岸田首相の「迷走」
日本の各メディアの「岸田首相不出馬報道」を見ていて、最も心に響いたのは、TBSのニュース番組に生出演した作家の保阪正康氏の発言だった。保阪氏はこう述べた。 「お辞めになるのはご本人の意思でしょうが、それにしてもなぜこの日だったのか。8月14日や15日が日本にとってどんな日なのかは、ご本人もよくお分かりでしょうに。このことに岸田政治の歴史観のなさが表れているように思います」 昭和史研究の第一人者の保阪氏らしいコメントだった。周知のように日本では毎年、8月6日の広島への原爆投下の日から、15日の終戦記念日までの10日間は、「戦争時代を振り返る期間」というのが慣習だ。まして岸田首相は広島市の出身で、核廃絶が政治家としてのライフワークである。 だが、本人にはもう余裕がなくなっていたのだろう。8月9日の長崎で原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に参加した後、そこからカザフスタン、ウズベキスタン、モンゴルと歴訪する予定だったのを、ドタキャンしてしまった。首相に同行してきた外遊随行者たちも、唖然である。 いまにして振り返れば、このあたりから首相の「迷走」が始まっていた。そして首相官邸関係者によれば、「総理の各種日程や、ライバルたちが出馬宣言していくことを鑑みれば、14日のタイミングしかなかった」。つまりは、「歴史より現実の日程」を優先させたのである。 「中国ウォッチャー」である私のスマホには、14日の昼前から、速報を伝える中国メディアの通信が次々に入り始めた。新華社やCCTV(中国中央広播電視総台)などが、「岸田首相9月退陣」の事実を伝えた。
中国政府は「岸田退陣」をどう見たか
中国を代表する国際紙『環球時報』は15日、「岸田が選挙を棄権 日本の政局はまたもや流動的に」というタイトルで、長文の論評を掲載した。 于海龍(う・かいりゅう)中国共産党中央党校国際戦略研究院学者という署名が、一応入っている。だがこの記事は、まさしく中国政府の岸田政権に対する見方を代表していると言えよう。 記事では、「岸田退陣」の原因は、主に3点あると分析している。
〈第一に、経済発展の成果が思わしくない。新型コロナウイルス、ロシアとウクライナの衝突、日本円の暴落などの影響下で、国際的なエネルギー価格は上昇し、日本国内の物価はうなぎ上りとなっていった。岸田政権の「新しい資本主義」という政策は、予期していたような効果を生まず、昨年の日本の名目GDPは、ドイツに抜かれて世界第4位に後退してしまった。
第二に、政治スキャンダルが絶え間なく続いた。閣僚のスキャンダル、統一教会問題、自民党の裏金スキャンダルなどだ。岸田政権は何度も内閣改造を行ったが、それは岸田政権の不安定性と、日本国民の不信感を増幅させることとなった。岸田首相は自らがリーダーを務める宏池会を解散したが、そのことも自民党内で固定支持層を失う結果となった。そうして執政を進めるにつれ、他の政治勢力と交渉していく資本を失って行った。
第三に、安保政策がさらに軍事化していった。岸田政権は、国内の保守勢力に迎合するため、国家安保三文書の改正を推進し、OSA(政府安全保障能力強化支援)の制度を制定した。平和憲法と防衛装備品移転三原則を越えて、安保の軍事化の色彩を、日に日に濃くしていった。その防衛費を増加させるため、増税政策に打って出ようとして、国内の平和主義勢力の強い牽制を受けた〉 以上である。3番目の「軍事化」というのは、日本から見るとちょっと眉唾(まゆつば)物だが、中国政府の日本観は、日本の左派の人々に近いスタンスなので、このようなものが加わる。8月15日の日本の終戦記念日のニュースでも、CCTVは、日本の左派の人々が東京で開いた「反戦集会」を、まるで日本人の「民意」がここにあるかのように、延々と報じていた。
自民党が直面する重要な課題
次に、今後の自民党総裁選の展開だが、記事では現状をこう分析している。 〈自民党の執政の地位は、なお揺らいでいないので、来月選出される新総裁が日本の新首相になることは、ほとんど疑いがない。ただし自民党の各派閥が相次いで解散した影響を受けて、もとの派閥で残っているのは麻生派ただ一つになってしまった。
