群馬県が同県高崎市の県立公園「群馬の森」にあった朝鮮人労働者追悼碑を行政代執行で撤去しました。 【写真】撤去前の朝鮮人労働者追悼碑 碑をめぐる訴訟で意見書を提出した、群馬大学准教授の藤井正希さんに聞きました。【聞き手・須藤孝】
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混乱するから
――政治的中立が問題になりました。
藤井氏 群馬県は、追悼碑の前で開催した追悼式で参加者が「強制連行」という政治的発言をし、「政治的行事をしない」などの設置条件に反したという理由で碑を撤去しました(※1)。
山本一太知事は「記憶 反省 そして友好」の碑文もふくめて、碑の内容は問題ないとしています。本音は右翼の抗議で混乱するから面倒ということではないでしょうか。 しかし、「政治的中立」をマジックワードにして政治的意見を封じることは誤りです。
県立公園では政治的な主張は駄目だと言い出せば、県立公園では一切、政治的主張ができないことになってしまいます。それで喜ぶのは権力者だけです。
何かが論争の対象になっていて混乱するから、公共の場ではやってはいけないという論理は、日本では当たり前のように主張されます。
このような論理を認めると、一部の人が騒ぐだけで碑を撤去したり、催し物を中止したりすることになってしまいます。
――結果として表現の自由が失われます。
◆許される表現を国が決めるようになれば、それはもう独裁国家です
行政の役割は、市民に広く表現の自由を与え、議論する場を提供することです。その表現が良いか悪いかは市民自らに判断させるべきです。 たとえば、9条俳句訴訟(※2)がありました。
安保法制に反対する俳句であっても賛成する俳句であっても、秀句であれば広報誌に載せればよいのです。それをふまえて、安保法制に賛成か反対かは市民が議論すればよいことです。
◇行政の責任は
――行政には責任があるということでしょうか。
◆「敵意ある聴衆」という考え方があります。正当な言論活動を、敵対する聴衆がいて混乱するというだけで規制してはならないという論理です。
暴力で言論が妨害される時には、公権力は表現の自由を守るために、むしろ敵対する聴衆の方を抑えるべきだということです。
大阪市で2021年7月に開かれた「表現の不自由展かんさい」は、反対する人たちを抑えて開催されました。
――行政の判断が問われます。
◆行政のやるべきことは、市民の議論を最大限、行政に反映させることです。ただし、日本は間接民主制ですから、市民の多数意見に行政が必ずしも従わなければならないわけではありません。
群馬県の例でいえば、知事は、賛成派と反対派が議論する場を作り、県民の意見を十分把握してから、知事として責任のある政治的な判断をすべきでした。
その際、知事の判断が多数意見と同じであれば、知事の決定は民主的な正当性を得ます。
逆に、多数意見に従わなければ知事が結果について全責任を負わなければなりません。今回、群馬県はこうした努力をまったくしていません。
◇政治的な議論は避けるべき?
――賛成派の意見も反対派の意見も聞くべきだということですか。
◆歴史の真実についての議論は必要です。ただし、証拠を示して、国民的議論を求める形でやらなければなりません。威圧的、暴力的だったり、ヘイトスピーチで脅したりしてはなりません。
――政治的な議論を避ける雰囲気があります。
◆政治的な議論は時に過激になります。しかし、過激にならず、まっとうな議論ができるような環境を作るのが行政の役割です。県立公園のような公共の場でこそ、市民の表現を最大限に保障しなければなりません。
◇逃げてきた日本
――主張がぶつかりあうと難しくなります。
◆強制連行に限らず、歴史認識について、日本は戦後ずっと、国家として真実を発見する努力を十分にしてきませんでした。難しい大変な作業を逃げ続けてきたツケが回ってきているのです。撤去では何も解決しません。
※1 朝鮮人労働者追悼碑は、2004年、市民団体が「政治的行事をしない」などの条件で群馬県の許可を得て同県高崎市の県立公園「群馬の森」に設置した。その後、団体が開いた追悼式で出席者が「強制連行」などの言葉を使ったため、県は14年、条件に反したとして許可を更新しなかった。県の処分の適法性を争った訴訟は22年6月、最高裁で県の勝訴が確定。24年2月に碑を撤去する県の行政代執行が終了した。
※2 さいたま市の女性が詠んだ「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」との俳句が公民館だよりに掲載されなかった問題。掲載拒否に正当な理由はないとして、市に賠償を命じた判決が2018年12月に最高裁で確定した。(政治プレミア)