問われるメディアと行政の姿勢 ある環境官僚の死から考える「水俣マイクオフ問題」(2024年7月9日『テレビ朝日系(ANN)』)

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1990年に当時の環境庁事務次官に次ぐ庁内ナンバー2の企画調整局長に就任し、裁判で争われていた水俣病の認定訴訟で、国側の担当者として水俣病に向き合った山内豊徳さん
 
水俣市で行われた懇談の場で、水俣病患者らが苦しみなどを訴えた際に、環境省の職員が発言を遮った後、マイクの音声を切った「マイクオフ問題」を受けて、8日から水俣市で再懇談が始まった。
伊藤信太郎環境大臣は謝罪し、発言時間の制限もなくなったが、それで良いのだろうか。違和感を覚えていた私は、環境省の前身・環境庁時代から対応を見続けたベテラン記者を訪ねた。
「あの問題はね、いつか起きると思っていました」
この道50年超の記者の視線から見えてきた環境省が目指すべき姿勢と、それを実行しようと患者と国のはざまで苦しみ、自ら命を絶った一人の環境官僚の足跡を追った。
テレビ朝日報道局・川崎豊)
「懇談はアリバイ作り」環境問題を問い続ける81歳の記者
業界紙「エネルギーと環境」の現役記者でもある清水文雄さん(81)は、ちょうど環境庁が生まれた1971年頃から記者を始め、環境問題を追い続けてこの道50年以上になる。
「(今までの)懇談はアリバイ作りという感じがずっとしていました」
歴代幹部を取材してきた清水さんの水俣病への取り組みに対する環境省の評価は、「抜本的な解決に対する意欲に欠け、省の果たす役割を軽視している」と手厳しいものだった。
「患者側に寄り添うというのは字面だけで実態は聴き置くだけ、それ以上でも以下でもない。そういう対応がずっと一貫していた。これは必ずいつかは表面化すると」
5月にマイクの音声が切られたことで問題が大きくなった時、清水さんに驚きはなかったという。
「いつかは起きる」という言葉。私は別の場所でも聞いていた。それは環境省内だった。
 環境省幹部が放った信じられない一言
「遅かれ早かれ起きるべくして起こっただろう」
環境省の幹部に今回のことについてどう思うか聞いた時の最初の一声だった。その幹部は省内でさえも、そもそもなぜ懇談をやっているのかわかっていない職員が多く、懇談をやること自体が目的となっていたと指摘した。省内の多くは現在の動きを冷ややかに見ているという。
これとは別に、私は数年前に省内で衝撃的な言葉を聞いていた。ある環境省の幹部と雑談していた際「水俣は(患者が)死なないと終わらない」と軽口をたたいたのだ。思わず忘れないように、すぐに書き留めた。水俣病の対応に当たる担当部局の幹部の言葉だ。責任ある立場の人がなぜこんな言葉を…信じられない思いだった。
清水さんも、環境省の姿勢はすぐに変わることはないだろうと疑いの目を向けている。「公害の原点」とは言いつつも、環境省の歴代トップの水俣病への認識はもう終わったことという認識を持つ人物が多く、その意識が省の職員にも共通していることを肌で感じていたからだ。
「でも悲惨ですよ、現地にいくと、本当に」
 熊本にも何度か足を運んだ清水さんは想い出すようにそう話した。
現在は、チッソ工場が垂れ流した水銀を含むヘドロがたまっていた水俣湾の一部は埋め立てられ、サンゴ礁が見られるほどに回復している。
「だけど、それで終わりじゃないでしょ。人間をどうするんだ。人間の生活の破壊、生活のこれからどうするんだということについては何も終わっちゃいないですよ」
実際にいったい何人が被害にあったのか、水俣病の全容は今も分かっていない。これまで患者認定と救済について2度の政治決着が図られてきたものの、同じ海を囲む対岸では救済されておらず、まだ解決したと言える状況ではない。つまりこの問題は、マイクを切ったことだけに問題があるわけではないのだ。
