私は東日本大震災の「被害者」であり「加害者」でもあります―。福島県大熊町の出身で、町内に立地する東京電力福島第1原発の元社員、渡部キイ子さん(64)は、東日本大震災の津波で古里を失い、職場で発生した原発事故で古里を追われた。
「首都圏に電気を安定供給する”電力マン”の一員として、仕事に誇りを感じていた」。
しかし、13年前のあの日、その誇りも奪われた。町は震災と原発事故からの復興に向けた新しい町づくりを進める中、渡部さんもまた、再生への一歩を踏み出そうとしていた。(福島民友新聞社浪江支局長・渡辺晃平)
「まさか、そんな」原発事故、衝撃を受けた東電社員
「また地震かぁ」。2011年3月11日の午後2時46分、東京電力福島第1原発の事務本館にいた渡部さんは仕事の手を止めた。数日前から三陸沖を震源とする地震が続いていた。ただ、今回はいつもと違った。地震は突如、激しさを増して襲ってきた。やがて高さ13メートルの大津波も押し寄せた。「母は大丈夫なのか」。渡部さんは町沿岸部の熊川地区の自宅で母と暮らしており、安否が気になった。災害時の緊急要員ではなかったこともあり、上司の許可を得て急いで帰宅。母は幸いにも、内陸の病院に逃げていて無事だった。
翌12日早朝、政府は原発から半径10キロ圏内に避難指示を発令し、渡部さんの自宅も避難区域に含まれた。「どのくらいで帰ってこられるのかしら」。避難を呼びかける消防団員に聞くと、「数日もすれば帰れるかもしれない」との返事だった。原発から離れるように母を連れて避難した。しかし、事態は悪化の一途をたどっていた。
福島第1原発1号機から大きな煙が出ました―。原子炉建屋が水素爆発を起こしたと速報を打つテレビの映像が、目に飛び込んできた。「まさか、そんな」。原爆が投下された広島市と長崎市の惨状が脳裏をよぎった。3号機と4号機も相次いで爆発した。「みんな生きているのか」。同僚の安否に気をもむ日々が続いていたが、3月下旬、職場から「人手が足りない」と応援要請を受けた。渡部さんは避難先としていた新潟県柏崎市に母を残し、事故対応へと向かった。「お母さん、そばにいてあげられなくてごめんね。でも、原発を何とかしないといけない」
原発に感動した幼少期 東電に就職、原発は誇り
「福島のチベット」。原発立地以前の大熊町を含む周辺地域は、貧しさを例える表現として、そう呼ばれたこともあった。農業が主な産業だったが、農閑期になると首都圏へと出稼ぎに行く町民は多かった。その頃、日本は高度経済成長を迎えていた。都市部のエネルギー需要は増え続け、国は原子力によるエネルギー政策を推し進めた。原発の建設が始まると、企業の進出や土木事業で雇用が生まれ、町民は地元にとどまって仕事ができた。原発は地域に経済的な恩恵をもたらし、首都圏のエネルギー供給地帯として日本の経済発展を支えることになった。「この町はいつか仙台のような大都市になる」。そんな期待を抱く住民もいた。
渡部さんは1959年、大熊町の熊川地区に生まれた。当時はまだ、原発の建設計画が水面下で進められており、「原発の町」へと様相を変える過渡期にあった。やがて1号機が完成し、稼働が始まった。小学校の課外授業で初めて原発を訪れ、「こんな大きな建物ができたなんて、すごいなぁ」と、子どもながらに感動したのを鮮明に覚えている。
高校卒業後は、親の意向で地元に就職することが決まっていた。渡部さんは成績が良かったこともあり、狭き門だった東京電力福島第1原発に事務職員として入社した。巨大な送電線が東京方面へと延びていく様子を見るたびに「日本の経済成長を支えているんだ」と感じ、誇りを持った。しかし入社から30年以上が過ぎた13年前、未曽有の事故が起きた。世界の原子力史上、最悪レベルの事故とされた。
