真矢ミキさんの今 高学歴キャラに寄り過ぎて演技の迷子に…自分を箇条書きにして気がついたこと(2024年3月21日『日刊ゲンダイ』)

 

 宝塚花組のトップスターに就任、退団後は俳優として活躍する真矢ミキさん。ドラマ、映画でのはつらつとしたイメージが印象的だが、逆転、転機も経験し、そのたびに気持ちを切り替えて乗り越えてきた。時々の思いを伺った。

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 今年に入って、「いつも心にケセラセラ」という著書を上梓することができました。書き出しは「突然ですが、私、実は内向的です」。“そんなことはないでしょう”と言う人が多いと思いますが、当時はまったく違っていたんです。幼少期から宝塚に入るまでは間違いなく内向的な私がいました。

 


 父は転勤族。私は中学に入るまでに8回転校しています。何度も転校を繰り返すと友達をつくってもすぐに離れ離れになるし、前の友達が古くなるような気がしてつくらないようになっていきました。どうせ、また引っ越すんだからと思うと、家でも段ボールから最小限の荷物しか出さなくなったり。そんな環境のせいにするわけではないけど、自然と内向的になっていたと思います。両親は私を愛情を持って育ててくれたけど、あの頃はギクシャクしていましたね。

 ただ、そんな時期もありましたが、人生にはやっぱり逆転があるんだなと今もつくづく思っています。中学を出て宝塚に入ってからの私は変わっていきました。

 宝塚に入った時は劣等生です。1年目は39人中37番ですから。父に「もう少しでブービーだったのに」と言われた時は「失礼な! どんな励まし方なの」と思いましたけど。ただ、他の人のように小さい時から英才教育を受けていたわけではないから仕方がないですけどね。

 でもその代わり、勉強するのは好きだったので、死ぬ気で頑張ろうと。その結果、2年目は22番になった。でも、本音では1桁にはなれると思っていたから、「22番か」とガッカリしちゃった。うぬぼれてたんですね。そして、並大抵な努力ではこの先やっていけないんじゃないか、今なら夜間高校、大学に入ってやり直しがきくと思ったりしてね。それで、母に「辞めたい」と言ったら、反応が意外で。「ハンカチを作って、親戚に手紙を出して、配ったばかりなのに。やめてよ」って。実はその時は入団2年目で初舞台の直前。大喜びの母が初舞台のお祝いのハンカチをたくさん作って、親戚中に配ってたんです。その時は、娘の気持ちがわかっていないなと思いましたけど(笑)。

 そして、初舞台の次の作品で初主役をもらうんです。その時18歳。宝塚には宝塚のよさがある、活躍している姿を見てもらうことができる世界という喜びを感じました。

 だから稽古も熱心にやりました。稽古が終わってからもいさせてもらい、どう演じたらいいか、みなさんの稽古を見させてもらったりもして。

 男っぽさを研究するために環状線の電車に乗って、グルグル回りながら男性をずっと観察したこともあります。 

震災後、宝塚花組トップとして立った舞台で愕然!

真矢みきさん(C)@yOU
真矢みきさん(C)@yOU
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 花組のトップになったのは30歳。前年にトップになれることがわかったけど、ギリギリまでトップになれるかどうかわからない世界です。内定をもらったのは新聞発表の直前。新聞を切り抜きながら、私でもトップになれるんだとしみじみ思ったのを覚えています。

 ところが、阪神・淡路大震災が起きます。1995年の年明けから前のトップの先輩が45日間、最後の公演をやって、次から私がトップで公演をやることになっていました。震災は1月17日。地震スプリンクラーが回って劇場は水浸しです。阪急グループのお膝元、阪急電車の痛ましい姿がテレビでも映し出されて、お客さんが来られる状況ではなくなりました。もちろん公演もなくなりました。

 震災が落ち着いて大阪の別の場所で2日間だけ先輩のサヨナラ公演が行われ、宝塚が再開したのは10月5日。

 舞台に立った時は愕然としましたね。それまで見ていた光景とは別物でした。お客さんがいないから見えるのは真っ赤な座席です。それまではバブルの延長でお客さんも入って、それはそれは毎日が忙しかった。私がトップになってこれが始まりか、こういう運命なのかなと思いました。

 でも、すぐに思い直しました。それが私にとって大きなターニングポイントです。お客さんに入ってもらうにはどうすればいいか。これまで来てくださったファンの方だけでなく、宝塚にはファミリーランドとか観光、娯楽で来る人も多いから、そういう人にも幅広く見てもらおうと、いろいろ考えてみたんですね。

 私が宝塚を初めて見た時に違和感があったのを思い出し、箇条書きにしてみました。中世の人でもないのにマントを翻すのはさすがにどうかなとか。男役の中でも身長が165センチの私にはマントを翻すのは似合わないかもしれないし。私が男女共学の公立に通った経験から、そういう若い女の子たちは宝塚は入りにくいのではないか。普通に男の子を好きって言ってるような若い女性も来てくれる新しいスタイルでやってみたらどうかとか。

 今までのブルーの化粧はやめよう、当たり前なオンクルで濃淡がある感じがいい、衣装は小回りがきくスーツがいいかも……。とにかく一人でも多く、劇場に足を運んでもらえるように頑張りました。

 お客さんに入ってもらいたいという思いは98年に宝塚を退団してからも変わっていません。

映画「踊る大捜査線」の動員が気になって埼玉の劇場に出かけた

 

 みなさんから、退団後も順調だったと思われているけど、最初の4年半は仕事がありませんでした。でも仕事がないんじゃなく、やりたいことがしっかり決まっていない、ビジョンがないことが理由だったと後から気がつくんです。30代半ば。女盛りと同時に男役をやってきた自分がいて、いろいろトライするけど歯車が噛み合わない。それがわかっていなかったからだと思います。

 そんな時に映画「踊る大捜査線」のオーディションを受けて、大きい役をいただくことができてうれしかったですね。

「踊る──」でも私なりに動員のことが気になったので、公開されてから埼玉の劇場とかに出かけました。最初の回やラストの回に一番後ろから、席が埋まっているのを見て安心しました。そうしたのは宝塚のあの経験があったからこそだと思います。

■還暦で「いつも心にケセラセラ」の上梓したのは偶然

 還暦になったばかりですが、「いつも心にケセラセラ」の上梓は偶然です。コロナで仕事がストップしたけど、私は割と早く再開した方です。ただ、プラン通りにいかないことも多く、重なった時、時間が空く時の差が結構大きくて。走って走って歩いて歩いてみたいなチグハグな感じ。うまくいかないので自己否定ばかり強くなって、この時も心情を吐露して箇条書きにしてみました。そうすると、年数がたった時の日記のようなもので自分のことを俯瞰して見ることができた。

 そして、本で掲載している写真を撮ってくれたフォトグラファーの方が「本にしては」とアドバイスしてくれたのがきっかけです。止まったり進んだりしているうちに今年になった感じです。

 これまで私が演じる役といえば、高学歴のカチッとしたキャラクターが多かった。それに寄り過ぎて自分が迷子になっている感じもあった。自分らしさを思い出そうとして、このエッセーつながったのはよかったと思っています。

 コロナの影響もありましたね。親友だった岡江久美子さんが亡くなって毎日泣いていました。でも、泣いている場合じゃない、人生はいつ何が起きるかわからない、人生はずっとこうやって進んでいくんだと思った時に、やれることはやっておこうと思いました。こうして出版につながったことに感謝します。

(聞き手=峯田淳/日刊ゲンダイ