「鈴木巴那」
名前が書かれた白いテープが、ぐるりと軸に貼られた筆。愛娘(まなむすめ)の手を握るように優しく持ち、墨を含ませ、書いた。
「がんばらない がまんしない」
力強い墨跡。だって、私一人で書いたんじゃない。娘と一緒に書いたから。
「大切なことを書くときは、巴那(はな)の筆を使わせてもらうの。パワーをもらえる気がして」
能登半島地震で今も、不自由な暮らしをしている人々への思いだ。
13年前。平成23年3月11日午後2時46分、三陸沖を震源に最大震度7の地震が起きた。東日本大震災。死者・行方不明者は1万8千人を超えた。
宮城県石巻市は津波で大きな被害を受け、大川小学校では大勢の子供たちが命を落とした。
鈴木義明さん(62)と妻の実穂さん(55)の長女で、4年生だった巴那さん(9)は、現在も行方不明だ。ランドセルは校舎の屋根で、書道セットは教室でみつかった。泥だらけだった。書道セットを開けると、筆がきれいなまま、収まっていた。
震災直後から小学校の周りを捜索した。6年生だった長男の堅登(けんと)さん=当時(12)=はまもなく遺体で見つかった。4月から中学生。真新しい制服を着せてあげたかったが、身体(からだ)が硬直していて袖が通らなかった。棺(ひつぎ)の遺体にそっとかぶせた。
巴那さんもすぐに見つかると思っていた。半年ほどたち、周囲は復興に目を向けるようになっても、毎日時間が許す限り捜し回った。それでも手がかりは見つからない。
安全なはずの学校に行ったきり、娘は帰ってこない。「学校が子供の命の最後の場になってはならない」。訴え続ける。
いまも、荒れた天候の後は海に向かう。
「荒天後は海から大量のものが打ち上がる。手がかりがほしい。体が続く限り見つけたい」
震災から10年がたつころから、実穂さんは子供の夢をよく見るようになった。
「決まって朝方、匂いや気配を感じる。落ち込まないように巴那たちが気を使っているのかな」
元日、能登半島で地震が起きた。13年前、避難所で2カ月半過ごし、その後、仮設住宅で4年間暮らしたことを思い出し、能登を思いやる。
「現実を受け止められず、気持ちと体が追いつかなかった。だから『がんばらない がまんしない』でほしい」(矢島康弘)