小澤征爾を送る ひとつの時代、静かに過ぎ去った ピアニスト舘野泉(2024年3月5日『東京新聞』)

 
舘野泉さん

舘野泉さん

 

 「左手のピアニスト」として知られる舘野泉は、2月に死去した世界的指揮者小澤征爾さんと親交が深かった。追悼の原稿を寄せてもらった。
 小澤征爾がこの世を去った。享年88。彼の優れた業績や誰にも好かれる人柄は、すでに多く語られている。そして演奏時の厳しく激しい集中力、全てを優しく抱きしめるような包容力は、演奏会や多くの画像でも人々の記憶に鮮烈に刻み込まれ、語り継がれていくことだろう。長く闘病生活を送っていたが、ご家族の話では穏やかな最期であったという。ひとつの時代が静かに過ぎ去った感慨を覚え、安らかな眠りを願う。
 1学年上の小澤と私は少年時代、豊増昇先生に師事していた。日本人で初めてベルリン・フィルソリストに迎えられた名ピアニストである。
 小澤は中学生時代、ラグビーに夢中になり、両手の人さし指を骨折してしまう。包帯に包まれた彼を見た先生は「ピアノだけが音楽じゃない。指揮というものがある」と諭した。それまでオーケストラなんて聴いたこともなかった少年は、指揮者の斎藤秀雄に師事。指揮を学びはじめる。翌年 創設された桐朋女子高校音楽科に、第1期生として入学。男子は4人いたが、指揮専攻は小澤1人だった。
 私たちが学んでいたのは戦後の貧しい時代で、洋服は継ぎはぎだらけ、食べ物も不足していた。けれど子どもたちの目はキラキラ輝いていた。貧しいのは誰も同じで差別もない。夢を追って、生きられるのだ。
 私は8歳の時、東京の家が焼夷(しょうい)弾の直撃を受けて全焼。ピアノも焼けてしまった。栃木県の農家の蚕部屋で終戦を迎える。音楽はなかったが、はだしで跳び回ったあの時代は輝き、豊かな音楽となっているのだと思う。小学校5年の時に戦災孤児の役で演劇に出演。ふらりと現れたみすぼらしい少年が、ピアノを見ると取りつかれたようにドビュッシーを弾くのである。
 高校生になった頃、ショパンやリストに飽き足らず、より切実で色彩感のある世界に触れたいと豊増先生に訴えた。先生はムソルグスキーの「展覧会の絵」とグラナドスの「ゴエスカス-恋する男たち」を挙げられた。両作品は私の最も重要なレパートリーになり、脳出血で右半身不随になるまで何十年も弾きこんだ。
 私ももうすぐ88歳になる。いま、画家ゴヤの生涯をピアノ1台で演じるオペラのような新作を委嘱している。ゴヤは40代で完全にろう者となるが、創作意欲は晩年まで衰えなかった。晩年の小澤の指揮ぶりに接すると、ともに峻烈(しゅんれつ)という言葉が想起される。すさまじい集中力に、身を切られるようだ。
 8年前、小澤から「豊増先生の本を出すから文章を書いてくれ」といわれた。『ピアノの巨人 豊増昇』という本ができ上がり、若き日に学んだ先生への深い感謝を、小澤は表してくれた。青年時代、「わが青春のマリアンヌ」という映画について熱を込めて語った小澤の姿を思い出す。

<たての・いずみ> 1936年生まれ。東京芸術大卒。64年よりフィンランドを拠点に、世界各国で演奏活動を行う。2002年に倒れ右半身不随になるも、1年後「左手のピアニスト」として演奏復帰を果たした。

 

 第二次世界大戦後からピアニストの拡充が図られ、ドイツでもコンサートを開き、バッハとベートーヴェンの独自の解釈と演奏はドイツを驚かせた。ベルリン・フィルとの共演も初めてだった。戦後、そして現代日本で活躍したピアニストの多くは、ますます豊かな陶器の香りを受け取りました。大沢志心さんがラグビーで指を骨折し、ピアノを断念しようとしたとき「指揮の道はある」と語ったことが濃厚だった。
百歳を迎えた敏子夫人は、ご主人との思い出や思いを6回に渡り語り、15年9月299日にその生涯を終えました。本書は、80歳を迎えた大沢繁五郎が先生たちに贈る感謝の一冊です。指揮者になって1年。