◆「6日間ベッドに縛り付けられ、解かれた翌日に亡くなりました」
大畠さんを振り返る映画の冒頭シーン(大熊さん提供)
祭壇にはフルーツや仏花が並び、一人の男性の遺影がこちらを向く。場面は切り替わり、男性が亡くなった
精神科病院のカットへ。ナレーターとしての大熊さんの声が入った。
「大畠一也さんの両親にその時の状況を聞きました。息子の一也さんは精神的に調子を崩し…入院させました。当時40歳の一也さんは6日間、ベッドに縛り付けられ、拘束が解かれた翌日に亡くなりました」
映像が一瞬、横揺れした。ジャーナリストとしての怒りや悲しみが、その「揺れ」に表現されているかのようにも受け取れる。
「うん…はい。はい」。取材相手の言葉が生まれる道筋を少し先回りして地ならしするように、大熊さんの相づちがこだまする。
◆「冥土の土産にいっちょやったるか」
作品は4場面に分かれる。第1章は、2021年に「この身体拘束を指示した医師の裁量は違法」との
最高裁判決を勝ち取った大畠さん家族の話。第2章は大熊さんがインタビューに答える形で精神医療の闇を激白し、第3章は「
浦河べてるの家」(北海道)の取り組みを前面に。そして第4章で、地域から
精神科病院をなくした町の事例から、
精神科病院なき後の目指すべき今後を見据えている。
映画「脱・精神病院への道」を製作した大熊一夫さん=東京都内で
大熊さんはなぜ新たな挑戦を選んだのか。「
こちら特報部」の取材に「僕の心身のエネルギーは底をつく寸前だ。だからこそ、さてさて、この残り少ないエネルギーを何に使おうかと思案して、映画に行き着いたんです」と口にした。
「活字の表現力の深さは分かっているつもりだが、活字とは別の、人の心に飛び込みやすい表現、つまり映像作りを味わってから、この世におさらばしたいって無謀にもそう思っちゃったんだよな。冥土の土産にいっちょやったるかって」
◆27日、東京・千代田の一橋講堂で試写会
苦労も多かった。一つは機材の重さ。動画機能を備えた一眼レフと三脚をかついで出向くと、その重さに老いた身体が音を上げた。映像編集ソフトの複雑さも想像を超えた。「
スマホで撮影してユーチューブに上げるのとは全く違うレベル。専門学校に行けば学べるだろうが、そんな時間もカネもない」。最終的には
知的障害者のインターネット放送で日本の先頭を走る「パン
ジーメディア」(大阪)の指導者で映像ディレクター小川道幸氏に教えを請い、完成にこぎ着けた。
試写会は27日午後1時から、東京都
千代田区の一橋講堂である。主催する「日本のMattoの町を考える会」の代表でもある大熊さんは語気を強める。「今の精神病院に頼り切った体制がすぐにぶっ壊れるとは思えないが、日本中に蔓延(まんえん)している『監獄病棟』とは無縁の人間らしい支え方がある。日本でもできるってことは、ぜひ知ってほしい。だから映画を作ったんだ」
◆「ルポ・精神病棟」 人気漫画のモデルにも?
