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実質賃金が上がらないのは、賃上げが消費者物価に転嫁されるからだ。政府や日銀は転嫁が望ましいとしているが、それでは、転嫁できない中小零細企業や、賃上げの枠組みから外された人々が被害者になる.政府は、いま進行している物価上昇を食い止めるべきだ。
賃金が上がるので物価が上がる
実質賃金の対前年比が、2024年6、7月にプラスになったが、その後は再びマイナスに戻った。こうなるのは、物価が上昇しているからだ。
ところで、物価が上昇する原因が、暫く前から変化している。2023年ごろまでは、世界的インフレと円安のために輸入物価が高騰したことが原因だった。しかし、最近では、名目賃金が上がっており、それが消費者物価に転嫁されるために物価が上がっている。
この変化は、一般にはあまり注目されていないが、重要なものだ。
つまり、賃上げは消費者の負担において行われているのだ。消費者と労働者を同一視し、全体として考えれば、自分で自分の賃上げを賄っていることになる。そして大まかに言えば、賃金が上がっただけ物価が上がることになる。したがって、実質賃金が上がらないのは当然のことだ。
こうした現状をどう評価すべきか?
中小零細企業は転嫁できない
前項で、最近時点における賃上げは消費者の負担において実現されていると述べた。ただし、これは経済全体で見ればということであって、個々のケースを見れば、そうでない場合もある。中小零細企業の場合には、人手不足で給与を引き上げても、それを次の段階に転嫁できないというケースが多いと考えられる。
したがって、前項で述べたのは、企業を全体として捉えればということであって、個々の場合について見れば、賃上げが必ず転嫁されているわけではない。転嫁の実態がどうなっているかを知るには、より詳細な調査と分析が必要だ。
企業の転嫁はどの程度認められるべきか?
政府は、中小零細企業が賃上げ分を次段階に転嫁できるよう、条件整備をするとしている。これは、前項で述べたように、実際には、中小零細企業が賃金を引き上げた場合に、それを販売価格に転嫁するのが難しいからだ。
ただし、企業が条件変化をどの程度まで販売価格の変化に反映してよいかという判断は、かなり難しい。
新聞報道によれば、大企業が中小零細企業を買いたたくというケースが多々あるようだ。最近では、アマゾンが出品者に販売価格の値下げを強いたと報道されている。あるいは、出版社がクリエイターの作品を買い叩くという例も報道されている。こうしたケースが望ましくないことは間違いない。政府や公正取引委員会がその是正のために介入するのは、望ましいことだ。
消費税率の引き上げが行われた場合にも、弱小業者は、消費税分を製品価格に上乗せして買い手企業に要求するのは容易でなかった。この場合には、消費税の構造からして必ず転換がなされなければならないのであるが、実際には、消費税税率の引上げ分を、納入者である中小零細企業が負担した場合が多い。
企業が雇用している従業員の給与の引き上げを、どの程度、販売価格に転嫁してよいかは、微妙な問題である。少なくとも、引き上げ分の全てを無条件で転嫁するのが望ましいとは言えない。その理由は、転嫁が次々に続いていけば、上で述べたように、最終的には消費者が賃上げ分を負担することになるからだ。
このような観点からすれば、政府は正反対の施策を行おうとしているわけであり、それによって日本経済の状況が悪化することが懸念される。
また、仮に賃上げ転嫁が望ましいという立場を認めるとしても、実際の取引においてそれを実現させるのは極めて難しい。先に述べたように、大企業が発注して中小零細企業が下請けするような場合には、政府が転嫁が望ましいと宣言したとしても、それだけでは、転嫁はほとんど不可能であると考えざるを得ない。したがって、転嫁を進めるという措置によってこの問題を解決することは、実際上は無理であろうと考えられる。
つまり、基本的には、給与の引き上げは、労働生産性の増加によってなされるべきであり、政府は、そのための条件整備を行うべきだ。
物価と賃金の好循環?
しかし、一般には、賃上げの転嫁は望ましいことだと考えられている。
政府は、物価と賃金が上がっていることを「物価と賃金の好循環」であるとし、望ましい現象であると捉えている。日銀は、これを金融正常化を進める条件としている。また、政府は、転嫁を容易にする条件整備を考えている。では、これでよいのだろうか?
前項で、「消費者と労働者が同じグループであり、それらを一括として考えれば」と述べた。しかし、実際には そうではない。
経済全体に賃上げが広がっているといっても、その恩恵から外されている人がいるからだ。第1には、企業に雇用されていない人やフリーランサーなど。
こうした人々は、賃金上昇の恩恵を受けることはなく、物価上昇の被害を受けるだけになる。したがって生活が困窮する。
物価上昇の原因に手を付けない政府の物価対策
賃上げの枠外に置かれた人々の立場を重視すれば、現在の物価上昇は望ましくないものであり、それを阻止することが必要になるはずだ。そして、それが物価対策の基本となるべきだ。
ところが、政府の物価対策は、物価が上昇することを認めた上で、それによって被害を受ける人を救済しようというものだ。物価上昇を抑制するという内容ではない。
この政策にはいくつかの問題がある。第一に、政府の物価対策の対象とされるのは、必ずしも上に述べたような意味で、賃上げの枠外に置かれた人々ではない。ガソリン補助は比較的高い所得の人を対象にしている。 したがって、物価高騰の被害者でありながら、政府の物価対策の対象から外されている人が多数存在することになる。
第二に、政府の物価対策のための財源は、結局のところ国民が負担している。だから、国民全体としては、この施策によって利益を受けているわけではない。
しかも、ガソリン代も電気ガス代も、見かけ上抑えているだけであって、その原因に手をつけていない。従って、物価上昇が賃金上昇によって生じるようになれば、いつになっても物価上昇は止まらず、したがって物価対策もいつになっても止められないということになる。
オイルショックの教訓
しかし、それが経済全体のインフレをさらに悪化させることになり、経済が危機的な状況に陥った。
この時日本は、賃上げを抑制し、それによってオイルショックを克服することができた。これは、労働組合が企業単位になっているため、「過大な賃上げを行なえば企業が沈没してしまう」という企業一家主義的な論理が働いたからだ。
企業一家の論理がいつも正しいわけではないのだが、この場合には、過大な賃上げを抑制するために、正しく働いたと考えることができる。
現在の事態を考える時、このときの教訓を思い出す必要がある。
野口 悠紀雄(一橋大学名誉教授)