「泣く子は入るな」追い出され 風化させない、語り継ぐ85歳 祖父母、弟妹失った喜屋武さん・沖縄慰霊の日(2024年6月23日『時事通信』)

キャプチャ
沖縄戦の体験を話す喜屋武幸清さん=9日、那覇市
 約20万人が犠牲になった沖縄戦で、当時6歳だった那覇市の喜屋武幸清さん(85)は、祖父母や幼い弟妹を失った。
キャプチャ2
沖縄戦久米島に上陸した米軍から逃れようと、住民が避難した洞窟
 「次の戦争を止め、平和をつくるため、悲劇を風化させてはいけない」と訴える。
 マリアナ諸島テニアンで生まれた喜屋武さんは4人きょうだいの長男。戦争が始まり、父を残して祖父の出身地、沖縄県に引き揚げた。
 住んでいた那覇市にも戦火が及び、祖母が艦砲射撃の犠牲に。沖縄本島南部に逃げる途中、日本陸軍の壕(ごう)に身を寄せたが、「われわれを守るための日本兵が奥に、避難民は入り口に座っていた」と憤る。
 近くで戦闘が始まり、さらに避難を余儀なくされた。母は、当時0歳だった妹を抱き、2~3歳の末の弟を背負った。二つ下の弟は母のもんぺにつかまっている。本島南端の糸満市まで歩いた。「糸満の海は軍艦で埋め尽くされ、水平線が真っ黒だった」と喜屋武さん。激しい艦砲射撃を受け、祖父を失った。
 6月、同市摩文仁にたどり着いた。海岸近くの壕に入ろうとすると、住民の中に隠れていた日本兵が母に銃を突き付けて言った。「泣く子は入れない」
 「上の2人は泣きませんから助けてください」。母は懇願し、「母ちゃん、母ちゃん」と泣きすがる末の弟と妹を連れて壕を離れた。1人で戻ってきた母は、壕の入り口をふさぐように石を積んだ。
 3日ほど後、壕の入り口から米兵が「デテコイ、デテコイ」と呼び掛け、最初に飛び出した喜屋武さんを抱き上げて水筒の水を飲ませた。「命の水」だった。幼い喜屋武さんには、米兵が天使に、日本兵が悪魔に思えた。
 戦争が終わっても、「弟妹はどうなったのか、おふくろを悲しませると思うと聞けなかった」と喜屋武さん。苦労がたたったのか、母は喜屋武さんが高校1年生の時、心臓病で亡くなった。38歳だった。
 喜屋武さんは今でも、弟と妹が生きているのでは、との希望が捨てられないという。「誰かに助けられてどこかで大きくなっていやしないか。空想、小説みたいな話だけど、いつも心の中にある」と語る。
 今、喜屋武さんは年に数回、修学旅行生の前で体験を語っている。「あなたが話さないと、沖縄戦がなかったことになるよ」。母が背中を押してくれているように感じるという。 

日本兵に「何度も脅された」 激戦地、糸満市での体験語る―88歳の仲間さん・沖縄慰霊の日(2024年6月22日『時事通信 』)
 
キャプチャ
取材に応じる仲間進栄さん=4月28日、沖縄県糸満市
 太平洋戦争末期の沖縄戦で、最後まで激戦が続いた沖縄県糸満市。23日の沖縄慰霊の日を前に、同市の仲間進栄さん(88)が79年前を振り返り、「日本兵に何度も脅された」と語った。
 
 1945年4月、米軍が沖縄本島に上陸。仲間さんの母や妹らは本島北部へと避難した。仲間さんは当時9歳。祖父母と共に最南端の糸満市に残ったが、戦火を避けるため、家を出て近くの斜面に横穴を掘ってつくった「ガマ」で生活するようになった。
 そんな生活が続いたある日、日本兵がガマに入ってきた。「出て行け。ここは私たちが使う」。銃を構えて言い放ち、仲間さんらを追い出した。
 住むところを失った仲間さんらが再びガマをつくると、別の日本兵が「ここは危ない。別のガマに逃げた方がいい」と言ってきた。言葉に従ってガマを出た後、様子を見に戻ると、複数の日本兵が中で談笑していた。
 日本兵にガマを追われたのはこれに限らない。戦況が厳しくなると、沖縄本島南部に逃げ込む日本兵が増え、何度も脅され、だまされた。最後は海辺の鍾乳洞に逃げ込んだという。
 ある夜、鍾乳洞の外で激しい爆発音がした。外に出てみると、すぐそばに迫った米戦艦が近くに潜む日本兵を攻撃していた。
 ふんどしを白旗代わりにして降参しよう。そう思った矢先、日本兵が「自決しよう。捕まったらひどいことをされるぞ」と銃を渡してきた。信用できるか―。何度もだまされた仲間さんらは制止を振り切って白旗を掲げ、米軍に保護されたという。
 つらい記憶を振り返り、「二度とあんな悲劇は見たくない」と語った仲間さん。「政府には、手段は問わないから、とにかく平和でいれるよう取り組んでほしい」と切に願った。
 

〔写真特集〕戦争の記憶~沖縄戦キャプチャ
1945(昭和20)年4月1日、沖縄本島への上陸作戦で、水陸両用型車両に搭乗して海岸へ向かう米軍部隊(米海軍歴史センター提供)。後方では、戦艦テネシーが支援砲撃をしているのが見える。米軍が第一の目標としていたのは、沖縄本島南部にある二つの飛行場で、第1波の海兵隊、陸軍の部隊1万6000人が一斉に海岸を目指した(1945年04月01日) 【時事通信社
 
