天皇家の長女愛子さま(22)が、日本赤十字社の嘱託職員として勤務されることになり、準備が進んでいる。大学院進学か留学が順当と見られていただけに、驚きの声も多かったが、皇族が「総裁」などの名誉職とは別に、一職員として勤務した例はほかにもある。
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「一社会人としての自覚を持って仕事に励むことで、少しでも人々や社会の役に立つことができれば」(就職決定時の「お気持ち」)という愛子さまの実務志向は、外交官だった皇后さまの思いを受け継いでいるようにも思える。
ユニセフで一般職員として働く
愛子さまに似たケースとして挙げられるのは、高円宮家の長女承子さま(37)だ。早稲田大卒業後、2013年4月に日本ユニセフ協会の常勤嘱託職員になった。大学入学前に英国留学は経験済み。報道陣に「亡くなった父の背中を見ていて、オフィスで働くのが夢だった」と胸の内を語ったこともあった。父親の故・高円宮(上皇さまの従兄弟)は、国際交流基金で一般職員と同じように勤務していた。 承子さまは皇族の公務も継続し、2013年8月、政府の招待でスリランカを訪問、大統領を表敬訪問した。翌年7月にはユニセフの業務でベトナムを訪問。少数民族の子どもの教育支援に関連し、日本の教職員による現地視察を引率する役目だった。
現在でも世界の子どもの貧困などを伝える「ユニセフ・キャラバン・キャンペーン」のスタッフとして、全国の学校を頻繁に訪問。「山形新聞」によると、2023年10月に山形市の小中学校で授業をし、毎日8時間を水くみに費やすエチオピアの少女を紹介。紛争や気候変動、栄養不良などで、子どもの権利が脅かされていると説明した。授業を受けた子どもたちは約15kgの水がめを運んだり、マラリア予防の蚊帳を使ったりする体験もした。
「毎日働きたい」と言った皇族
故・寛仁親王の次女瑶子さま(40)は、学習院女子大を卒業後、2006年から、愛子さまと同じ日本赤十字社で常勤職員として働き、血漿分画製剤の販売管理などに関わった。常勤職員を務めるのは、女性皇族としては初めてだった。
2009年に月刊「文藝春秋」のインタビューに答え、公務との兼ね合いについて「自分は公務が毎日あるわけではなく、せっかく働くのであれば、毎日働きたいと思っていた」などと話した。こうした気持ちから、常勤で週5日という日赤での勤務を選んだという。一般職員と変わりなく、オフィスで電話を受ける様子も赤裸々に語った。
「NHK職員」という異色の肩書を持っていたのは、2014年に逝去した故・桂宮。三笠宮(昭和天皇の弟)の次男で皇位継承順8位だった1974年、嘱託職員としてNHKの会長室国際協力部に配属された。
当時の「週刊新潮」や「週刊平凡」によると、東京・元赤坂から地下鉄で通勤して夕方6時まで勤務。昼は社員食堂を利用するなど“特別扱い”はなく、職場では「三笠さん」「三笠くん」と呼ばれ、外国の放送局との番組交換などの仕事を担当していたという。約10年後に退職したのは体調不良が理由とみられた。
1974年の「週刊読売」によると、「宮家といえば〇〇名誉総裁とかいうふうに名誉職ばかりでしょう。自分の力で直接社会の役に立たない。そういう地位につくことは好まないんです」と話していたという。
深夜ラジオのDJをやって……
「勤務」と言えるかどうか分からないが、深夜ラジオのDJをした経験があるのが、桂宮の兄の寛仁親王(2012年逝去)だ。
1975年の「週刊朝日」のインタビューによると、深夜1時からの2時間、ウィスキーのオンザロックを飲みながら、皇室や自分のこと、英国や福祉のことを話した。弟の高円宮(2002年逝去)は放送を聴き、「2時以降はろれつが回っていなかった」と評したという。 インタビューでは、ラジオの反響について触れ「皇族というのは、もっと薄っぺらな人間たちかと思っていたけど、おれの考えはきょうから変わったとか、福祉の問題もいままでわからなかったけど、よく説明してくれたとか(の声があった)」と嬉しそうに語った。
寛仁親王は障害者スキーの熱心な指導者でもあり、ゲレンデに出て雪上で障害者の手を取ったり抱き起こしたりして、実地での実践指導を繰り返したことで知られる。
雅子さまの実務
こうした皇族方の実務経験を振り返るとき、連想されるのは皇后雅子さまの持つ豊かな職業経験だ。
雅子さまは独身時代の1987年に外務省に入り、留学期間を除くと約4年間勤務。その間、経済局国際機関第2課や北米局北米2課に配属され、先進国首脳会議やOECD(経済協力開発機構)の担当を務めたほか、日米構造協議にも関わったことがよく知られている。
入省当時のインタビューに、仕事を持つのは当然であり、仕事と結婚を両立させたい、と語ったこともあった。
皇室入りした後も「実務」への強い思いを持っていたように感じられる。それがうかがわれたのは、天皇陛下が皇太子時代の2001年頃から使い出した「新しい公務」という表現だ。
陛下は2004年、「雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあったことは事実」と衝撃発言をしたが、その約3カ月前の会見で、「新たに私たちが始めるべき公務」「前からの公務で大切なものもあるが、その辺りを整理する」「今の時代に合ったような形で私たちでできる公務」との表現を繰り返していた。雅子さまの公務について「今までの経験を生かした形で取り組めるテーマ」が見つかってほしい、とも話した。
私には陛下が、雅子さまが自分らしく生き生きと働けるような実践的な仕事を訴えることで、自分らしさを失って窮地に陥っていた雅子さまを救おうとしたように感じられてならない。
父と母の背中を見て育った愛子さまが、同様に新しい時代の新しい仕事を志向したとしてもおかしくはない。そして雅子さまもまた、愛子さまの活躍を通じて自分の人生を生き直すことができるのではないか。愛子さまがどんな仕事をし、どんな職業経験を積んでいくのか見守りたいと思う。
大木 賢一(ジャーナリスト)
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