利き手の指を失っても夢は諦めない 「もうひとつのWBC」を優勝した土屋来夢選手が伝えたいこと(2024年4月8日『東京新聞』)

 
 「もうひとつのワールド・ベースボール・クラシックWBC)」と呼ばれ、昨年秋に行われた世界身体障害者野球大会で優勝した日本代表チームの東日本唯一のメンバー・土屋来夢(らいむ)選手(25)=東京都江戸川区=は、利き手の指を15歳の時に失ってからも夢を諦めず白球を追い続けた。「誰かの一歩を踏み出す勇気になれたら」。子どもたちに世界一となった経験を伝えている。(押川恵理子)
世界身体障害者野球大会の優勝を江戸川区の斉藤猛区長に報告する土屋来夢選手(左)

世界身体障害者野球大会の優勝を江戸川区の斉藤猛区長に報告する土屋来夢選手(左)

 「4000人もの観客が見守る中での試合は格別だった。ここまで来ることができたと感慨深かった」。土屋選手は2日、優勝報告に訪れた江戸川区役所で振り返った。
 大会は昨年9月、名古屋市バンテリンドームナゴヤで開かれた。5カ国・地域による総当たり戦を日本は全勝。4度目の優勝に輝いた。土屋選手は遊撃手としてチーム最多の2試合にスタメン出場した。

◆高1の夏、グラウンド整備中の事故で…

 小学3年生で野球を始めた土屋選手は6年生の時、軟式野球の日本代表に選ばれた。運命が暗転したのは、憧れの高校球児となったばかりの1年生の夏だ。グラウンド整備中に機械に右手を挟まれ、親指以外の4本の指を失った。
世界身体障害者野球大会で打席に立つ土屋来夢選手=2023年9月、名古屋市のバンテリンドームナゴヤで(千葉ドリームスター提供)

世界身体障害者野球大会で打席に立つ土屋来夢選手=2023年9月、名古屋市バンテリンドームナゴヤで(千葉ドリームスター提供)

 「漠然とした将来への不安が募った。高校に戻れるのか、大学進学や結婚はできるのかと、答えのないことばかり考えていた」
 約3カ月の入院生活は、左手で日常の動作を行う訓練を繰り返す毎日だった。右利きだったので野球はもうできないと思った。

身体障害者チームの練習に衝撃「こんなにできるんだ」

 退院後、千葉県を拠点とする身体障害者野球チーム「千葉ドリームスター」の練習を見にいった。父親に嫌々連れて行かれたグラウンドで、選手たちの動きに衝撃を受けた。「めちゃくちゃ下手なのに楽しそう。片手や義足でもこんなにできるんだ」と思った。
世界身体障害者野球大会に遊撃手として出場する土屋来夢選手=2023年9月、名古屋市のバンテリンドームナゴヤで(千葉ドリームスター提供)

世界身体障害者野球大会に遊撃手として出場する土屋来夢選手=2023年9月、名古屋市バンテリンドームナゴヤで(千葉ドリームスター提供)

 「自分の人生のためになる」と入団を決めた。捕球した左手のグラブから返球したり、捕球後にグラブを外して右脇に挟んでから左投げをしたり、親指しかない右手で投げたり…。練習を重ねて「三刀流」をマスターした。

◆強豪に成長したチームで主将に就任

 会社勤めをしながら、主に日曜日、週に1回のチーム練習に参加する。チームは2019年、全国大会で4強入り、21年には関東甲信越大会で初優勝する強豪へと成長した。
世界身体障害者野球大会の優勝を報告する土屋来夢選手

世界身体障害者野球大会の優勝を報告する土屋来夢選手

 土屋選手は今年1月から主将を務め、小学校や高校などを訪れて体験を語るなど、活躍の場を球場の外にも広げている。「障害があってもなくても野球ができる環境を次の世代に伝えたい」。誰もが夢を持ち続けられる「壁のない世の中」の実現を願う。

 身体障害者野球 盗塁やバントは禁止、走塁が困難な選手の打席は代走が認められるなど障害に合わせてルールを工夫。軟式球を使用する。国内の競技人口は約1000人。世界身体障害者野球大会は2006年、WBCの初代世界一になった日本側の提案で始まり、4年に1度開かれる。名古屋市で昨年開かれた第5回大会(東京新聞を発行する中日新聞社など共催)には日本、米国、韓国、プエルトリコ、台湾が出場した。