年度替わり、心の足腰が試される季節(2024年3月31日『産経新聞』-「産経抄」)

 
安藤忠雄

この4月に新社会人となる親戚から、身元保証人の依頼を受けた。「書類にサインするだけでいいんでしょ」と安請け合いしたところ、印鑑証明が要ると後で知り、あわてて地元の役所に駆け込んだ。自分のときはどうだったか。

▼30年以上も前のことで、記憶が定かでない。親以外に誰かの手を煩わせたかも。そう思うと、大きな手柄もなく勤めた歳月も面目が立ったような気がする。ちなみに親戚からの連絡は、いまどきの若者らしくSNS上での「お願いします」だった。

▼これも巣立ちへの一歩かと微苦笑し、書類に判を押した。この春、同じような経験をしたご同輩も多いだろう。年度替わりの時節に思い出す挿話がある。建築家の安藤忠雄氏は16年前、東京大学の入学式に招かれた。会場には、新入生に倍する約6千人の保護者らがいたという。

▼「自立した個人をつくるスタートの日に、親がそばにいては邪魔になる」。祝辞に際し、氏は保護者に退席を促した(『東京大学の式辞』新潮新書)。貧しい中から苦学して身を立てた人の実感かもしれない。むろん、出席した保護者に罪はない。

▼自立なくして「独創力」や常識を疑う力は生まれぬ―と、そんな言葉も贈っている。人生は選択の連続だ。何かを選び何かを捨てる中で、この先の春秋にいかにして豊かな色をつけるか。「独創力=自分らしく生きる力」と解釈していいなら、安藤氏の言葉は大いにうなずける。

▼親離れ、子離れ。新天地へ旅立つ人は、親友や学友、恩師ら大切な人との別れも経験するに違いない。きのうまでの自分に別れの一線を引き、決断の一歩を踏み出す。年度替わりは、心の足腰が試される時節でもあるのだろう。新生活に幸多かれと切に願う。