県外出身兵も6万人超が戦死 高齢遺族にのしかかる沖縄との距離(2024年6月23日『毎日新聞』)

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沖縄戦で亡くなった父、勝さんの遺影の前で平和への思いを語る村上国夫さん=熊本市南区で2024年6月9日午後0時5分、中里顕撮影
 日米両軍による激しい地上戦となった第二次世界大戦末期の沖縄戦では、戦闘に巻き込まれた住民だけでなく、全国各地から出征した日本軍の兵士も6万人以上(推計)が命を落とした。今年で79年。その遺族も高齢となり、これまでのように慰霊のために沖縄を訪れることが難しくなっている。海軍兵だった父を沖縄で亡くした熊本市の村上国夫さん(83)もその一人。「沖縄には行けないが、地元で父のことを伝えたい」と、戦争がもたらす苦しみを地域の子どもたちに語る。
 国夫さんの父、勝(まさる)さん(当時38歳)は熊本で農業を営んでいたが、1944年7月に海軍に召集され、戦火が迫る沖縄へと派遣された。45年4月に米軍は沖縄本島に上陸し、現地の日本軍との間で約3カ月にわたる激しい地上戦となった。勝さんは同年5月13日、現在の那覇空港の場所にあった小禄(おろく)飛行場周辺で戦死したとされる。
 当時、国夫さんはまだ4歳。父についての記憶はないが、周囲が「心の広い人だった」「集落をまとめていく人が戦死してしまい、大きな打撃だ」と話すのを聞いた覚えがある。父のことを誇りに思った。
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村上国夫さんの父、勝さんが出征先から家族に送った手紙=熊本市南区で2024年6月9日午前11時49分、中里顕撮影
 手元には勝さんが長崎・佐世保や鹿児島・鹿屋の海軍基地から家族に宛てた手紙が残っている。お金を送ったこととともに「国夫に何か買って喜ばせてください」と書かれ、父の優しさが文面から感じられる。
 
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村上国夫さんの父、勝さん=国夫さん提供
 

「幸せに暮らしている」 平和の礎、魂魄の塔に遺族訪れ、祈り捧げる(2024年6月23日『毎日新聞』)
 
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平和の礎で手を合わせる家族連れ=沖縄県糸満市で2024年6月23日午前9時25分、喜屋武真之介撮影
 「沖縄慰霊の日」の23日、沖縄戦終焉(しゅうえん)の地となった沖縄県糸満市摩文仁(まぶに)にある平和祈念公園内の「平和の礎(いしじ)」には夏の日差しが降り注ぐ中、遺族らが次々と訪れた。
 沖縄県北谷(ちゃたん)町の島袋美智子さん(79)と妹の智枝子さん(73)は「自分たちは幸せに暮らしています」と語り、刻まれた叔母の名前をなぞり、花と菓子を手向けた。
 詳細は分かっていないが、沖縄戦当時、20歳前後だった叔母は沖縄本島北部で、戦火を逃れるために友人らと一緒に浅瀬を歩いて近くの島へ渡ろうとした途中に亡くなったという。当時、美智子さんは生まれたばかりで、母に背負われ、叔母とは別に本島北部に避難していた。母と叔母は年が近く仲が良かったといい、母は亡くなるまで美智子さんらと一緒に「平和の礎」を訪ねていた。
 美智子さんは米軍基地が集中し、自衛隊の増強も進む沖縄の将来を心配する。「世界のあちこちで戦争が起きている。若い人や子どもたちが幸せでいられる社会であってほしいけれど、沖縄は一番怖い場所になっていないか」
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「魂魄の塔」の前で手を合わせる女性=沖縄県糸満市で2024年6月23日午前6時半、喜屋武真之介撮影
 糸満市米須の「魂魄(こんぱく)の塔」にも朝から遺族らが訪れた。塔は周辺に野ざらしになっていた遺骨を納めるため、戦後間もない1946年2月に建立された。
 沖縄県嘉手納町の真栄城玄信(まえしろげんしん)さん(91)は塔に手を合わせ、2人の兄に「ありがとう」と伝えた。軍に召集された兄たちは本島南部で戦死した。ともに暮らした家があった場所は今、米軍嘉手納基地になっている。「年だから来年は来ることができないかもしれない。兄の犠牲の上に今の私たちがある。政治家はしっかりして戦争を起こさないようにしてほしい」
 那覇市の平良捷子(かつこ)さん(86)は娘(53)とともに祈りをささげた。義母と義兄も沖縄戦で亡くなり、遺骨は見つかっていない。平良さん自身も家族と本島南部を逃げ惑い、いくつもの遺体を見た。一緒にいた父が「眠っているんだから、踏まないよう跳び越えなさい」と諭し、女性の亡きがらをまたいだことが忘れられない。「どうしても自分の足でここに来たかった。平和な世の中で子孫が生きていけるよう見守ってほしい」【比嘉洋、喜屋武真之介、日向米華】