石破茂、茂木敏充、高市早苗、菅義偉などが、「勉強会」などの形で、それぞれ政治団体を改造したり結成したりしている。自民党内の各方の勢力は、新たな分化、再構成の段階であると言える。 野党はいま積極的に次の衆院選に備えていて、自民党の政策を攻撃している。日本の政局の断続的な混乱と変革は根絶されない。
今後、自民党内の各勢力がどの程度まで団結していけるか、また日本国民の自民党に対するマイナス評価を改善していけるのかは、自民党が直面する重要な課題である。経済の発展と政権の安定は均しく、自民党政権が近未来の一時期に優先的に行う任務である。しかしながら、自民党の右傾化の傾向が根本的に変わるのは難しいだろう〉 このあたりは、読んでいて納得がいった。
「どうせ日本は変わらないよ」
続いて、岸田政権の外交についても総括している。やや長いが、そのまま訳す。 〈中国と再度新たに戦略的互恵関係を全面的に推進することを確認し、日韓の徴用工問題の争議などを緩和したのは、一定の成果である。しかし、岸田政権の外交政策は、全般的に冷戦時代のイデオロギーモデルから脱却できていない。アメリカに対する外交では、自主性を著しく欠いている。
岸田政権は、日米関係を「グローバルなパートナーシップ関係」に格上げさせようとしているだけでなく、ロシア・ウクライナ衝突などの問題でしっかりアメリカに歩調を合わせた。アメリカの軍艦を日本で修理することや、アメリカへの武器装備輸出を許可した。アメリカがリードするIPEF(インド太平洋経済枠組み)に加入し、アメリカの加速する対冲抑止戦略に、あからさまに組み入れられた。そして中国を、「前代未聞の最大の戦略的挑戦」と位置づけている。
同時に岸田政権は、米日韓、米日比、米日豪などの小さな多国間の枠組みに、参加したり組成したりし、イギリス、オーストラリア、フィリピンなどと、2国間のRAA(部隊間協力円滑化協定)を締結した。そしてイギリス、イタリアとは、次世代戦闘機の共同開発協定を結んだ。 岸田政権の排他性や対抗的な外交政策は、アジア太平洋地域の安全の局面の均衡を破った。地域の国家間の安全の苦境を加速させ、中日関係と日ロ関係の安定的な発展に、深刻な挑戦をもたらした。
(アメリカの)「Small Yard, High Fence」(高い柵で囲われた小さな庭)式の安保戦略を推進したが、それは日本経済の復活と生活レベルの向上にすでに悪影響を与えている。このことはまた、RCEP(地域的な包括的経済連携)など地域の経済貿易協力の機構が効力を発揮するのを阻害している。 おそらく次の日本政府の外交政策も、アメリカ大統領選の結果の直接的な影響を受けるだろう。しかしながら、岸田政権と関係国との間で展開している協力は、比較的強固な制度的慣性が働いているので、日本が短期間のうちに根本的に外交を転換することは難しいだろう〉 長々と書き連ねているが、要は言いたいことは、「どうせ次の首相が現れても、アメリカにくっついていくだけなんだから、日本は変わらないよ」ということだ。
それはある意味、そうなのかもしれないが、日本が危機感を募らせる根本的原因である、中国が日本を含む近隣諸国に対して行っている威圧的な行為については、頬をかむっている。
中国政府は「茂木・石破」勝利を予想
もう一つ、『中国新聞ネット』(8月14日)も、「岸田が突然選挙から撤退、原因を暴露する」と題した記事をアップさせた。記事の全体は3部構成で、こちらもかなりの長文だ。遼寧大学日本研究センターの陳洋(ちん・よう)客員研究員に話を聞いたとしているが、やはり中国政府の意思を代弁していると考えてよいだろう。以下、その要旨を箇条書きにしてみる。
・岸田文雄首相の自民党総裁選への不出馬宣言は、先日のバイデン大統領の米大統領選への不出馬と似たところがある。両者ともに党内及び社会の民意の圧力に遭い、支持を低迷させたのだ。
・岸田首相は、支持を回復させようと、多くの措置を取った。例えば、憲法改正を加速させるとして、自民党保守勢力に擦り寄った。同様に、国民が好む内政や外交の政策を通して、社会の民意に擦り寄った。そうして各方面の支持を得ようとしたが、全体的にこの種の手法は、効果が限定的だった。
