桂歌丸、三遊亭圓楽、立川談志…素敵なバカぞろいの「笑点」司会者たちのなかで林家木久扇が「足を向けては寝られない」というのは(2024年4月7日)

かつての「笑点」の司会者も、キラリと光る素敵なバカだった

桂歌丸さんは落語と横浜とチャンバラを深く愛していた

まずは前の司会の桂歌丸さん。番組が始まったときからの大喜利メンバーで、途中、立川談志さんと意見が対立して半年ぐらい抜けてましたけど、そのあとまた戻って、2006(平成18)年までは回答者でした。

そのあと司会を10年おやりになって、番組50年のタイミングで勇退なさいました。2018(平成30)年にお亡くなりになりましたが、その後も「永世名誉司会」の肩書を背負ってらっしゃいます。 あの方は「横浜バカ」でしたね。

先代の三遊亭圓楽さんは幕末の志士みたいに熱い人だった

歌丸さんの前に司会だったのが、先代の五代目三遊亭圓楽さん。番組が始まった最初からの大喜利メンバーで、一時期ちょっと抜けてまた戻ったんですけど、1977(昭和52)年に「落語に専念したい」と言って、番組を一回「卒業」しました。師匠である六代目三遊亭圓生師匠に「お前はこんな安っぽい芸人で終わるのか」とたしなめられたらしいです。圓生師匠は、厳しくて頑固な人だったんですよね。

5年後の1982(昭和57)年の暮れに三波伸介さんが急死して、翌年から司会として復帰しました。それから23年にわたって司会を務めて、今のところの最長記録です。本人は「最初は2回だけのピンチヒッターって約束だったんだ」って言ってましたけどね。圓楽さんに戻ってきてもらうのは、ぼくたち大喜利メンバーの願いでもありました。

圓楽さんは「落語界をどうにかしないといけない」と、いつも考え続けていました。幕末の志士みたいに熱い想いを持った人でしたね。

笑点」を降りたちょっとあとに、圓生師匠とともに落語協会を飛び出したんですけど、それから1年ちょっとで圓生師匠が亡くなりました。今さら協会に戻れないから自分の一派を作って、弟子たちに修業させる場が必要だからってんで、大きな借金を背負って「若竹」という寄席も建てたんです。

長く司会を続けたのも立派ですけど、「笑点」におけるあの方の最大の功績は、六代目圓楽である円楽(当時の楽太郎)さんと好楽さんをメンバーに入れたことですね。ベテランや中堅が並ぶ中に、歳も若くて実績もなかった楽太郎さんを入れたのは、けっこう大胆な人事です。

好楽さんは最初に林家九蔵として入ったときは自分の弟子じゃなかったですけど、そのときに「九蔵さんがいいよ」って言ったのも先代の圓楽さんです。

円楽さんはお亡くなりになりましたが、好楽さんはますます絶好調です。ふたりが長くメンバーを続けてきたってことは、圓楽さんの見る目が確かだったってことですよね。大きな遺産を番組に残してくれました。それにしても、いくら番組の最初から関わっているとはいえ、出演者が人事をいじれたというのがすごいですよね。

三波伸介さんは演劇や映画にビックリするほど詳しかった

先代圓楽さんの前に司会を務めていたのが、「てんぷくトリオ」の三波伸介さんです。1970(昭和45)年の暮れから亡くなった1982(昭和57)年の暮れまでだから、12年ですね。50代以上の方にとっての「笑点」は、三波さんが司会のときのイメージが強いんじゃないでしょうか。

三波さんが司会になったきっかけは、北海道で収録があったときに、大雪が降って当時の司会の前田武彦さんが乗るはずだった飛行機が飛ばなかったことなんです。しょうがないから、ゲストで呼ばれていた「てんぷくトリオ」の三波さんが、臨時で司会をやりました。そのときの司会っぷりが好評で、スケジュールの都合で降板することになっていたマエタケさんに代わって、三波さんがやることになったんです。

あの方は、ぼくたち大喜利メンバーの個性を引き出しつつ、全体を楽しく盛り上げる手綱さばきが見事でした。大衆演劇の出身でコメディアンですから、いろんな笑いの寸法が頭に入ってるんですね。

歌丸さんと小圓遊さんの罵り合いやぼくの「いやんばか~ん」が番組の名物になったのも、三波伸介さんが上手にリードしてくださったおかげです。

落語の世界の人ではないので、もともと付き合いがあったわけじゃありません。お酒も飲まなかったし、超売れっ子でとにかく忙しかった。自分が司会の冠番組が5本ぐらいあったんじゃないかな。収録が終わるとすぐに次の仕事に行っちゃいましたから、交流らしきものといえば、本番前にちょっと雑談するぐらいでした。

若い頃に浅香光代さんの一座にいたこともあって、演劇にはめっぽう詳しかったですね。番組の特番で歌舞伎の『勧進帳』をやったときに、ひとりずつ細かい動きを振りつけてくれたのはビックリしました。セリフから見得の切り方から、全部頭に入っているんです。三波さんのお得意のフレーズじゃないけど、「ビックリしたなあ、もう」でしたね。

映画のこともよくご存じで、モノマネも得意でした。ぼくが大喜利で昔の映画スターのものまねをやると、掛け合いでモノマネをかぶせてくれるんです。「丹下左膳」の大河内傅次郎さんの口調で「シェイはタンゲ、ナはシャゼン」なんて言ったりして。