これが再懇談だけで終わってしまうのであれば意味がない。環境省は向き合っている、あるいは寄り添っていると言えるのだろうか。
 自ら命を絶ったナンバー2
かつて水俣病に向き合おうとした一人の官僚がいた。山内豊徳(やまのうち・とよのり)さん。1990年に当時の環境庁事務次官に次ぐ庁内ナンバー2の企画調整局長に就任し、裁判で争われていた水俣病の認定訴訟で、国側の担当者となった。
当時、熊本の水俣病患者の発生は1960年に終わったというのが厚生省の見解で、その後起こされた患者との裁判で、山内さんが着任した1990年には裁判所からの和解勧告が出されたが、国はこれを拒否した。この国側の考えを説明する立場が、環境庁の企画調整局局長の山内さんだった。
東大法学部出身で国家公務員上級職試験の合格者中2番目の成績で当時の厚生省に入省。以来、生活保護や「てんかん」患者の支援に取り組むなど、一貫して弱者の側に立ってきた山内さんだったが、環境庁に移ったことで弱者である患者と対立するポジションに置かれた。
当時の映像が残っていた。1990年10月12日。水俣病の未認定患者とその遺族らが、国や熊本県チッソに約13億円の損害賠償を求めた控訴審で、福岡高裁は原告と被告に和解勧告を出した。会見で、環境庁の企画調整局長だった山内さんは和解勧告に対し、環境庁が拒否姿勢を変えないことを示唆する発言をしていた。その表情は険しく、言葉は慎重に選ばれていて歯切れの悪いものだった。
このおよそ2か月後、当時の北川石松環境庁長官水俣を訪れた12月5日、山内さんは自宅の2階で自ら命を絶った。53歳だった。
今回、妻の知子さんに話を伺うことができた。まず最初に仏壇に手を合わせたが、そこで山内さんの写真を見せてもらい驚いた。映像で見たような山内さんとは全く違って、とてもいい笑顔をしていたからだ。話をきくと、山内さんは話をよくする筆まめな優しい夫ということだった。
知子さんは山内さんのことについて、35年も前のことなのに、まるでついこのあいだまで豊徳さんがいたかのように話してくれた。水俣病と向き合うようになったとたん、休みでも電話が自宅に来るようになったという。あるいは家に帰ると書斎にこもって手紙を書き、家を出る時には玄関に何通も書いた手紙を置いて、それを知子さんが郵送するような状態だった。
水俣病の実態に向き合い、何とか解決する方向へ進めようとしていたようだが、国の方針は簡単には変えられない。温厚だった山内さんは亡くなる数日前には知子さんに声を荒げることもあった。家庭で話はよくするものの、仕事の話は滅多にしなかった山内さんが「この仕事はやりたくない」と妻の知子さんにも子供たちにも漏らしていたという。
知子さんには、自分の置かれた立場と患者たちの窮状のギャップに苦しんでいたのではないかと映った。多くの官僚が国の代弁者に徹する中で、患者の人達の話に耳を傾け、やがて孤立を深めていったのではないだろうか。
「一人じゃ解決できる問題じゃないのに、誰も助けてくれなかった」
「苦しんだ。だけど分かってもらえなかった。限界だけれども、水俣の患者の方にも申し訳ないという思い。それしかなかったのかな。でも私は逃げてほしかった」
山内さんの笑顔の写真は、自宅を訪れた際、伏せられていた。知子さんはこの写真を気に入りつつも、今も目が合うと何も手につかなくなることがあるという。
水俣病の被害に向き合うということは生半可なことではない。ましてや一人で解決できるということでもない。まったく異なる印象を持った山内さんの写真を前に、私は山内さんがもし生きていたら、このマイクを3分で切ったという問題をどう見るか聞いてみたくなった。
「マイクオフ問題」を起こしたもうひとつ要因は
「役人には珍しいヒューマニストでした」
