保守のプリンセス・高市早苗がいよいよ総裁選へ…でも、彼女に「決定的に欠けている」ものがあった(2024年9月17日『現代ビジネス』)

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高市早苗は、安倍元首相の「正当な後継者」であるといわれる。
講演会や著書も大人気の保守派の大本命。しかしながら現職議員からの支持はいまいちのようだ。この政治家は「悪党」となって自民党をまとめることができるか。
 
永田町取材歴35年。多くの首相の番記者も務めた、産経新聞上席論説委員乾正人による、「悪人」をキーワードにした政治評論。まさかの岸田首相退陣により揺れる自民党総裁選、有力候補者たちを独自の目線で切る。
※本記事は、乾正人『政治家は悪党くらいがちょうどいい!』(ワニブックス刊)より一部を抜粋編集したものです。文章内の敬称は省略させていただきます。
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安倍の死を最も悲しんだ政治家
日本初の女性宰相候補と言われ、月刊「Hanada」など保守言論界から絶大な支持を得ながら、あと一歩、二歩及ばないのが、高市早苗である。
三年前の自民党総裁選では、安倍晋三の全面バックアップを受け、大健闘したが、伸び悩んでいる。
以下は、二年前に彼女について書いた論評である。
親族以外に世界中で安倍の死を最も悲しんだ一人が彼女であるのは、間違いない。
暗殺されたのが、こともあろうに彼女の選挙区がある奈良県であり、銃撃直後に「(参院奈良選挙区は自民党優勢で)二回も応援が必要ないのに高市が無理を言って元首相にきてもらったからこんなことになった」というデマ、中傷まで流れた。
それでなくとも岸田らと総裁の座を争った自民党総裁選で善戦できたのは、安倍の存在あってのこと。元首相自ら受話器をとって票集めに奔走、あわや決選投票進出か、というところまで追い込んだ。総裁選後に自民党三役である政調会長を射止めたのも元首相の後ろ盾が最後の決め手となった。
高市は、平成二四(二〇一二)年の自民党総裁選で、清和会を離脱した。総裁選に立候補した当時の派閥会長、町村信孝ではなく、再起を図る安倍を全身全霊で応援するための「脱藩」だったが、派閥の仲間からはスタンドプレーとみられ、いまだに無派閥だ。
次回の総裁選にも立候補するには、二十人の推薦人を確実にするため新たに「高市グループ」を結成するか、清和会に出戻るしかないのだが、後者は、最大の理解者だった元首相なきいま、ほとんど不可能に近い。
ただでさえ、派内には萩生田光一西村康稔松野博一らとポスト岸田を狙う幹部が目白押しなのに、高市の座る席があろうはずはない。
新グループ結成も至難の業である。一時は総理の座をうかがう勢いだった石破派が空中分解したのも、ライバルの安倍から徹底的に人事でメンバーが干されたり、一本釣りされたこともさることながら、政治資金集めに難渋した点も見逃せない。
理念と政策だけでは、人は集まらない。カネとポストの切れ目が縁の切れ目なのは、昔も今も永田町の真理なのである。
ただ、彼女にはまだツキが残っている。
幸いだったのは、岸田が内閣改造党役員人事で、高市を無役にすることによって起こるであろうハレーション、つまり保守層の離反を恐れ、経済安全保障担当相というポストをあてがったことだ。
見栄えが良くて、官僚の部下も少ない「経済安全保障」担当に彼女を据えれば、虎を野に放つ愚は避けられる。岸田にとって実害のない渡りに船の好手だったのである。(『安倍なきニッポンの未来──令和大乱を救う13人』ビジネス社)
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二つの天井をぶち破る悪知恵が必要
ただ、若き日の高市は、そうではなかった。両親が共働きのサラリーマン家庭に生まれ、大学も政治家をあまり輩出していない神戸大学経営学部で学んだ彼女は、政界に何の伝手もなかった。今どき珍しい「叩き上げ派」なのである。
大学卒業後、松下政経塾に飛び込み、ワシントンの米下院議員事務所で下働きをするなどの武者修行を経て、テレビ朝日の深夜番組に蓮舫らと出演してから政治家への道が開けてきた。
各局でテレビ出演を重ね、知名度をあげた彼女は、平成四(一九九二)年の参院選に奈良選挙区から自民党公認候補として出馬すべく公認申請を県連に提出した。ところが、奈良選挙区には世襲の新人候補が準備をしており、調整は難航した。困り果てた県連は、県連の拡大役員総会を開いて投票で候補者を決めることにし、僅差で世襲候補が選ばれた。収まらない高市は、無所属で参院選に挑戦するも件の世襲候補に惨敗した。
めげない彼女は、翌年の衆院選に奈良選挙区から無所属で出馬し、見事当選した。
若き日の高市は、ギラギラとした野心をたぎらせ、本人が認めているようにエネルギッシュな「肉食系」だった。いわば「悪党政治家」予備軍で、誰彼構わず声をかけ、コミュニケーション能力も高かった。
当選後ほどなく、柿沢弘治率いる自由党に入党し、その年のうちに同党が新進党に合流したため、二回目の選挙は、新進党公認で出馬し当選した。
転機となったのは、平成八(一九九六)年。新進党を離党し、自民党に鞍替えしたのだ。新進党に未来はないと、早々と見切った変わり身の早さは、「善人政治家」にはとてもできない。
自民党に移籍してから十年は、他の議員同様、修行を重ねて少しずつキャリアアップしていったが、安倍晋三が平成一八(二〇〇六)年に首相になると、内閣府特命担当大臣として初入閣を果たした。
第二次安倍政権では、「えこひいきが過ぎる」との声が安倍派内から出るほど、安倍は高市を要職につけ続けた。自民党政務調査会長を皮切りに、総務大臣マイナンバー担当大臣などを歴任させたのも将来の総理候補として育てようという意図からだった。
だが、最大の理解者で、庇護者だった安倍はもういない。
しかも皮肉なことに、当選回数を重ね、大臣や党の要職を何度も経験したことによって政治家として成熟し、かつてのギラギラしたエネルギッシュさが薄れた。鋭すぎた角がとれて「善人政治家」化してしまったのである。
自民党には、女性政治家が総裁になったことのない「ガラスの天井」の他に、自民党生え抜きでないと首相になれない「生え抜きの天井」もある。
この二つの天井をぶち抜くのは、相当の腕力と悪知恵が必要だ。つまり、「善人政治家」では無理なのである。彼女が再び「悪党政治家」になれるかが、日本初の女性宰相誕生への最終関門となろう。
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乾 正人(政治コラムニスト・産経新聞上席論説委員)