記憶のバトン(2024年4月7日『佐賀新聞』-「有明抄」)

 家に初めてテレビがやってきた日。それがいかに興奮と感激の歴史的な一日であったか。当たり前にテレビのある暮らしの中で育った末っ子に、長兄が語って聞かせる。「昭和」とはそんな時代だった、と作詞家の阿久悠さんが書いている

◆昭和一けたと二けた、戦後と東京五輪後…いつ生まれたかで時代の見え方は違う。それでも不思議と「体質」が似通っているのは、〈それまでの昭和の景色や風を伝達する人間関係があったからである〉。記憶をリレーのバトンのように渡していくことで、価値観を同じくしたり、世代の違いに気づいたり

◆そんな「記憶のバトン」の一つでもあったろう。半世紀以上親しまれたキャンディー「チェルシー」が先月、販売終了となった。花柄の黒い箱に赤はバター、緑はヨーグルト味。「アナタニモ~」とCMの外国の少女をまねたっけ

◆むかしは近所の商店で買えたお菓子も、いまはコンビニが主流。新商品が毎週登場し、めまぐるしく入れ替わる陳列棚で、変わらないロングセラーが生き残るのはむずかしい。気づけば「カルミン」も森永の「チョコフレーク」も消えた

◆〈伝達のバトンリレーがどこかで跡切(とぎ)れた。前の走者が渡すのを忘れたのか、今の走者が受け取ることを拒んだのか〉…。バトンを持たない走者の時代。阿久さんと同じため息をつく。(桑)