朝鮮人追悼碑が撤去されて1カ月…歴史修正の波に抗う市民の信念 「忘れてはいけない事実がある」(2024年3月7日『東京新聞』)

 
今夏の企画展に向けて展示内容を考える研究会メンバー=東京都新宿区の高麗博物館で

今夏の企画展に向けて展示内容を考える研究会メンバー=東京都新宿区の高麗博物館で

 群馬県高崎市の県立公園「群馬の森」にある朝鮮人追悼碑が県の行政代執行で撤去され、1カ月が過ぎた。撤去を受けて杉田水脈衆院議員(自民)は「噓(うそ)のモニュメントは日本に必要ありません」と発信。他の追悼碑を攻撃する歴史否定も起きる中で、日本の植民地支配を背景とした労働動員とその負の歴史と向き合うことで、次の友好を紡いでいこうと、対抗する市民の動きも広がっている。(岸本拓也、山田祐一郎、安藤恭子

◆「日本の暗部」否定に危機感

 「群馬の森の追悼碑はなぜ撤去されたのか。右派の攻撃が背景にある」「教科書からも『強制連行』の言葉が消された経緯をパネルで考えたい」。東京都新宿区の高麗博物館で2月29日、市民が議論を重ねていた。今夏の企画展「『強制連行』『強制労働』の否定に抗(あらが)う〜各地の追悼・継承の場をたずねて〜」開催に向けた準備だ。
相模ダムの湖銘碑を訪ねる高麗博物館の研究会のフィールドワーク=2021年、相模原市で(荻原みどりさん提供)

相模ダムの湖銘碑を訪ねる高麗博物館の研究会のフィールドワーク=2021年、相模原市で(荻原みどりさん提供)

 「忘れてはいけない事実がある。歴史を否定する今の問題としても知ってもらいたい」。展示を担う研究会メンバーの荻原みどりさん(76)は話す。研究会の発足は2021年秋。徴用工問題などで日韓関係が悪化する中、発端となる歴史を地域から見つめたいと、1940〜47年の建設工事に従事した中国人や朝鮮人を含む83人が命を落とした相模ダム相模原市)を訪れたのが最初だった。
 2020年8月に「当時植民地であった」「連れてこられた」という説明板の文字が、何者かに傷つけられる痕が見つかったと地元団体から説明を受けと地元団体から説明を受け、「ヘイトだ」と危ぶんだ。湖銘碑には殉職者の名前が刻まれるが、「朝鮮人創氏改名で名前を変えられ、亡くなった人数も推定に過ぎない」と荻原さん。他の現場でも厳しい監視下に置かれ、ダイナマイト発破や立て坑の掘削など、日本人が嫌がる危険な作業に従事したと知り「その命は軽んじられていた」と感じた。

◆全国12カ所でフィールドワーク

 研究会では、北海道から九州まで中国・朝鮮人が働いた12カ所へのフィールドワークを行ってきた。岡田千枝子さん(72)は「各追悼碑は歴史を伝えるのみならず地元の語り部がいて、韓国の遺族を招くなどして追悼も続けている。行政と協力し、史実を継承してきた人たちの存在がある」とその重みを語る。
 兵庫県宝塚市では2年前、大正時代の水道・鉄道工事で命を落とした朝鮮人労働者5人の供養を約100年間続けたとして、住民ら8人に韓国側から「感謝牌(はい)」が贈られた。荻原さんは「負の歴史を見つめる民間の友好の中に、こじれた日韓関係修復へのカギもあるのではないか」と話す。

◆圧力に負けずに街宣活動

 東京を中心に活動する「群馬の森朝鮮人追悼碑撤去に反対する市民の会」は、交流サイト(SNS)や昨年5月からの東京・新宿での街宣活動で問題を訴えてきた。2月10日には群馬県民に親しまれている「上毛かるた」にちなみ風刺の句をプラカードで披露した。
群馬の森の朝鮮人追悼碑撤去問題をテーマとした「#シン上毛かるた」

群馬の森の朝鮮人追悼碑撤去問題をテーマとした「#シン上毛かるた

 「つ 鶴舞う形の ヘイト県」「か 瓦礫(がれき)見て 高崎達磨(だるま)も 大激怒」などの句を、X(旧ツイッター)でも「#シン上毛かるた」のハッシュタグで投稿。群馬県出身のメンバー松本浩美さんは「撤去への怒りと悲しみを、県民なら誰でも知る上毛かるたに重ねて発信した」と話す。
 東京での発信で問題に関心を持つ人が増えた実感はある一方、ネット右翼などによる圧力や嫌がらせも増えたという。松本さんは「会の活動には右翼の街宣車が必ず妨害に来るようになった。言葉はどんどん攻撃的になり、暴力性を増している。県が追悼碑を撤去したことでさらに在日の人たちへのヘイトを助長するのではないか」と危ぶむ。