・岸田首相は、自民党内の「大ボス」麻生太郎副総裁の支持を得ようとしたが、おそらくうまくいかなかった。
・自民党の主要派閥が解散したことや、岸田首相の不出馬宣言により、自民党総裁選には多くの立候補者が現れることが予想される。その結果は、これまでと違って予測しにくい。
・出馬が予想されるのは、「令和の明智光秀」こと茂木敏充幹事長、林芳正官房長官、高市早苗経済安保担当大臣、石破茂元幹事長、小泉進次郎元環境大臣、小林鷹之元経済安保担当大臣らである。
・全体的に見て、茂木幹事長と石破元幹事長が、最終的に勝利する可能性がやや高いと言える。茂木幹事長は、日本社会での知名度は高くないが、自民党内での影響力が比較的あり、実務能力も高い。加えて麻生副総裁は、茂木幹事長に必ずしも反感を持っていない。
・石破元幹事長は、やはり実務能力が高く、政治的な抱負も持っており、社会的な知名度も比較的高い。ただ自民党内では、あまり歓迎されていない。
「岸田=バイデン説」には同感
・今回の自民党総裁選挙は、自民党が引き続き安定して執政していけるかを左右する。衆議院選挙は来年10月までに行われ、参議院選挙も来年7月に行われるからだ。 ・この3年で日本はさらに積極的に、大国間の確執の先兵部隊の道を進んだ。それは、日本国内と周辺国が懸念するところとなっている。
・岸田首相は2021年10月の就任以来、32ヵ国・地域を訪問した。これらの特徴は、ウクライナ危機と中国の動向を睨んだものだということだ。
・ウクライナ危機が始まって以来、岸田首相はウクライナを支援する態度を明瞭にしてきた。2022年6月、岸田首相は初めてNATO(北大西洋条約機構)首脳会議に出席した日本の首相となった。そこで、「ウクライナは明日の東アジアかもしれない」と強調した。昨年3月には、ウクライナを電撃訪問した。
・同時に、尹錫悦(ユン・ソンニョル)韓国大統領との間で、日韓関係正常化の共通認識を得て、「シャトル外交」を復活させた。日本と米韓は、3ヵ国の防衛協力、及び海洋安全などの分野で東南アジア各国との協力を深化させた。
・その一方で、日中関係は、次の自民党総裁・首相が必ず直面する重要課題となっている。 以上である。冒頭の「岸田=バイデン説」は、私も同感である。ジョー・バイデン大統領は先月21日、次期大統領選への出馬を断念すると発表した。その時、私はこれで岸田総裁の再選もなくなったと考え、各メディアの記事にそのように書いたり、テレビで発言したりしてきた。
この両首脳は、「一蓮托生の運命」なのだ。おそらく本人同士もそう考えていたに違いない。岸田首相が4月に訪米した際には、9日の晩に両首脳夫妻だけでディナーをともにしている。その時に、互いの再選に向けて最大限の協力を行っていこうと、固く誓い合ったことだろう。
日中関係を停滞させた「4大問題」
その意味で、「バイデン大統領不出馬」という一報を聞いた際、すでに岸田首相の心は、半ば折れてしまったと思われる。その後、カマラ・ハリス副大統領が支持を伸ばしたので、ほくそ笑んだことだろうが、ともかく2期目のドナルド・トランプ政権が発足したら、岸田首相ではとても伍していけない気がする。
換言すれば、今回の自民党総裁選は、「誰がトランプ大統領と伍していけるか」という争いとも言える。トランプ大統領と見事な蜜月関係を築いた、往年の安倍晋三元首相のようなイメージが期待されているのだ。 上述の記事に戻ると、次の自民党総裁が、茂木幹事長と石破元幹事長が優勢という分析は、中国側の願望が多分に入っている。
中国側としては、「親中」でなくとも、「反中」でない政治家に日本の首相になってほしいのだ。 おしまいの日中関係については、停滞させたのは、主に中国側である。(1)日本産の水産物の輸入再開、(2)スパイ容疑をかけている日本人の即時解放、(3)尖閣諸島のEEZ(排他的経済水域)内に中国側が設置したブイの撤去、(4)日本人の中国へのビザなし渡航の再開という「4大問題」について、日本側は昨年来、再三にわたって要求してきた。
