「海女の島」として知られる離島がある。 能登半島沖から北へ50km。人口約70人の小さな島、舳倉島(へぐらじま)のことだ。国の重要無形文化財に指定され、400年の歴史がある「輪島の海女漁」において、舳倉島は七ツ島と並ぶ主な漁場。夏場はアワビやサザエ、ワカメなどを求めて海女たちが紺青の世界に潜ってゆく。
【写真】能登の”あまちゃん”一家 息子はまだモズクしか獲れないけど…
北陸新幹線の延伸開業を翌月に控えた今年2月。JR加賀温泉駅(石川県加賀市)にある温泉施設「湯快わんわんリゾート片山津」に、舳倉島出身の海女、井上絹子さん(75)と長女・美栄さん(50)、美栄さんの長男・岳登(たけと)さん(20)が、愛犬とともに避難していた。能登半島地震で輪島市内の自宅が半壊して住めず、しばらくはペット同伴が可能な2次避難所に指定されているこの施設に身を寄せていた。
輪島朝市で60年以上露店を出してきた海女一家は、岳登さんで4代目だ。 絹子さんが輪島朝市に立ち始めたのは23歳のときだ。行商や物々交換をしていた母親の手伝いがきっかけだった。
「舳倉島にいると素潜りは自然と習う。小学校のときは遊びで泳ぐだけだけど、中学1年くらいからはサザエとかを取るようになる」。自分の時代の舳倉島では、女は海女に、男は漁師になる人が多かった、と絹子さんは説明してくれた。
自分で取った海産物、船で渡って輪島朝市で売る
自分で海で取ったものを売るため、海女は毎日朝市に出られない。 12~3月までは天然の岩ノリ。4月からワカメを取り、7~9月はサザエとアワビの季節だ。10月のひと月は何も取れないため海女漁は休みで、11月から1カ月はナマコを取る。それを繰り返し、合間で朝市に露店を出す。
あらかじめ潜って取った海産物を、ワカメなら干しワカメにしたり、アワビなら蒸しアワビやキモの塩漬けにしたり。そうして加工したものを、船でわたって輪島朝市で売るのだ。舳倉島から輪島市中心部に居を移したあとも、体調を崩して素潜りを引退するまで50年以上、海女と露店で生計を支えてきた。
33歳の時に母親から露店を譲り受けた絹子さんは、3年前に長女・美栄さんに露店の看板を譲った。美栄さんもまた、16歳で海にも朝市にも出てきた。海女漁は、誰かに教えてもらうものではないらしい。美栄さんも、絹子さんの様子を見よう見まねで覚えたという。
「浮袋があっても親とつながっているわけじゃない。母親が潜る姿を上から見て、親が上がるまで待つ。たまに潮の流れが速いと流されたこともあった」
持病がある美栄さんは、体調が万全でもないこともある。
「輪島って海が荒れるので1日出たら1日は休まないと続かない。あっち(海女)もこっち(露店)も、はできなくて・・・」。そのため、夏は海に出て、海女漁に専念し、10月に漁が休みになる時期だけ朝市に出店してまとめて売ってきた。
20歳の一人息子が海士デビュー「お笑い芸人」が夢だったけど…
そんな美栄さんに最近、頼もしい相棒ができた。一人息子の岳登さんが海士(あま)デビューしたのだ。
石川県漁業協同組合によると、県内の海女は約200人(2024年現在)。舳倉島などの離島を含む輪島市海士町(あままち) に集中しており、一つの地域にいる海女の数では全国一を誇る。ほとんどが女性だが、男性の「海士」ももちろんいる。素潜りデビュー1年目の岳登さんは今はまだ、「探す必要がなく、一番簡単」(美栄さん)というモズクの経験しかないが、ゆくゆくはサザエやアワビも取りたいと話してくれた。
お笑いが大好きな岳登さんは、お笑い芸人になるのが夢で、海士になる気はなかった。高校を卒業したら、故郷を離れ、芸人養成所に入りたいと考えていた。
ただ、女手一つで育ててくれた母の体調や祖母の年齢が気に掛かり、高校卒業後もしばらく地元に残って手伝いをしていた。朝市の看板が絹子さんから美栄さんにうつった後は、母と二人三脚で露店を盛り上げた。
「今までなら私が海に行くと、朝市もお休みしなくちゃならなかったけど、今は私が海に行っている間に、朝市をお願いできるようになった」と美栄さんは嬉しそうだ。
接客は得意だ。美栄さんにくっついて5歳のころから朝市で店番をしていたからだ。
「『これ、おばあちゃんとお母さんが取ったワカメですよー。買ってー』ってお客さんに言っておったんよ」と絹子さんも懐かしがる。
しばらくは母と祖母のそばで自分が支えよう。
そう思い始めていたとき、能登半島地震が起きた。
「あの時とはぜんぜん違った」と、3人は声をそろえる。「あの時」とは、2007年に能登半島を襲った最大震度6強の地震だ。絹子さん、美栄さんは3歳だった岳登さんと店に立っていた。「あの日もちょうど朝市がお休みの日だったけど、朝市に来てくれているお客さんもいるから露店をやりましょうとなって、この子連れて行ったの。そこで地震に遭った」
観光業などが打撃を受け、輪島朝市の客足も遠のいた。だが、ひび割れた朝市通りにテントをはり、翌月には朝市全体が「復活」を遂げた。能登を舞台にしたNHKの連続テレビ小説「まれ」や、北陸新幹線の開業に伴い客足が戻ったと思ったらコロナ禍に。「収入ほぼゼロ」が続いた3年をどうにかしのいだ今年、岳登さんの海士デビューも合わせて一家で頑張ろうとした、矢先でもあった。
一変した輪島朝市「僕だけが見た」
「もう、輪島離れるなってことですよね」と岳登さんは苦笑いする。それにーー。 「家族の中では僕だけが、見に行ったんです」 焼けちゃった朝市を。 「ずっとちっちゃい頃からお手伝いしてきていた町だったから、やっぱり、思い出の一つだし大切な場所として思っていて」人間観察が好きだった岳登さんにとって、全国からいろいろな人が来る輪島朝市は、「とにかく大好き」な場所だった。
庭のように過ごしていた朝市。
「今まで見ていたものが、何もかもなかったんです」。しばらく、何かを考えることもできない状態だったという。母と祖母には「涙出るから行かん方がいい」とだけ伝えた。
「こういう状況だからこそ残りたい」と岳登さんは言う。 母と祖母の体調だけではない。朝市のこと、海女のこと。今輪島にいないと後悔すると思った。 それは、絹子さん、美栄さんにとっても同じことだった。
「どんなに不便でも輪島を離れたいと思ったことは1日もない。今更、他の地域には住めん」と絹子さん。美栄さんも、子育ての疲れや、日々の悩みを朝市の仲間と分かち合ったという。「お客さんとのつながりもとても大事だった。朝市は、人生においてもたくさん勉強させてもらった場所」と振り返る。
「輪島に残っていれば、被災しても頑張ってやっている人がおるんやとテレビとかで報道してくれるでしょう」。岳登さんが私の目を見て言う。 とにかく、忘れられないようにしたいのだと。
「頼りにならなそうに見えて、たまに頼りになるんですよ」 美栄さんがそういうと、海士1年生ははにかんだ。 (取材、撮影:今村優莉)
【関連記事】