27歳の時、待望の長男が生まれて父親になった。ひとりっ子ということもあって厳しくしつけたから、「怖いオヤジ」と思われていたかもしれないけど、自分でも親バカだと思うくらい大切に育ててきた。その息子が27歳で人生を終えるなんて夢にも思わなかった。未来に向かって歩んでいく姿をもっと見たかった――。
東北学院大(仙台市)の元職員、小原武久さん(67)は、2011年3月11日の朝の光景を今でも鮮明に振り返ることができる。
太平洋に面した宮城県名取市閖上(ゆりあげ)地区で、小原さんは妻、長男の聖也さん(当時27歳)と3人で暮らしていた。いつも通り朝食をみんなで取った後、聖也さんは妻からイチゴのケーキの作り方を教わっていた。小原さんがホワイトデーのお返しに違いないと思って「味見させて」とからかうと、聖也さんは「だーめ!」と笑って返してきた。
小原さんが妻に続いて出勤する時、愛犬を抱っこした聖也さんが見送ってくれた。「玄関の鍵、閉めていってね」。これが最後の会話になった。聖也さんは派遣で電話オペレーターの仕事をしていたが、この日は不運にも休みだった。家にいたところ、午後に東日本大震災が発生。大津波に襲われた閖上地区では、聖也さんを含む750人以上が亡くなった。
「家も何もかも流されたから……」。小原さんは数えるくらいしか残っていない聖也さんの写真を見つめ、面影をたどる。そのうちの1枚は、聖也さんが通っていた関西学院大(兵庫県西宮市)の卒業式の日に、正門前で撮った親子の記念写真だ。「この頃は親元を離れたかったんだろうな」
聖也さんは中学、高校と小原さんの職場の系列校に進んだものの、大学進学を機に実家を出た。ところが8年後に帰郷し、再び両親と暮らすことになる。勤務していた東京都内の保険代理店が倒産し、そのまま都内で再就職先を探したものの、リーマン・ショック後の不況のあおりでうまくいかなかったからだ。震災が起きる13カ月前だった。
「心配はかけないから」。聖也さんは気をもむ両親を前に冷静だった。就職に強い資格を取ろうと、派遣の仕事をしながらファイナンシャルプランナーの勉強を始めた。震災の1カ月前には3級に合格。小原さんに合格通知書を見せてきた時の表情は、珍しく誇らしげだった。震災当日は夕方に2級の受験料を納めに行く予定だった。
もう一つ、語学力を磨くためにワーキングホリデーでニュージーランドに行くという目標もあった。給料からコツコツと渡航費をため、仕事の昼休みにはご飯も食べずに英語の教材を聞き込んでいた。
震災から16日後、小原さんは遺体安置所で聖也さんと対面した。未来に向かって努力していた息子の変わり果てた姿を前に、生きていく力が全身から抜けていった。「震災がなければ、将来どんな仕事についたかな。結婚して父親になっていただろうか。本人が一番悔しがっていると思う」
震災後は眠りにつくと聖也さんの夢をよく見るようになった。中学生まで厳しくしつけたせいか、子どもの頃の息子ばかり出てきて、いつもしかっている自分がいる。「なんでもっと優しくできなかったのか。聖也はどう思っていただろう。ごめんね」。目が覚める度、手を合わせて謝った。
それでも、真っすぐに育ってほしいという願い通り、聖也さんは誰に対しても優しかった。地震が起きた直後、近所のお年寄りに「大丈夫ですか」と声をかけて回っていたと、助かった人たちから聞いた。16年に仙台市内で再建した自宅には、中学時代の同級生たちが今も遊びに来てくれる。「忘れないよ」という彼らの言葉が心の支えになってきた。
聖也さんが実家に戻ってきたのは失業という不本意な形だったが、家族3人で暮らせた13カ月は何よりの幸せだった。ぜいたくなんてしなくていい。みんなで食卓を囲み、何気ない会話を交わす。あの日の朝のような日常こそが生きがいだった。震災を経て、そう気付かされた。
23年6月、小原さんの肝臓にがんが見つかった。「聖也の分まで、一日でも長く妻と人生を歩んでいかなくてはいけない」。使命感にも似た思いで治療に向き合い、直近の検査で経過は「良好」と診断された。11日も閖上の墓に参り、聖也さんに伝えるつもりだ。「元気でいるよ。これからも見守っていてね」【土江洋範】