環境庁開庁時からの記者だった清水さんも山内さんを知っていた。一緒に食事に行ったり、酒を飲んだりしたこともあった。山内さんが自ら命を絶ったことを知り、何かできなかったのか、何よりそれほど悩んでいたことに気づけなかった自分が情けないと思ったと当時を振り返った。
今回話を伺いに行った際、清水さんはこちらが問いかける前に山内さんの名前を出し、少数でも現場に患者側をおもんばかる人がいれば、自ら命を絶つということは起きなかったのではないかと話した。
一方で、こんな言葉も付け加えた。
「マスコミも悪いと思う。あれがなければ問題にはならなかった。ローカルな問題と片付けてきていた」
これには心当たりがある。「マイクオフ」問題の時に感じた違和感の正体に触れたような気がした。
メディアの「無関心」
毎年6月、環境省では「全国公害被害者総行動デー」に、公害被害者が一同に介し大臣と向き合って要望するという場がある。私も環境省記者として2年間で2回取材した。
今も水俣病の症状に苦しむ患者の方がいる。何回聞いても心を打つ言葉なので、ぜひ映像を見てほしい。
今見返しても感じる、今まで孤独に苦しみ続けた人々の精魂込めた重い言葉、叫びだ。
この場でもうひとつ印象的だったのは、反対側に机を並べる環境省の官僚側の動くことないような冷たい空気だった。いずれの大臣もこういった訴えを直にきくことはあまりないようで真剣に聴いていたが、官僚たちは確かに聴いてはいるが、その訴えにあえて抵抗しているような冷たいものを感じた。
さらに、この場にカメラを出していたのは2回ともテレビ局ではテレビ朝日だけだった。記者も通信社と熊本や新潟など関係する地元紙の記者含め数人で、ほぼメディアとしても「スルー」状態だった。
実はスルーしたのは私も同じだった。初めて取材した2022年、強い衝撃を受けたまま、ほかの取材を優先し、今思うと申し訳ない限りだが、私はこの出来事を記事にしなかった。記事に出来なかったことがずっとひっかかっていて、翌年の訴えは放送にこぎつけた。
熊本や新潟など、水俣病が起きた場所以外では、患者らの言葉はほとんど報じられることはなくなっていた。あの「マイクオフ問題」が起きる前の公害や水俣病を取り上げるメディア環境は、このような無関心な状態だったのだ。
 根本的な解決を目指さない限り「マイクオフ問題」は繰り返す
今回の再懇談は、主要なメディアで取り上げられることになるだろう。環境行政を見続けた清水さんは、今回注目が集まったことが今まで硬直化していた環境省の対応に新しい息を吹き込み、解決につながるきっかけにできるのでないかと望みを繋ぐ。
「公害の歴史の総ざらい。大臣にしろ、幹部にしろ、メディアにしろそういう機会だと思う」「ここを逃したら20年はない」
清水さんはこう指摘する。環境省は認めたがらないだろうと前置きしつつ、この省は水俣病という原点から発足し、対策予算が増加するのと一緒に省が大きくなってきた歴史があるという。客観的に見れば水俣病が68年解決してない中で、組織がどんどん大きくなり予算もついて「利用してきた」といわれてもおかしくないのではないか。
「これほど原因者がはっきりしているのに、未だに責任を十分にとっているとは言えない。環境省は今こそ今までの歴史を清算し、水俣病の患者らと真摯に向き合い、根本的な解決を図るべきだ」
ここで解決できなければ、水俣病の特措法ができて15年解決できなかった問題が前進することはないだろうと行く末を案じた。
一方で亡くなった山内さんの妻・知子さんが言うように、私はこの問題は1人では決して解決できない問題だと思う。環境省は「寄り添う」ことや「原点」について本当の意味で向き合わなければ、「マイクオフ問題」は形を変えて繰り返すだろう。また本当の意味で水俣と向き合うのであれば、向き合う職員を孤独にせず、省をあげて支えてほしい。
3日間行われる懇談はどのような展開になるだろうか。環境省やそれを報じる我々も本当の姿勢が問われる。