原発事故で「加害者」に、息潜めて暮らした
震災から半年後、母と弟の3人で、放射線量が高く立ち入りが制限されていた古里に一時帰宅した。海沿いにある、かつて生家があった思い出の地は津波に襲われ、跡形もなかった。震災前に生家のすぐ近くに建てたばかりの自宅は津波を逃れたが、5キロ北にある原発が一帯に暗い影を落としていた。母は「大熊にはもう帰れない」とうつむいた。東電社員の渡部さんは、震災と原発事故の「被害者」でありながら「加害者」でもあった。「私にはどんな感情を持つことが許されるのか」。浜辺に立ち尽くし、静かに泣いた。
それから、東電社員であることを隠すように、息を潜めて生きるようになった。地元住民から「お前らのせいで、こんなことになってしまったんだ」と罵声を浴びせられたときには、体を小さくして、受け止めるしかなかった。それは母も一緒だった。東電社員という十字架を背負った娘を思うと、古里を失ったことへの文句も言えなかった。
母は、県内外の避難先を転々としながら、孤独な避難生活により精神的に追い詰められていった。いわき市のアパートを避難先として渡部さんと再び同居するようになったが、娘は仕事に追われていた。近くに知り合いもいない。趣味だった畑作業もできない。「大熊に帰りたい。大熊に帰れない」。母は望郷の思いを何度も繰り返した。震災から約1年後、病でこの世を去った。
心を解かしてくれた、地元の顔なじみ
2019年の夏、渡部さんは東京電力を定年退職した。避難先のいわき市で、しがらみのない新しい人生を送る選択肢もあったが、「廃炉を近くで見守りたい。同僚や町民のそばで生きていたい」と思った。しかし、自宅は除染で出た土壌を一時保管する中間貯蔵施設(大熊町、双葉町)として国に土地を売却したため、帰ることはできない。
原発事故で全町避難が続いた大熊町は、南西部の大川原地区を復興拠点と位置付け、同年4月に避難指示が解除された。農地が広がっていた大川原地区は、町全体の再生に向けた復興の「足掛かりの場」として集中的に開発が進められ、インフラが続々と整備された。渡部さんは大川原地区の公営住宅に入り、交流施設の職員になった。
職員の大半は大熊町の復興に思いを寄せる移住者ら新顔が占める中、渡部さんは数少ない地元出身者だ。「あら、キイ子さんじゃない」。避難先から訪れた町民は「知っている顔がいた」と安堵の表情を浮かべた。「お久しぶり。元気にしてた?」。顔なじみの町民とのたわいのない交流は、渡部さんの凍った心を次第に解かしていった。
「私は元東電社員」事故から13年、私の役割
大熊町には震災前まで、約1万1500人が暮らしたが、帰還率は1割に満たない。13年という月日の流れの中で、町民は仕事や子育て、介護など、さまざまな事情から避難先に生活の根を下ろした。町の復興は着実に進む一方で、多くの町民の心は、根無し草のように宙を舞い、さまよった。
帰る、帰らない、帰れる、帰れない―。渡部さんは、そんな町民たちの心に寄り添い続ける覚悟を固めていった。「大熊の玄関口」とされる交流施設の一角に立ち、いつも笑顔で出迎える。かつての街並みは消え、新しい町へと変わりゆく中で、町民と古里の絆を結ぶ「橋渡し役」となっている。
昨年からは、震災について学ぼうと町外から訪れる人々に向けた講話も引き受けるようになった。「渡部キイ子と申します。私は大熊町出身で、元東電社員です」。母を失い、古里を失い、誇りを失った―。自らがたどってきた運命に、偽りはない。自らの体験や町が歩んだ過去を伝え、大熊に少しでも関心を持ってもらうことが、自分の果たすべき役割と考えている。 ※この記事は福島民友新聞社とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。