大熊さんといえば、「ルポ・精神病棟」だ。医療界の不条理を描いた大人気漫画「
ブラックジャックによろしく」精神科編でも大熊さんとおぼしき、潜入取材を試みる記者が登場する。
「ルポ・精神病棟」を上梓した頃の大熊さん=本人提供
大熊さんは東京・両国生まれ。実家の零細印刷屋は
東京大空襲で全焼。戦後、父は巨大印刷会社の経営を始めるも、1949年のキティ台風による水害で工場が水没して倒産し、借家住まいに。極貧と父親の病気で大学受験どころではなかった。
3年遅れで東大に入学。1963年に
朝日新聞社に入社した。「交通事故で亡くなった人の顔写真をもらいに行くのが苦手で、あーぁ、嫌な世界に入ってしまったと後悔する支局時代だった」
そんな大熊さんを変えたのは、ある企画だった。
当時地方から
集団就職で東京に出てきて落ちこぼれる少年が、東京・新宿歌舞伎町にたむろする姿が社会問題化。若手だった大熊さんはトイレで髪を茶色に染められ、2カ月間自宅に帰らず、歌舞伎町界隈(かいわい)で夏の夜をシンナーを吸いながら過ごした。取材成果は1969年、ルポ「新宿フーテン記」になり、新聞記者になって初めて先輩に褒められた。
その数カ月後、次の潜入取材先に選んだのが
精神科病院だった。「全く誰も知らない世界。当時の僕は愚かな先入観に毒されていて、精神病棟はオッカナイ場所だと思いこんでいた」
1970年2月5日、前夜から枕元に置いておいた
ウイスキーと日本酒をぐびぐびと飲み、泥酔状態で都内の
精神科病院に運び込まれた。
「2〜3分の診察で
保護室にぶち込まれました」。檻(おり)に入れられた
認知症の人たち、懲罰的な電気ショック、扉のないトイレ、羊羹(ようかん)のように固まった冷や飯…。「精神病棟は人間が捨てられる場所だと分かった」
こうして新聞で「ルポ・精神病棟」を連載し、その後に出版した書籍は異例の30万部も売れた。
◆その後に気づいた「わが人生で最もアホな15年間」
だが今、大熊さんは後悔している。「あれだけの思いをして描いたのに、ぼくはその後の15年間、精神病院はそれでも、ある程度は必要だと本気で思っていた。わが人生で最もアホな15年間だった」
頭が切り替わったのは、イタリアの精神保健システムに触れてから。
精神科病院を全廃し、地域で見守るシステムのイタリア・
トリエステを1986年に視察。「精神病院はいらないんだってやっと気づいたんだ」
翻って現在の日本。「ルポ・精神病棟」は昔話になっていない。神出病院(兵庫)や滝山病院(東京)など、虐待が明るみに出ても国や行政の踏み込みは甘く、病床数は約30万床と世界的にも相変わらず多い。
◆「大量処方、大量鎮静。後遺症は一生です」
今回の映画は
松山市の
精神科医・笠(りゅう)陽一郎さんのインタビューで締めくくる。
笠陽一郎さん
大熊さんは言う。「彼は精神病院の反治療性を厳しく指摘する人物。365日24時間オープンのクリニックで、出向くことを全くいとわない。日本では稀有(けう)だが、
トリエステなら当たり前。だから、この人物を映画の最後に据えたのです」
神出病院など虐待事件が相次いだ精神科病院の歴史を振り返る映画の一場面(大熊さん提供)
映画では「精神科救急の集中治療って言葉はいいが、大量処方、大量鎮静。後遺症は一生です」と笠さんの声が流れ、こう続いた。「岩盤は揺らぐと思っていましたが、変わらないね。精神病院だけじゃない。その後ろにもっと強固な組織があることを知らなかった。要するに行政が守るんです」。
精神科病院の収容ビジネス化を批判する笠さんの言葉に、熱のこもった大熊さんの相づちが響いた。
◆デスクメモ
長きにわたり、
精神科病院の闇をただす大熊さん。頭が下がるばかりだが、そうまでしなければならないほど、解決の道のりが険しいということだろう。世間が無関心であれば、状況は変わらない。折しも
衆院選。精神医療にも思いを巡らせ、現状打破を誰に委ねるべきか考えたい。(榊)
脱・精神病院への道
半世紀前に『ルポ・精神病棟』を書いたジャーナリスト・大熊一夫が、87歳にして筆をカメラに持ち替えて、脚本・撮影・編集を一人でこなし、1時間半のドキュメンタリー映画を制作!
日本の精神病院は約30万床もあります。地球上の精神科ベッドの20%以上です。
入院期間も異常に長いうえに、今この時点で1万人以上がベッドに縛り付けられています。中の様子はほとんどわかりません。こんな日本特有の「現代の秘境」に迫ります。
●日時 2024年10月27日(日)13時00分~16時30分(開場 12時30分)
●場所 一橋講堂(東京都千代田区一ツ橋2-1-2)
●プログラム
13時00分~14時30分 映画試写会「脱・精神病院への道」
14時30分~14時45分 休憩
14時45分~16時30分 鼎談「収容主義をぶち壊す処方箋」
日本のMattoの町を考える会
大熊一夫(代表)
伊藤順一郎(副代表)
福井里江(事務局長)
●参加費 事前申込み:1500円、当日参加:1800円
●定員 500人
●申込み
・事前申し込み:Peatixのサイトからお申し込みください。
〆切 10月20日(日)
https://matto202410.peatix.com
・当日申し込み:直接会場にお越しいただいて、参加費をお支払いください。
●協力 認定NPO法人地域精神保健福祉機構
●問い合わせ先:
「日本のMattoの町を考える会」映画試写会事務局
mattotokyo@gmail.com