笑点」が人気番組としてお茶の間に定着したのは、三波さんのおかげです。もっとたくさん、古い映画の話とかしたかったですね。

前田武彦さんは「笑点」のテーマソングの“作詞者”

三波さんの前が、放送作家から売れっ子タレントになった前田武彦さん。初代の司会だった七代目立川談志さんのあとを受けて、1969(昭和44)年の秋に2代目司会者になりました。談志さんの推薦だったそうです。「巨泉×前武ゲバゲバ90分!」や「夜のヒットスタジオ」も、同じ時期に出てらっしゃいましたね。

司会がマエタケさんになったのと同時に、ぼくも大喜利のレギュラーになりました。最初は自分のことで精いっぱいで、右も左もわからず、ほかの人のことを観察する余裕なんてありません。ちょっと慣れてくると、司会とメンバーとのあいだが、微妙にギクシャクしている気配を感じるようになりました。

マエタケさんは器用で頭の回転も速い方でしたが、発想やリズムがバラエティ番組っぽいというか、落語の世界のそれとはどうしても違いがある。

ポンポンとボールを投げ合う感じにならなくて、メンバーとしては不満がたまるし、マエタケさんもやりづらかったでしょうね。ただ、ぼくの「杉作、ニホンの夜明けは近い!」を拾って伸ばしてくれたのは、マエタケさんでした。

もともと短期間の約束でしたが、視聴率は悪くなかったので、局としては長く続けてほしかったようです。結局「スケジュールの都合」で、1年ぐらいで自分から降板なさいました。もしかしたら、忙しかったことだけが理由ではないかもしれません。

マエタケさん時代に生まれたのが、大喜利メンバーのカラフルな着物と今も流れているオープニングテーマです。オープニングテーマは中村八大さんの作曲で、今はメロディしか流れていませんが、最初は歌詞もありました。「ゲラゲラ笑って見るテレビ」で始まるんですけど、それを作詞したのはマエタケさんで、ご自分で歌ってました。あれは、また何かの機会に番組で流したら面白いかもしれませんね。

立川談志さんは落語小僧がそのまま大人になったような人

いよいよ、初代司会者で番組の生みの親でもある七代目立川談志さん。

1966(昭和41)年5月に番組がスタートして、選挙に出るからと番組を降りた1969(昭和44)年11月まで司会を務めました。その頃、落語は何となく敷居が高い芸になりかけていて、談志さんはそういう状況をどうにかしたいという思いがあったんです。ご自分でも「笑点」のことを「俺の最高傑作」とおっしゃってましたね。

途中、談志さんが目指すブラックユーモア路線に大喜利メンバーが反発して、歌丸さんや圓楽さんたち初期メンバーが一斉に番組を降りるという騒動もありました。メンバーがガラッと入れ替わったんですが、その頃の視聴率はいまひとつだったようです。ぼくは談志さんが司会だった頃は、若手大喜利に出してもらってました。

談志さんをひと言で言うと「一日中起きてた人」かな。天才でもあったけど、努力家でもあった。寝るときも天井に謎かけをいっぱい貼って、それで練習する。頭の中はいつも落語のことでいっぱい。中学生の頃から詰襟で寄席に来て、一度聞いた噺は覚えちゃって帰りには口ずさんでいた。そんな落語小僧がそのまま大人になったみたいな人です。

談志さんが番組を抜けて、また大喜利メンバーが入れ替わることになって、ぼくも新メンバーのひとりになりました。じつは、ちょこっと裏事情があるんです。現代センターという談志さんが作った事務所があって、談志さんも歌丸さんも小圓遊さんもぼくも、そこに所属してました。ぼくが入れたのは、今で言う「バーター」です。

現代センターは、落語家やタレントだけじゃなくて放送作家もたくさん抱えていて、番組の制作もやってました。「笑点」もそこで作っていたから、談志さんは司会を降りたあとも、番組とは密接なつながりがあったんです。

当時から談志さんは「これからは素人が出てきてね、ひな壇で面白いことを言ったりするようになるから、その前に落語家ががんばらなきゃいけないよ」と言ってました。今、そのとおりになってます。誰だか知らない人がひな壇に並んで、なんか面白そうにしゃべってるけど、こっちは見ていて何も面白くない。

先見の明がある人でしたね。先が見えすぎて、まわりに理解されなかったり、自分を苦しめたりするところもありました。味方も敵も多い人でしたが、「笑点」の関係者はもちろん、すべての落語家や落語関係者は、あの人に足を向けては寝られないと思いますよ。


文/林家木久扇

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林家木久扇(はやしや きくおう)
落語家

1937年、東京日本橋生まれ。落語家、漫画家、実業家。56年、都立中野工業高等学校(食品化学科)卒業後、食品会社を経て、漫画家・清水崑の書生となる。60年、三代目桂三木助に入門。翌年、八代目林家正蔵門下へ移り、林家木久蔵の名を授かる。69年、日本テレビ「笑点」の大喜利レギュラーメンバーに。73年、林家木久蔵のまま真打ち昇進。82年、横山やすしらと「全国ラーメン党」を結成。2007年、林家木久扇・二代目木久蔵の落語界史上初となる「親子ダブル襲名」を行う。24年3月、「笑点」を卒業。落語、漫画、ラーメンのプロデュースなど、常識のワクを超えて幅広く活躍中。
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