昭和女子大特命教授の八代尚宏氏は毎日新聞政治プレミアに寄稿した。
「先細りの介護保険財源だけに依存するのではなく、市場の力を活用することが、介護のトリレンマを克服するための基本だ」と語った。
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厚生労働省が2024年度介護報酬改定で、訪問介護の基本報酬を引き下げる。深刻な人手不足などから倒産する訪問介護事業所が増えている現状に逆行するとの批判や、在宅医療が崩壊するとの懸念が相次いでいる。
しかし、目先の介護報酬の増減にかかわらず、介護業界は基本的なトリレンマ(三重苦)に直面しているという認識が重要だ。
今後、後期高齢者の増加で要介護需要が急増する一方で、担い手となる生産年齢人口は持続的に減少し、介護保険財政は逼迫(ひっぱく)する。
◇介護サービスの高付加価値化
この状況から脱するためには、介護サービスの生産性を引き上げることで介護従事者の報酬を増やし、競合する他の職種から労働者を引き抜くしかない。
労働集約的な介護サービスでは、製造業のような生産規模の利益を追求するのは困難という見方が多い。しかし、一般のサービス業では、顧客が満足するサービスを提供し、それだけ高い価格を付けることで付加価値を高め、生産性を向上させる大きな余地がある。
これが介護サービス分野でできないのは、介護保険報酬という、厚労省が定める「公定価格」に縛られているためだ。
これは医療保険の診療報酬についても同様だが、医療では、そのサービスの質について、患者は十分な判断能力を持たない。このため医療機関が診療価格を公定価格とするとともに、保険外診療との併用を原則禁止していることには一定の合理性がある。しかし、介護については、以下のような理由で価格競争が働く余地はより大きい。
第一に、介護サービスの質は、医療と異なり、一般の利用者も十分に判断が可能だ。
第二に、特に在宅介護サービスは多くの資本なしでも開業でき、新規事業者の参入が容易であるため、一部の大手事業者による保険外サービスの独占的な押し付けは困難だ。
第三に、医療保険にはないケアマネジャーという利用者の代理人が介在することで不当な価格での介護サービス購入を防ぐことができる。
◇介護保険と保険外サービスの併用
公定の介護サービス価格を基礎として、それに多様な保険外サービスを上乗せすることは、現行制度でも一定の範囲内で容認されている。
2000年に設立された介護保険は、要介護者の急増をうけて介護サービスの供給を保障するため、医療では禁止されている民間企業の全面参入を容認した。その点で、介護はもはや福祉ではなく、企業の創意・工夫を生かした「サービス」ということが前提となっていた。
にもかかわらず、後から出された局長通知では、本来の介護保険法にはなかった、「介護保険と保険外サービスの明確な区分」という規制が追加された。この結果、介護報酬で基礎的なサービスの費用を賄い、その上乗せサービスを保険外で購入するという組み合わせの選択肢が大幅に制限されてしまった。この局長通知を撤廃すれば、介護サービスの質向上とそれに見合った介護従事者の報酬増が実現されるはずだ。
こうした考え方への第一歩として、東京・豊島区で検討した「選択的介護モデル事業」では、厚労省との合意の下で、従来は明確でなかった介護保険と保険外サービスの組み合わせの事例を集めた。
例えば、在宅介護ヘルパーが1人暮らし高齢者の食事を作る(介護保険の適用)だけでなく、その後、一緒に食事をし、話し相手となる時間を提供する(保険外サービス利用)仕組みは好評だった。
他方で、常時介護ヘルパーを固定したり、食事時間に合わせる時間指定などに追加料金を支払うことについては先送りとなった。
◇選択的介護は不公平か
こうした仕組みについて、「金持ちだけが利用できるサービスは不公平」という批判がある。しかし、それは介護保険ができる前の低所得者を対象とした「老人福祉」の時代の産物だ。
介護サービスで、余裕のある高齢者がより多くの費用を自発的に支払うことで、介護労働者の確保に貢献するならば、そのメリットは介護保険の基礎的な介護サービスのみを利用する高齢者の利益にもなる。これは差額ベッドなどの収入で病院経営を維持することで、一般病室の患者の利益にもなることと同じだ。
今後増える団塊の世代の後期高齢者は、従来の高齢者と比べて豊かな層が多い。増え続ける高齢者は、介護保険財政にとっては負担だが、民間の介護サービス事業者にとっては、顧客が確実に増える「シルバー市場」の拡大を意味する。
民間企業の全面的な活用を目指した00年の介護保険は、高齢化社会を見据えた大改革だった。現在の厚労省の介護分野における規制強化は、むしろ福祉の世界への先祖返りを意味する。
先細りの介護保険財源だけに依存するのではなく、市場の力を活用することが、介護のトリレンマを克服するための基本だ。