誇り高き死」ですらある。
 たとえば、宍戸錠は、糟糠(そうこう)の妻を亡くして以降も10年の長きにわたって単身生活を続け、自宅の火災という大惨事に見舞われながらもたくましく生き、86年の長寿を全うした。
 亡くなる前日も、近くの商店街を悠然と歩く姿が目撃されたと言われている。この人の死を、いったい、誰が何の資格をもって、「哀れな死」と断じることができるのか。
 晩年も豪放磊落な「エースのジョー」で通し、最期まで尊厳をもって生き、そして、逝ったのである。私どもは、その死を憐憫をもって見るのではなく、むしろ、畏敬の眼差しで見つめるべきではなかったのか。
最期の旅は誰にとっても一人旅
 孤独死を悲劇的なものだと決めつけることはできない。最期まで自立した生活を送った結果の、穏やかな死である場合もある。もちろん、死亡日時推定、特殊清掃、遺体の埋葬、遺品整理に伴う混乱を思えば、できれば孤独死は避けるにこしたことはない。
 その一方で、家族・親族が付き添うなかでの死とは、当事者にすれば、最期の瞬間まで来客に対する気配りを強いられるということでもある。それは、過酷な要求である。
 見舞客というものはまことに注文の多い存在であり、何とこの期に及んでも、なお気の利いた「辞世の言葉」を期待しているのである。しかし、意識が遠のくなかでそんなことができるはずがない。
 私たちは、独居高齢者たちをひとまとめに憐憫の対象にするべきではないし、孤独死をめぐって死者の晩年を詮索すべきでもない。人は皆、誰かと死ぬことはできない。最期の旅は、誰にとっても一人旅である。生きること、死ぬこと、一人であること、それらをめぐる死生観を再考する時期に来ているといえる。
井原裕