過労死と闘い・寄り添う「旅する弁護士」 労災の壁に挑む半世紀(2024年3月16日『毎日新聞』)

「一生懸命仕事をしてきた人が、何も救われないのはおかしい」。弁護士の松丸正さんはそんな信念を抱き、過労死問題に取り組んでいる=大阪市北区で2023年12月20日、中川祐一撮影

「一生懸命仕事をしてきた人が、何も救われないのはおかしい」。弁護士の松丸正さんはそんな信念を抱き、過労死問題に取り組んでいる=大阪市北区で2023年12月20日、中川祐一撮影

 「過労死」という言葉はまだなかった時代に弁護士として歩み始めた。働き過ぎで命が失われていく社会を変えよう――。その闘いは、半世紀近い年月を重ねた。

 クリスマスの華やいだ雰囲気が街を包んでいた2023年12月25日、弁護士の松丸正さん(77)は、JR新大阪駅のホームに立っていた。背負っていたのは、裁判資料がパンパンに詰め込まれ、ずっしりと重くなった黒色のリュックサック。これから東海道新幹線で、翌日に甲府地裁で開かれる過労自殺の裁判に向かう。「先週は福岡、鹿児島、熊本を回ってきました。年末は28日まで裁判期日が入っています」。開いた手帳には予定がびっしりと書き込まれている。

 甲府までの移動時間は約4時間半。座席に座ると、早速リュックから資料を取り出す。この日、甲府地裁で争う相手方から送られてきた新たな証拠資料だ。弁護士事務所にいなかったため、新幹線が出発する50分ほど前に事務員が駅まで持ってきてくれたのだ。「裁判は明日だから早く読み込まないと……」。厳しい表情で資料に目を落とした。

 翌日の裁判では、過労自殺した甲府市職員(当時42歳)の両親の代理人として口頭弁論に臨んだ。職員は亡くなる直前2カ月に月平均179時間の残業をしていた。精神障害労働災害の認定基準(直近2カ月連続で月120時間以上)を大幅に超える残業で、両親は市の賠償責任を問うている。

 この弁論が終わると、すぐに別の裁判に入った。甲府地検事務官(当時31歳)が過労自殺したとして両親や妻が国に損害賠償を求めている裁判で、やはり遺族側代理人を務めている。

 「甲府市にも、甲府地検にも勤務時間を把握し、長時間労働を是正する仕組みがなかった。こういう問題があまりにも多すぎる」。松丸さんは二つの裁判後に甲府市内で記者会見し、語気を強めてこう訴えた。

 過労死・過労自殺の専門弁護士として知られ、全国から相談が寄せられる。弁護士が相談を受ける場合、通常は依頼者に弁護士事務所へ来てもらうが、松丸さんは違う。自ら会いに行くのだ。「電話よりも直接話を聞いた方が早い」と連絡を受けたら3日以内に訪ねる。堺市の事務所にいるのは週2日程度。「依頼者は、僕の事務所がどこにあるか知らないでしょうね」

 旅する弁護士――。冗談めかして自身をこう呼ぶ。

 記録が残る02年以降だけで約500件の案件に関わってきたが、一般に数十万円とされる着手金を一度も受け取ったことがない。「お金の問題で労災申請や裁判を諦めてほしくない」との理由からだ。このため交通費や宿泊費は自腹になり、裁判で勝つなどしないと報酬を受け取れない。06年に還暦を迎えるまでは「隣の犬が庭に入り込んできて困る」といった依頼も引き受け、高校教師だった妻と共に2人の子を育て上げた。

 弁護士活動で収益を得るよりも、過労で家族を失った遺族の悲しみに寄り添ってきた。提訴に悩む遺族を何度も訪ねて説得し、最終的に勝訴して感謝された経験も少なくない。

 それでも理解を得られなかったことはある。三十数年前、夫を亡くした妻の自宅で相談を終えて玄関を出た後、親族から塩をまかれていたと後日知った。「二度と来るなという意味だったのかもしれません。家族を亡くしただけでつらいのに、さらに遺族を大変な目に遭わせるのかという気持ちからだったのでしょう」

 大阪と甲府を行き来する松丸さんのスマートフォンには次々に着信が入った。「人の命に関わる仕事をしているから」とスマホを肌身離さずに持ち歩く。その仕事ぶりについて「妻は『あなたは好きでやっているんだから』と半ばあきれています」と明かした。

 甲府への裁判に同行した私(記者)は考えた。なぜ他人のために、こんなにも一生懸命になれるのだろう。原点はどこにあるのだろうか――。

 実家は東京都新宿区の米屋だ。高校2年の時、父親が配達中の事故で他界した。姉2人と弟の4人きょうだいの長男だったこともあり「将来は店を継ぐのだろう」と漠然と考えていた。1965年に東京大経済学部に進学後、家業を手伝うようになった。高度経済成長期で、地方から東京へ集団就職に来る若者たちが「金の卵」と呼ばれた時代。近くの商店で働く若者を誘い、歌声喫茶に行った。その中にいた16、17歳くらいの少女が今でも記憶に残っている。フォークダンスで手を握った時、あかぎれがひどいことに気付いた。理由を尋ねると「漬物屋で朝早くから働き、寒い中、たるをかき混ぜているから」と教えてくれた。

 大学を卒業する頃、米屋は弟が継ぐことになり、将来を考える必要に迫られた。本屋でたまたま司法試験の問題集を目にしたことをきっかけに「1年間だけ挑戦する」と母親と約束して勉強を始めた。何のため、誰のために司法試験を受けるのか――。目に浮かんだのは、あかぎれの手をした少女。「あの子のような労働者の役に立ちたい」。司法試験に一発で合格した。

 志を抱いて73年に弁護士となる。しかし、待っていたのは「ラクダが針の穴を通るよりも難しい」と例えられた過労死労災認定の壁だった。

「働く人の味方」自分のハートに近い

 過労死が労働災害と認定され、さらに勤務先の損害賠償責任が裁判で認められるまでの道のりは長く、険しい。過労死・過労自殺の案件を専門に扱う松丸正さん(77)の弁護士人生も平たんなものではなかった。

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