◆設置時には群馬県議会も全会一致で賛同していた

 追悼碑は2004年、市民団体が設置した。戦時中、軍需工場などへ「労務動員」され亡くなった朝鮮人を悼むという建立の趣旨を、当時の県議会は全会一致で賛同。県も旧陸軍の火薬製造所跡地である群馬の森への設置を許可した。
撤去される前の「記憶 反省 そして友好」と刻まれた群馬の森の朝鮮人追悼碑

撤去される前の「記憶 反省 そして友好」と刻まれた群馬の森の朝鮮人追悼碑

 毎年追悼式典が開かれる中、12年の式典で参加者が「強制連行」に言及したことなどを保守系団体が問題視。「碑文が反日的」などと県への抗議が相次いだ。14年、県は「政治的行事を行わない」という設置条件に反したとして許可の更新を認めなかった。
 碑を管理する後継団体「『記憶 反省 そして友好』の追悼碑を守る会」は更新を求め県を訴えたが、「不許可は適法」とする最高裁判決が22年に確定。守る会側が撤去要請に応じなかったとして、県は1月末に代執行による撤去に踏み切った。県は代執行前、約3000万円かかるとの概算を提示。担当者は「実際の費用を精査し相手(守る会)に今後請求する。(詳しい内訳や時期は)当事者以外には言えない」とする。

◆残された「プレート」「碑文」「ハトのレリーフ

 撤去後、守る会はプレートと碑文、ハトのレリーフの3点を引き取った。事務局次長の石田正人さんは「会として決定はしていないが、碑を再建したいという意見は出ている。歴史を伝える意味でも、引き取ったプレートを何かに活用できれば」と話した。
 碑を巡っては、杉田水脈氏がXで「噓のモニュメントは日本に必要ありません」などと発信した。山本一太知事は議会などで「碑文の内容に問題はない」としつつ、杉田氏の発言は「個人の信条」として論評を避けている。

朝鮮人労働者への「強制性」に矛先

 群馬と同様のケースは、他の地域でも起きてきた。いずれも朝鮮人労働者の「強制性」が批判された。
 14年には、奈良県天理市旧日本海軍の飛行場跡地に設置した「強制連行」の文言が入った説明板を撤去。長野市でも、松代大本営の地下壕(ごう)案内板の「強制的に」と書かれた部分が批判を受け、市がテープで隠した。市はその後、強制労働について「さまざまな見解がある」と両論併記する形で案内板を書き換えた。

◆ターニングポイントは2014年

 「群馬県が設置許可の更新を拒否したのも2014年で、大きな節目と言える」。こう指摘するのはノンフィクションライターの安田浩一氏だ。「13年から街頭でのヘイトスピーチやデモがせきを切ったように相次いでおり、これらの歴史否定の動きと重なる」
 各事案を取材した安田氏は「いずれも地元の人々から批判が出たわけではなく、きっかけは外部から行政への電話やメール、ネットへの書き込みなど。議会にも働きかけ、行政への圧力を強めていった。これに行政も同調し成功体験を与えてしまった」と説明する。
 当時の「強制連行」や「強制労働」について政府は21年、移入の経緯がさまざまだとして「ひとくくりに表現することは適切ではない」とする見解を閣議決定。教科書からも「強制性」を示す言葉が排除された。

◆無理な動員は曲げようのない歴史

「朝鮮人追悼碑を壊さないで」と通行人に呼びかけた街頭集会=1月7日、JR新宿駅東口で

朝鮮人追悼碑を壊さないで」と通行人に呼びかけた街頭集会=1月7日、JR新宿駅東口で

 東京大の外村大(とのむらまさる)教授(日本近代史)は「証言や公文書、企業の記録からも無理に動員した実態があり、当時も問題にされていた」と説明する。「自発的に来た人もいる」という主張に対しては「朝鮮人は自由を制限されていた。日本帝国の都合が一方的に押しつけられていた状況に目を向けるべきだ」と反論する。
 「戦時の朝鮮人労働は、労働力が減る中、マジョリティーが嫌がる職場に外部から労働力を導入し、ひどい労働を強いた事例」とし、群馬の森の追悼碑撤去がもたらす影響を懸念する。「そのような歴史を無視しても良い、問題ではないという意識を広げることにつながりかねない。幅広い市民の間で過去の動員について記憶することが重要だ」

◆デスクメモ

 陸軍の工場で朝鮮人徴用工と共に働いたという女性を取材したことがある。「朝鮮野郎」とばかにする男性工員をとがめると「生意気だあ。女のくせして」とたたかれた。徴用工たちが歌う民謡「アリラン」の音色が好きだったという女性。苦い記憶もまた継承すべき歴史と思う。(恭)