ろう女優の忍足亜希子が語るこれまでの軌跡と使命感「生涯、女優として生きていきたい。そのための努力は惜しまない」(2024年9月30日『NEWSポストセブン』)

NEWSポストセブン
手話をする忍足亜希子

 全国で上映中の映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』は、耳のきこえない両親のもとに生まれた、きこえる少年(吉沢亮)の実話が原作で、親子の絆を描いた、しみじみと心揺らす物語だ。その少年の母親役を演じたのが、ろう者の女優である忍足亜希子だ。25年のキャリアがある忍足が、これまでの軌跡を振り返る。【前後編の後編。前編を読む】 

【写真】結婚式を挙げる忍足亜希子。他、手話で説明する忍足亜希子、幼少時代の忍足亜希子なども

人間関係がどんどん苦しくなった銀行員時代 
 高等部卒業後の進路に、忍足は短大進学を希望した。「聴者と共に過ごす環境を一度は知ってみたい」がその理由だった。「好奇心旺盛なんです」と笑うが、ここに彼女の人生に対する、前向きなひたむきさを感じることができる。両親は躊躇したが担任が背を押してくれた。9校を受験。だが、当時はハンディを持つ人間に門戸を開いてくれたのは1校のみであった。1989年春、都内の青葉学園短期大学に入学。 

「不安もありましたが、自分から動かねばと。『私は耳がきこえません。できれば協力をお願いします』と、紙に書いて級友たちに渡しました」 

 ここでの2年間は、友人らにも恵まれ幸福で、平穏なものとなった。卒業後は学校の推薦を受けて、障害者雇用枠のある、横浜の銀行本店に就職している。だが、ここで高等部在学中以来の、精神的圧迫を受けることになり、鬱っぽくさえなった。 

「ろう者の場合、仕事の範囲がとても狭いんです。データ入力とか、資料のコピーとか、お茶くみとかばかりで、全部私がやる。そこに疑問を感じ始めるともうだめでした。それと人間関係、コミュニケーションもうまくいかなくて。皆、仕事が忙しいから筆談しようにも応じてもらえないし、関係が悪化していくといいますか。どんどん苦しくなってしまって……。母に話したら『もう辞めていいのでは』と、言ってくれました」 

 高等部時代、頑なまでに登校させた母が、すぐさま同意してくれた。それは娘の心の疲弊を痛いほどわかってくれていたのだろう。5年間の勤務ののち、退職した。 

「それから旅に出たりしながら、私に何ができるのかを考え始めました。自分に合う仕事、天職と思えるような仕事に出会いたいと、強く思いました。自分の人生だから。どこまでやれるかわからないけれど、失敗してもいいから、経験を積み重ねていけば、いつかはきっと生きがいを見つけられるはずだと」 

 そう語る目は、四半世紀も前に初めて会ったときと変わらなかった。凜として、ただ真っ直ぐにこちらを見つめてくる。ろう者だからという枠を自分に課せず、自分の人生の可能性に懸けたい。それは多くの女性たちが、自身の生き方に悩む思いと同じだ。

ろう者は寂しいという固定観念を壊したかった 
 1999年、ろう者と聴者が共に作る映画『アイ・ラブ・ユー』のオーディションの話を知らされた。 

「友人から『あなたに出てほしいの』と。役者だなんて、聴者のやる仕事であって、無縁だと思っていた。でも思ったんです。これまでろう者が出ているものは、暗くて寂しい、孤独なろう者ばかりが描かれている。実際は明るくて闊達な人たちが多いのに。納得できない、固定観念をぶち壊したいって思ったんです」 

 忍足には「脳裏に焼き付いている」、ひとりの女優の姿があった。マーリー・マトリン。かつて映画『愛は静けさの中に』で、米アカデミー主演女優賞に輝いた、ろう者の女優である。その姿を見たとき「あの人のように強くなりたい」と心に刻んだ。そして応募した忍足は、主演の座をつかむ。このとき彼女を起用した監督のひとり、大澤豊は「忍足さんの手話は、正確でかつ品があった。そして清楚さと愁いのある表情は新鮮でした。なおかつ内面には、役者に必要な負けず嫌いの激しい闘志と、チャレンジ精神を秘めている」と、語っている。 

 今作の監督、呉美保も「品があって、華があって、何より笑顔が素敵です。あえてあっけらかんとしてみせる天真爛漫さも魅力で、吉沢さんの母親役として引けをとらない」と、起用理由を述べている。 

「今、思い返すと、29歳のあのとき、よく(応募する)勇気があったなって。人前に立つことが苦手でしたし、世の中に理解されづらい存在だから、聴者に対して私はこうです、としっかり言えずにいた。でもあの映画のお陰で、チャレンジできたんです」 