ところが中国側は、馬耳東風。その理由を推察するに、一つの仮説として考えられるのは、過去にもたびたび見られた中国側の「態度」である。 それは、「日本の政権の支持率が2割を切ると相手にしない」というものだ。なぜなら、半年以内に崩壊する可能性が高いからだ。 岸田政権も、今年に入って毎日新聞や時事通信の世論調査などで、「2割ライン」を切り始めた。そのため、中国側が「次の政権待ち」の状態に入ったということだ。その意味で、記事が指摘する「日中関係は、次の自民党総裁・首相が必ず直面する重要課題」というのは、その通りだ。
中国が最も警戒している総裁選候補者は
おしまいに、中国側から見て、いま俎上に上っている自民党総裁選の候補者たち11人が、どのくらい望ましいか、もしくは警戒しているかということを示そう ☆☆☆☆☆が最も望ましい。逆に☆が、最も望ましくない、すなわち最大限の警戒人物である。星はあくまでも、私見であることを断っておく。
〇野田聖子元総務会長…☆☆☆☆☆ 中国にとっては、野田総理・総裁誕生が、ベストのシナリオである。たびたび訪中しており、中国が南シナ海に人工島を築き始めた時は、「日本と直接関係ない」と言い放ってくれた。党内「親中派」筆頭の二階俊博元幹事長との息もピッタリである。
〇石破茂元幹事長…☆☆☆☆ 元防衛相でタカ派のイメージもあるが、中国側は必ずしもそう見ていない。石破氏のような「自分の言葉で議論できるタイプ」を中国側は好む。
〇茂木敏充幹事長…☆☆☆☆ やはり「井戸を掘った」(日中国交正常化を成し遂げた)田中角栄元首相に連なる政治家ということで、期待感を持っている。
〇林芳正官房長官…☆☆☆☆ 林氏を「親中派」と呼ぶ右派人士もいるが、私は「知中派」と見ている。昨年4月に外相として訪中した際には、かなり厳しく中国側に詰め寄っている。それでもかつて日中友好議連会長を務めるなど、中国側も熟知した政治家である。
〇河野太郎デジタル担当相…☆☆ やはり右派人士は、父親の河野洋平元衆院議長が「親中派」だったことなどから「親中派」とみなしたりしているが、中国側は「ミニトランプ」と見ている。すなわち、行動が予測不能な政治家ということで、一定の警戒感を持っている。
〇上川陽子外相…☆☆ 現在の外相として、中国の王毅外相らと渡り合っているが、中国側の評価は「極めて官僚的な政治家」。実は中国にもそのような政治家は多いのだが、だからこそ「アメリカの言いなりにならない首相」を求める。
〇加藤勝信元官房長官…☆☆ 比較的、中国に寛容な茂木派に属し、やはり比較的、中国に寛容な財務省の出身。とはいうものの、中国は「ミニ安倍晋三」と見て警戒している。
〇斎藤健経済産業相…☆☆ 経済産業省の官僚出身で、米ハーバード大留学時代は林官房長官とも交流があった。中国から見ると「アメリカの代理人」のイメージである。
〇高市早苗経済安保担当相…☆ 今年も8月15日に靖国神社を参拝したが、その時点で中国側からすれば「A級戦犯」。高市氏のこれまでの言動から見ても、「最も首相になってほしくない政治家」である。
〇小林鷹之前経済安保担当相…☆ 同様に、8月15日に靖国神社を参拝した「A級戦犯」。経済安保相時代にも、名前の通り「タカ派」として鳴らし、中国側は警戒感を抱いている。
〇小泉進次郎元環境相…☆ 同じく「A級戦犯」。父親の小泉純一郎元首相も首相在任時代、毎年靖国神社を参拝し、中国とは折り合いが悪かった。純一郎氏は「反中派」というわけではなかったが、中国側からすれば、靖国神社を参拝する政治家というだけで、即アウトとみなす。 以上である。日本の外交を考えると、やはり首相としての最大の「適正」は、大統領に返り咲く可能性があるトランプ氏とうまくやっていけるかである。だがその陰で、「対中スタンス」も注視しておく必要があるだろう。
今月下旬には、二階俊博元幹事長の訪中も噂される。中国側としても、日本の政局から目が離せないこれからの1ヵ月となるだろう。
(連載第741回) 中国を知り尽くすジャーナリストが東京で出会った「ガチ中華」(ガチンコ中華料理店)の名店を一挙紹介。『進撃の「ガチ中華」 中国を超えた? 激ウマ中華料理店・探訪記』は好評発売中!
近藤 大介(『現代ビジネス』編集次長)