中央公論も逆らうつもりはサラサラない?(2024年5月23日『産経新聞』)

論壇時評6月号 産経新聞プレミアム特任編集長・菅原慎太郎
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静岡市で支援者に応じる外相の上川陽子
 
人気急上昇中の外相、上川陽子が先日、静岡知事選で自民党推薦候補を応援する際に「この方を私たち女性がうまずして何が女性でしょうか」と述べたところ、発言撤回に追い込まれた。「うまずして何が女性か」というのが、出産したくてもできない女性を傷つけるというのである。ここでいう「うまず」は、出産のことではないようにも思えるが、仕方がない。
セクハラ、パワハラコンプラ違反、さらには不倫、女性蔑視発言…これらの許されざる「不適切」行為を見つけてはこれを非難し、社会的制裁を加えようというのが当世の風潮である。政治家や有名人ともなれば、マスコミによってたちまち筆誅(ひっちゅう)が加えられる。
それが悪いというつもりは毛頭ない。お説ごもっとも。なんの異論もございません。「社会の木鐸(ぼくたく)」たる新聞は「不適切」を批判的に扱うより他にない。
「今どき、新聞を『社会の木鐸』と思う人がいるか」「そもそも『木鐸』なんて言葉、最近は使わないし」「ちょっと何言っているか分かんないんですけど…」などの批判はさておくとしても、社会の支配的な価値観に正面から抗(あらが)うわけにいかない。まして、この遅れた日本社会で弱者や女性差別をなくそうと努力されてきた左翼マスコミなら、風潮に抗うどころか、逆にもっと風を吹かせ、流れに棹(さお)さすのが使命なのだろう。
しかし、どんな時代にも時流に疑問を抱く人はいる。昭和には問題にならなかったレベルのセクハラやパワハラまで非難される令和の時代を、コミカルに揶揄(やゆ)したTBS系のドラマ「不適切にもほどがある」(宮藤官九郎脚本)が少し前に話題になったのも、その証しだろう。
もちろん、このドラマも「不適切でいい」とは明言しない。大手マスコミではいかに名脚本家クドカンでもそんなことはできないが、驚くべきことに日本一の購読者数を誇る読売新聞のグループ本社傘下である論壇誌中央公論」が、6月号で「不適切で輝いていた昭和」という特集を掲載した。
論壇誌らしい蛮勇かと思いきや…特集のトップ対談を読んでみると、千葉商科大准教授の常見陽平は「セクハラだ、パワハラだ、と言われるんじゃないかと萎縮するのは、言葉だけが独り歩きして、本当に大切な『人権』のことなど意識されていないから」とよくある人権論。健康社会学者の河合薫が「パワハラやセクハラを気にするあまり、周囲とコミュニケーションをとることが怖くなってしまうケースも」などと指摘する程度で、お行儀のいい対談だった。同誌は風に逆らうつもりはさらさらないのか、挙げ句の果てになぜか昭和の歌謡曲について立憲民主党衆院議員、枝野幸男にインタビュー。枝野は言う。
「昭和から令和の間に、歌の世界でトップアイドルが松田聖子から乃木坂46に代わったことと、政界で田中角栄個人の疑獄が安倍派全体の事件になったことは、実はパラレルです」
ちょっと何言っているか分かんないんですけど…。
多様性の言論封殺?
これに対し保守論壇は「WiLL」が性的少数者をめぐるいわゆる「LGBT問題」を、本当に刺激的に取り上げた。かつて、この問題で雑誌「新潮45」に寄稿して大問題になった衆院議員の杉田水脈と元国連専門職員、谷本真由美の対談は、題して「少子化の元凶はジェンダー平等」…新聞もテレビも、まず、うなずかない。ジェンダー平等を正面から否定とは。が、中央公論と読み比べて、どちらが論壇の名に値するか。
それにしても、最近は「多様性」という言葉が大流行である。ジェンダー平等、移民問題…なんでも多様性で片づけられる。「文芸春秋」で経済学者の岩井克人グローバル化の観点から現代資本主義の問題を論じていたが、結論で日本の「世界史的使命」をこう書いた。
「それは、資本主義の『多様性』、会社システムの『多様性』、そしてもっと広く言えば『近代』の『多様性』を事実として示すことにあります」
え? 資本主義の根本的問題の結論は多様性ですか? と思ったが、高名な学者が言うのだから、そうなのだろう…。
不思議なのは近年、「多様性」の名の下に、言論や発言が左翼リベラルの非難で封殺される事例が多発していることだ。「多様性を否定するものだ」といって存在自体を認めないのである。左翼も右翼も、自分に都合の悪い言論をも受け入れようというのが多様性であり、寛容なのだと思っていたのだが、どうも認識が違うのだろうか。
「Hanada」でブロガーの藤原かずえが、司会者やコメンテーターのエッジのきいた左翼的発言で人気のTBS系情報番組「サンデーモーニング」についてこう書いていた。
「『サンデーモーニング』のコメンテーターは、しばしば【多様性】の重要性について言及しますが、実は彼らくらい多様性に欠けた画一的な存在はいません」
何もこれはサンデーモーニングだけの話ではあるまい。
朝日で「連座制」反対
自民党の裏金問題は相変わらずマスコミ、論壇をにぎわしている。政治資金規正法違反の共犯で罪には問えない国会議員にも今後は制裁を科せるように、連座制を導入すべきだという声も多く、朝日新聞も社説でそう主張するのだが、その朝日の9日付朝刊の「憲法季評」で、一橋大教授の安藤馨が連座制に正面から異を唱えていた。
「犯罪の責任とそれに基づく制裁は、当該の犯罪を自由な意思によって引き起こした個人にのみ帰せられるものである。連座制はこの個人責任の原理に反するものとして…」
道義的責任はともかく、犯罪を行ってない人間に制裁を科すのはおかしいだろ、という筋の通った話だが、朝日の社説には反する。よく載せた。かつて慰安婦問題で朝日の虚報訂正の遅さを批判したジャーナリスト、池上彰の連載コラムの掲載を見合わせようとして、逆に批判された反省かもしれないが、これぞ多様性を重んじる姿勢だ。
慰安婦問題以降、何かと批判されがちな朝日新聞だが、さすが「日本のジャーナリズムの雄」。あ、いけない、雄はオスという意味だ。こんな言葉は不適切にもほどがある。(敬称略)