 そして、と手話に力を込めた。 

「聴者の世界にろう者が参入することで、少しずつ変わっていきますよね。一緒にどういう工夫をしたらよいのか相談しつつ進めていくことで、理解しあい、新しい形が生まれていくというのか」 

 過ごしてきた年月。演者としての苦悩はなかったかと尋ねた。 

「それは……ありました。始めて2年ほどして、演技の難しさ、気持ちの作り方に限界を感じて、続けるのは無理かもって」 

 そのとき、やめようという気持ちを留まらせたのは、講演で訪れた地方のろう学校の子どもたちの存在であった。忍足を見て、自分も役者になりたいという、夢を抱いていた。 

「あの子たちの夢を叶えるためにも、続けなくてはと思ったんです。それにやめたなら、やっぱりろう者に役者は無理だねと思われる。仕事は頼めないって。それは悔しい。それだけは絶対、許さない! と思って(笑い)」 

久しぶりの再会に手話で話しかけてくれた彼 
 やがて39歳になったとき、再び大きな転機が訪れる。俳優の三浦剛(横浜DeNAベイスターズ監督・三浦大輔実弟)と結婚。3年後には長女が誕生した。だが結婚にたどり着くまでは紆余曲折があったそうだ。 

「おつきあいをしたものの、半年ほどで私から別れを告げました。やっぱり……すごい不安だったんです。聴者と生きていっていいのかとか、1、2年はいいかもしれないけれど、男の人の気持ちなんて変わるんじゃないか、やっぱり聴者と喋りたくなるんじゃないかとか……。私もろう者と手話で話せたほうがいいのでは、とか。ろう者と聴者との結婚は、離婚することが多いんです」 

 それから6年が経ち、ふたりは再会。忍足が共演経験のある上川隆也の舞台を観に出かけたときだった。彼は上川と同じ事務所に所属していて出演していたのだ。 

「久しぶりに会ったとき、手話で話しかけてくれたことが意外でした。あ、手話を忘れてないんだと思って。連絡先を交わしてまた会うようになってからも、『これは手話でどうやるの?』とか、すごく熱心に聞いてくる。しだいに、この人なら大丈夫だと思えたんです。真面目ですし、きっと浮気もしないだろうって(笑い)」 

 誕生した娘さんは、今12歳になった。母を強力にサポートするひとりであり、応援団でもある。 

「娘はきこえるので、後ろから車が来たりすると、さっと手を引いてくれる。『ママを守るために、私が助ける』と言ってくれて。うちでは会話の基本は手話にしているんです。誰も取り残さないというのがルール。なんやかんやとあるけど、すごく賑やかで楽しい家族です」 

 それでも、赤ん坊の頃の世話は大変だったことだろう。映画『ぼくが生きてる、ふたつの世界』では就寝時に、自分の腕と息子の足を紐で結わえて寝るシーンがあった。 

「ええ、昔はそうしていたようです。今もしている人はいるかもしれませんね。私の場合は、泣き声に反応して光が出る機械を買って、その使い方を夫のお母さんが教えてくださって」 

 実生活において母となったことは、今作の役柄をより深く理解する力となったようだ。 

「娘のお陰で、母親の気持ちがわかるようになりましたし、感情が豊かになったように思います。何だか涙もろくもなって」 

 25年目の、忍足の集大成となる作品といえるほど、滲み出るものがあった。誰も歩めなかった道を、強い意志と努力をもって、ひとつひとつ築き上げてきた。 

「ろうの世界、手話の世界を発信していく、知ってもらうために伝えていく。そのために自分は生まれてきたのかな、と今では思います。映像の世界を通して、ある意味、開拓をしていくというのか。そんな使命感を確かに感じています」 

 そして、と美しい瞳により輝きが宿った。 

「生涯、女優として生きていきたい。そのための努力は惜しまない、そう思っています」 

(了。前編を読む) 

【プロフィール】 

忍足亜希子(おしだり・あきこ)/1970年、北海道生まれ。1999年、映画デビュー。第54回毎日映画コンクールスポニチグランプリ新人賞」、第16回山路ふみ子映画賞山路ふみ子福祉賞」受賞。近作に映画『僕が君の耳になる』『親子劇場』、ドラマ『デフ・ヴォイス 法廷の手話通訳士』(NHK)ほか。講演会、手話教室開催など、多岐にわたり活躍中。本作は、ロンドン映画祭コンペティション部門、バンクーバー国際映画祭パノラマ部門、上海国際映画祭コンペティション部門に出品された。 

取材・文/水田静子  撮影/浅野剛

※女性セブン2024年10月10日号