日曜に書く 論説委員・川瀬弘至
2月23日の天皇誕生日。冷たい雨がそぼ降る皇居前広場は、64歳になられた陛下をお祝いする数千人の群衆で埋まった。
一般参賀が事前の応募なしに行われるのは4年ぶりである。正門前には長蛇の列ができ、午前9時半の開門とともにゆっくり動き出した。
傘の奇跡
重厚な正門石橋と、その奥の鉄橋(通称二重橋)上に、色とりどりの傘が揺れる。敬愛と感謝のこもった傘の波。それを外国人のグループが、スマートフォンで撮影していた。
世界約200カ国のうち、君主がいるのは40カ国余りしかない(数え方に諸説あるが)。その中で最も古くから一度も途絶えることなく続いているのが日本の皇室だ。
延々と続く傘の波を、誇らしく思う。
もっとも宮殿前に着くとその傘が邪魔になり、後方からではお出ましになる場所が全く見えない。ああ残念、と肩を落としていると、お出ましの直前になって〝奇跡〟が起きた。誰から指示されたわけでも、合図があったわけでもないのに、みんなが傘を閉じたのだ。
途端に視界が開け、テレビでおなじみの、ガラス張りのベランダが見えた。日本人ならではの皇室への敬意と、周囲への気遣いが見せてくれた、お出ましの舞台である。
沿道の日の丸
その舞台に、一昨年の光景を思い重ねた。
令和4年10月、天皇、皇后両陛下が国民文化祭の開会式出席のため、即位後初めて沖縄県を訪問されたときのことだ。
基地問題などで国との対立が目立つ同県だが、皇室に対する一般県民の敬愛の念は厚い。平成24年にいまの上皇、上皇后両陛下が来県された際には、皇族の地方視察としては最大規模となる7千人の提灯(ちょうちん)パレードが行われ、ご宿泊所の近くで琉球芸能などを演じる奉迎イベントも催された。
しかし令和4年は新型コロナウイルス禍であり、宮内庁は行幸啓の詳細なスケジュールを一般には公表しなかった。感染拡大につながってはならないという配慮からである。
その日、那覇空港に到着した両陛下が最初に向かわれたのは、糸満市にある国立沖縄戦没者墓苑だ。両陛下が乗られる御料車を白バイが先導し、宮内庁長官ら側近の供奉(ぐぶ)車、警察車両、報道バスと続いた。
当時那覇支局長だった筆者も同行取材した。交通規制が敷かれた幹線道路を黒塗りの長い車列が走行する。それを最後尾のバスから眺めるのは、なかなか壮観だった。
と、その車列がふいに減速した。沿道に大勢の県民が、200~300メートルほどの間隔で数十人ずつ集まり、御料車に向かって日の丸の小旗を振っていたからである。両陛下が通られるだろうと、どこからか聞きつけ、ひと目お姿をみようと朝から待っていたのだ。
両陛下は、減速した御料車から会釈をされたり、手を振られたりした。そのたびに沿道に、日の丸の花が咲いた。父母に手を引かれた子供たちや、車いすのおじい、おばあもいた。みんな笑顔だった。
君民の絆が生み出す圧巻の光景に、胸が熱くなった。バスの中からでなく、沿道で、一緒に小旗を振りたかった。
沖縄県警によると、ご滞在中の2日間で沿道の群衆は計1万2千人に達した。
ご法度の万歳
宮殿のベランダに、天皇陛下が姿をみせられた。
続いて皇后陛下、秋篠宮殿下、同妃殿下、愛子内親王殿下、佳子内親王殿下がベランダに並ばれた。
日の丸の小旗が一斉に振られた。筆者も振った。皇居の手前でボーイスカウトの少年が配っていた日の丸である。
万歳の声も、あちこちから上がった。事前に「大声での万歳はお控えください」とのアナウンスがあったが、あふれる感情を抑えられなかったのだろう。
その日の丸も、万歳も、陛下のお言葉が始まるとピタリとやんだ。
「誕生日に、初めてこのように皆さんからお祝いいただくことを、誠にうれしく思います」
澄みきったお声が皇居の紅葉山にこだまする。終わるとまた日の丸、また万歳だ。
陛下が退出されてからも、高揚した気分は続いた。再び傘の波となり、出口へと歩き始めたとき、後ろで誰かが言った。
「日本人でよかった」(かわせ ひろゆき)