1945(昭和20)年4月1日、沖縄本島への上陸作戦で、水陸両用型車両に搭乗して海岸へ向かう米軍部隊(米海軍歴史センター提供)。後方では、戦艦テネシーが支援砲撃をしているのが見える。米軍が第一の目標としていたのは、沖縄本島南部にある二つの飛行場で、第1波の海兵隊、陸軍の部隊1万6000人が一斉に海岸を目指した(1945年04月01日) 【時事通信社】
1945(昭和20)年4月1日、沖縄本島に上陸した米軍の部隊(米陸軍提供)。米軍は、上陸に当たり、沖合の艦艇から100メートル四方に25発の砲弾を撃ち込む「じゅうたん砲撃」を実施した。ただ、迎え撃つ日本軍は、水際で攻撃する作戦を取らず、海岸地域には守備隊をほとんど配備していなかった。このため、写真の米軍部隊もほとんど抵抗を受けないまま上陸に成功している(1945年04月01日) 【時事通信社】
1945(昭和20)年4月1日、沖縄本島への上陸作戦で、海岸地帯にロケット砲を撃ち込む米海軍の砲艦(米海兵隊提供)。米軍は、海岸地帯での日本軍の抵抗を排除するため、上陸に先立って沖合の戦艦や巡洋艦から4万5000発の艦砲射撃を浴びせたほか、ロケット弾3万3000発、迫撃砲2万3000発を撃ち込んだ。さらに、空母から飛び立った艦載機による銃爆撃も行い、文字通りの「鉄の雨」を降らせた(1945年04月01日) 【時事通信社】
1945(昭和20)年の沖縄戦で、日本軍の陣地と思われる洞窟に向け、火炎を放射する米軍戦車。日本軍は、洞窟陣地を拠点に果敢な戦いを続けたが、米軍の物量作戦の前にじりじりと後退を続けた。米軍は火炎放射器を備えた重装甲の戦車を大量に導入し、日本軍の陣地をひとつずつ破壊する「馬乗り攻撃」を展開した。日本兵が1人でも生き残っていると、占領した地域でも背後から攻撃を受ける可能性があるためで、徹底した掃討戦で日本軍の犠牲は日に日に増えていった(1945年撮影) 【時事通信社】
1945(昭和20)年の沖縄戦で、日本軍の地下陣地を攻撃する米軍兵士(米陸軍提供)。米軍は、日本軍の地下陣地を発見すると、入り口から火炎放射を浴びせ、さらに爆弾を投げ込んで内部を徹底的に破壊する「馬乗り攻撃」と呼ばれる戦術を多用した。ただ、地下陣地の入り口は、米軍が攻撃してくる方向から稜線を越えた反対側の斜面に設けられているため、日本軍は稜線越しに米軍を攻撃し、大きな損害を与えることも多かった(1945年撮影) 【時事通信社】
1945(昭和20)年の沖縄戦で、日本軍が構築した重砲陣地(米陸軍提供)。日本軍は米軍の上陸を予想し、沖縄に多くの火砲を運び込んだが、制空権を米軍に握られているため、砲座は上空から見えにくいように隠ぺいされていた。写真の重砲は、米軍に砲を奪われないように日本軍自らが破壊したらしく、砲身の先端が爆発でめくれ上がっている(1945年撮影) 【時事通信社】
1945(昭和20)年の沖縄戦で、日本軍が構築した重砲陣地(米陸軍提供)。日本軍は米軍の上陸を予想し、沖縄に多くの火砲を運び込んだが、制空権を米軍に握られているため、砲座は上空から見えにくいように隠ぺいされていた。写真の重砲は、米軍に砲を奪われないように日本軍自らが破壊したらしく、砲身の先端が爆発でめくれ上がっている(1945年撮影) 【時事通信社】
1945(昭和20)年の沖縄戦で、沖縄本島に上陸した米軍が第一の目標としていた二つの飛行場のうちの読谷飛行場(米陸軍提供)。日本軍の呼称は「北飛行場」で、1500メートルの滑走路を備えていた。米軍は上陸した当日にここを占領し、滑走路を修復すると、すぐに使用を始めた(1945年04月01日) 【時事通信社】
1945(昭和20)年の沖縄戦で、米軍が占領した沖縄本島の読谷飛行場(北飛行場)に着陸するC54輸送機。米軍は飛行場を占領すると、マリアナ諸島から物資や兵員をピストン輸送し、物量で日本軍を圧倒した(1945年撮影) 【時事通信】
1945(昭和20)年3月26日、米軍は沖縄本島への上陸に先立ち、沖縄本島の西側の慶良間諸島に上陸した。写真は、慶良間諸島慶伊瀬島の海岸に構築された米軍の155ミリりゅう弾砲の陣地。慶伊瀬島は沖縄本島から18キロの距離で、最大射程がおよそ23キロの155ミリ砲で米軍は沖縄本島西海岸を砲撃した(1945年03月撮影) 【時事通信社】
1945(昭和20)年の沖縄戦で、米軍に捕獲された日本軍の特攻兵器「桜花」。爆撃機に搭載されて敵艦に体当たりする構想で開発されたが、航続距離が短く、敵艦に近づく前に母機もろとも撃墜され、ほとんど戦果を上げることはできなかった(1945年撮影) 【時事通信社】