踏みにじられた肉親の情(2024年3月6日『産経新聞』-「産経抄」)

中国の人権活動家、唐吉田氏(共同)

 歌手、坂本九の母が亡くなったのは、京都でのコンサートが始まる直前だった。東京から一報を受けたマネジャーは、舞台監督を務める永六輔さんに告げた。「まだ知らせないで」。終われば最終の飛行機で帰京させるから、と。

▼永さんはあえて母の死を伝えた。ファン思いの九は、何も知らなければアンコールに必ず応える。それでは最終便に間に合わない―。九は悲しみを胸に秘めたまま全曲を歌い上げ、満場の客を熱狂させたという(永六輔著『坂本九ものがたり』)。

▼こちらは、その対極にある無情な話である。人権派として知られた中国の元弁護士、唐吉田氏の長女が留学先の東京で亡くなった。令和3年5月に病気で意識不明の重体となり、長く入院していたという。支援者の手で行われた今月2日の葬儀・告別式に、父親の姿はなかった。

▼唐氏は過去に何度も拘束され、いまは中国当局の軟禁下にあるとされる。長女を見舞うために渡航を望んだものの、「国家の安全」を害するとして拒まれていた。血を分けたまな娘の死が、どれほどの痛みを父の中に残したかを思うと言葉もない。

▼自由や人権を唱え、それらを守るために活動することが為政者の神経を逆なでする。香港当局から指名手配された周庭氏と、同じ構図である。それにしても肉親の情さえ平気で踏みにじる仕打ちには、赤い血の通いがまるで感じられない。中国政府の素顔には、寒気さえ覚える。

▼舞台を終えた九は最終便に飛び乗った。アンコールで歌えない事情を観客に打ち明けたのは永さんである。「許してやってください。皆さんの最後の拍手は、僕から九に伝えます」。かの政府には情を解する永六輔も、この話に涙を催す為政者も恐らくいまい。