キャプチャ
 1945(昭和20)年4月1日、沖縄本島に上陸した米軍の部隊(米陸軍提供)。米軍は、上陸に当たり、沖合の艦艇から100メートル四方に25発の砲弾を撃ち込む「じゅうたん砲撃」を実施した。ただ、迎え撃つ日本軍は、水際で攻撃する作戦を取らず、海岸地域には守備隊をほとんど配備していなかった。このため、写真の米軍部隊もほとんど抵抗を受けないまま上陸に成功している(1945年04月01日) 【時事通信社
 
 
キャプチャ
1945(昭和20)年4月1日、沖縄本島への上陸作戦で、海岸地帯にロケット砲を撃ち込む米海軍の砲艦(米海兵隊提供)。米軍は、海岸地帯での日本軍の抵抗を排除するため、上陸に先立って沖合の戦艦や巡洋艦から4万5000発の艦砲射撃を浴びせたほか、ロケット弾3万3000発、迫撃砲2万3000発を撃ち込んだ。さらに、空母から飛び立った艦載機による銃爆撃も行い、文字通りの「鉄の雨」を降らせた(1945年04月01日) 【時事通信社
 
 
キャプチャ3
 
キャプチャ
1945(昭和20)年の沖縄戦で、日本軍の陣地と思われる洞窟に向け、火炎を放射する米軍戦車。日本軍は、洞窟陣地を拠点に果敢な戦いを続けたが、米軍の物量作戦の前にじりじりと後退を続けた。米軍は火炎放射器を備えた重装甲の戦車を大量に導入し、日本軍の陣地をひとつずつ破壊する「馬乗り攻撃」を展開した。日本兵が1人でも生き残っていると、占領した地域でも背後から攻撃を受ける可能性があるためで、徹底した掃討戦で日本軍の犠牲は日に日に増えていった(1945年撮影) 【時事通信社
 
 
キャプチャ4
1945(昭和20)年の沖縄戦で、日本軍の地下陣地を攻撃する米軍兵士(米陸軍提供)。米軍は、日本軍の地下陣地を発見すると、入り口から火炎放射を浴びせ、さらに爆弾を投げ込んで内部を徹底的に破壊する「馬乗り攻撃」と呼ばれる戦術を多用した。ただ、地下陣地の入り口は、米軍が攻撃してくる方向から稜線を越えた反対側の斜面に設けられているため、日本軍は稜線越しに米軍を攻撃し、大きな損害を与えることも多かった(1945年撮影) 【時事通信社
 
キャプチャ
1945(昭和20)年の沖縄戦で、日本軍が構築した重砲陣地(米陸軍提供)。日本軍は米軍の上陸を予想し、沖縄に多くの火砲を運び込んだが、制空権を米軍に握られているため、砲座は上空から見えにくいように隠ぺいされていた。写真の重砲は、米軍に砲を奪われないように日本軍自らが破壊したらしく、砲身の先端が爆発でめくれ上がっている(1945年撮影) 【時事通信社
 
キャプチャ
1945(昭和20)年の沖縄戦で、日本軍が構築した重砲陣地(米陸軍提供)。日本軍は米軍の上陸を予想し、沖縄に多くの火砲を運び込んだが、制空権を米軍に握られているため、砲座は上空から見えにくいように隠ぺいされていた。写真の重砲は、米軍に砲を奪われないように日本軍自らが破壊したらしく、砲身の先端が爆発でめくれ上がっている(1945年撮影) 【時事通信社
 
キャプチャ
1945(昭和20)年の沖縄戦で、沖縄本島に上陸した米軍が第一の目標としていた二つの飛行場のうちの読谷飛行場(米陸軍提供)。日本軍の呼称は「北飛行場」で、1500メートルの滑走路を備えていた。米軍は上陸した当日にここを占領し、滑走路を修復すると、すぐに使用を始めた(1945年04月01日) 【時事通信社
 
キャプチャ
1945(昭和20)年の沖縄戦で、米軍が占領した沖縄本島の読谷飛行場(北飛行場)に着陸するC54輸送機。米軍は飛行場を占領すると、マリアナ諸島から物資や兵員をピストン輸送し、物量で日本軍を圧倒した(1945年撮影) 【時事通信
 
キャプチャ
1945(昭和20)年3月26日、米軍は沖縄本島への上陸に先立ち、沖縄本島の西側の慶良間諸島に上陸した。写真は、慶良間諸島慶伊瀬島の海岸に構築された米軍の155ミリりゅう弾砲の陣地。慶伊瀬島沖縄本島から18キロの距離で、最大射程がおよそ23キロの155ミリ砲で米軍は沖縄本島西海岸を砲撃した(1945年03月撮影) 【時事通信社
 
 
キャプチャ
 
キャプチャ2
1945(昭和20)年の沖縄戦で、米軍に捕獲された日本軍の特攻兵器「桜花」。爆撃機に搭載されて敵艦に体当たりする構想で開発されたが、航続距離が短く、敵艦に近づく前に母機もろとも撃墜され、ほとんど戦果を上げることはできなかった(1945年撮影) 【時事通信社