インバウンドの回復 最強クラスの平和産業 論説委員・富田光(2024年3月12日『東京新聞』-「視点」)

 東京・渋谷の世界的な観光スポットとなったスクランブル交差点をガラス越しに一望できる場所がある。そこは自分の出勤ルートなのだが、脇を通るたびに多くの外国人観光客がスマートフォンで交差点を撮っている光景に出くわす。
 先日、そこで若い男性観光客に地下鉄の乗り場を聞かれた際、以前から不思議に思っていたことを質問した。「なぜ単なる交差点を撮影するのか」。すると「5本の横断歩道を誰もぶつからずに渡っている。驚きだ」という。
 コロナ禍で一時低迷していたインバウンド(訪日客)需要の回復が順調だ。
 国土交通省の外局である観光庁によると、2023年の訪日旅行者数は約2507万人でコロナ禍前の19年と比べ約8割の水準まで戻った。
 景気後退が著しい中国からの観光客が伸び悩んでいるものの、韓国からの観光客が大幅に増加。全体の1人当たりの旅行支出額も19年比で3割以上増えている。
 ある企業経営者に「インバウンド需要は遺跡や自然に頼った経済であり、努力の結果ではない。日本の成長は付加価値のある製品をつくってこそだ」と指摘され、納得していた時期がある。確かに先人たちが育んだ名所旧跡を観光地に仕立てるだけでは、大きな経済成長は望めないだろうと考えたのである。
 ところが最近になってその考えを改めた。観光庁の調査では、23年の訪日外国人消費額は約5兆2900億円。鉄鋼の輸出額約4兆5千億円をはるかに上回り、半導体等電子部品の約5兆5千億円に迫る勢いだ。
 観光客を迎える側の努力なしに、国が手厚く支援する半導体産業と互角の経済効果をはじき出せるはずはない。インバウンド人気は観光地の人々の懸命な努力が実を結んだ結果だと気付いたのである。
 日本観光の魅力は何か。店舗など各施設での丁寧な対応、すぐに見つかる落とし物、便利で安全な公共交通機関や宿泊施設…。いずれも外国人観光客と日本人との交流を通じて伝わるものばかりだ。
 たとえ短い時間でも交流があれば相互理解が生まれる。理解が深まれば観光客が押し寄せ地元と摩擦が起きるオーバーツーリズムも緩和されるだろう。そして理解の先には平和がみえる。日本には5兆円規模の最強クラスの平和産業が生まれていたのだ。
 ただ、多少釈然としない思いもある。
 渋谷駅構内の大きな窓ガラスの前に立ち、改めてスクランブル交差点を歩く人々の姿を眺めた。制御されたように整然と歩く姿から日本人の過剰なまでのきまじめさが浮かび上がる。それは自分自身の姿でもある。
 外国人観光客たちは、そのまじめさを見て実は面白がっているのではないか。もちろん揶揄(やゆ)される程度なら構わない。平和であれば大抵は我慢できる。


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