「死んでも靖国に行かない」 特攻兵の兄が遺した言葉 妹に打ち明けた敗戦の覚悟 #戦争の記憶(2024年8月15日『毎日新聞』)

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学徒出陣し、「特攻」で戦死した上原良司さんの妹、登志江さん=千葉県松戸市で2023年9月21日
 第二次世界大戦下、今から80年前の1944年10月、日本軍は爆弾を搭載した航空機ごと搭乗員が敵艦などに体当たりする特別攻撃隊=特攻を始めた。45年8月の敗戦までの10カ月間でおよそ4000人が命を落とした。その特攻隊員の中で、最も知られている1人が上原良司さんだろう。戦没者の遺稿集「きけ わだつみのこえ」に「明日は自由主義者が一人この世から去って行きます。彼の後姿は淋(さび)しいですが、心中満足で一杯です」などと記した遺書が掲載され、読み継がれてきた。だが、良司さんが家族に「死んでも靖国には行かない」と話していたことや、良司さんを含む3兄弟が戦死していたことはあまり知られていない。5人きょうだいの末っ子で次女の登志江さん(94)に、「上原家の戦争」を振り返ってもらった。【栗原俊雄】
3人の兄が戦死 「頭の中でぼかしながら生きてきた」
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上原家の3兄弟。右から良春さん、背に良司さん、龍男さん=1923年ごろ、父・寅太郎さん撮影(登志江さん提供)
 「はっきり覚えているのが、嫌なんですよ。悲しいというか……。あまり考えないように、自分の頭の中ではずっとぼかしながら生きてきました」。昨年今年9月。千葉県内の自宅で登志江さんは記者にそう話しつつも、亡くなった3人の兄たちや残された家族のことを語り始めてくれた。
 良司さんは、長野県七貴村(現池田町)で、開業医だった父の上原寅太郎さんと母与志江さんの3男2女の三男として生まれた。
 長男の良春さん、次男の龍男さんは慶応大医学部に進み、良司さんは同大経済学部に進学した。良司さんは「航空機のグラビア写真を見せてくれて『これはすごいんだよ』などと話していました」。また「ハーモニカが好きで。ときおり『わーかき血に』って歌ってもいましたね」。慶応の応援歌「若き血」だ。母と野球の「早慶戦」を観戦し、母は「すごく良かった」と話していたという。志望大学に進んだ若者の喜びが伝わってくる。
 上原家の平穏な生活をよそに、日本は戦争を続けていた。37年に始まった日中戦争に続き、41年12月には米英などとの戦争も始めた。龍男さんは海軍軍医となった。43年10月22日。龍男さんが乗艦していた潜水艦「伊182」は南太平洋・ニューヘブリデス諸島方面で米軍に撃沈され、戦死した。
「人格的に問題」と上官をも批判する自由主義者
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上原良司さん(左)と龍男さん=登志江さん提供
 戦争が始まった後、大学など高等教育に在籍する学徒は徴兵を猶予されていた。だが戦況が悪化する中、文系の学徒らが陸海軍に召集され同年12月、陸海軍に入った(学徒出陣)。
 良司さんは陸軍だった。地元長野県の松本第50連隊を経て翌年2月、特別操縦見習士官に合格した。その後、熊谷陸軍飛行学校相模教育隊(神奈川県)から館林航空隊(群馬県)と移り、飛行訓練を重ねた。登志江さんは「航空隊に入って、勇ましいな、すごいんだと誇りに思っていました」と振り返る。
 軍隊生活では個人の自由より国家、組織の秩序が優先だった。上官の部下に対する理不尽な指導や体罰、精神的いじめがまかり通ってもいた。良司さんが信条とした自由とはほど遠い環境だった。
 たとえば44年5月28日。部隊の1の航空用眼鏡が行方不明になった。軍隊では持ち物を失うことは大きなペナルティーを課されることがあった。このため、何らかの理由で失ってしまった者が「戦友」のそれを盗むことがあった。この眼鏡がどうだったかは不明だが、「犯人」探しが始まった。名乗り出る者はいなかった。翌29日、良司さんらは炎天下に10時間以上立たされることになった。同日の「修養反省録」に、良司さんは書いた。「恥辱ノ日」。
 「修養反省録」は、良司さんら生徒が訓練の内容や考えたことなどを書き、教官が返事を書くものだ。航空兵としての修練を重ねる一方で、良司さんは軍、上官への憤りもつのらせていたようだ。44年6月27日、記した。「汝(なんじ)、宜(よろ)しく人格者たれ。教育隊に人格者少なきを遺憾とする。人格者なれば、言少くして、教育行はる」
 教官に「人格的に問題がある」と指摘しているようなものだ。上官の命令は絶対という軍隊にあっては極めて異例であった。教官は赤字で「貴様は上官を批判する気か。その前に貴様の為(な)すべきことをなせ。学生根性を去れ!」などと書いた。殴り書きのような書き方で、強い怒りが伝わってくる。
 「そんなことを書いたり言ったりしたらどうなるか分かっていた。それでも上原君は黙ってなかったですよ」。戦後、良司さんの戦友からそう聞かされた。並外れた勇気を持つ、筋金入りの自由主義者だった。
特攻直前、敗戦覚悟し「死んだら靖国ではなく天国へ」
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特攻出撃前の上原良司さん(左端)=1945年5月11日、鹿児島県・知覧基地で撮影(登志江さん提供)
 45年4月。良司さんが最後の帰省をした。夕食の時、良司さんは急にぽつりと言った。「この戦争は負けるよ」。登志江さんは「驚きました。日本は絶対勝つと思っていました。最後は神風が吹くと。そう教育されていましたから。びっくりして、雨戸を開けて外をみました。憲兵に聞かれたら大変だと思って。誰かいないかとのぞいたのを記憶しています」。憲兵は国民の反戦思想などを取り締まる役目だった。実際、聞かれたら何をされたか分からない。
 良司さんは、さらに2人だけの場でつぶやいた。「死んでも靖国神社には行かないからね。天国へ行くから」
 1869年、明治天皇によって「国家のために一命を捧げられたこれらの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるため」(靖国神社ホームページ)、招魂社が東京九段に創建され、1879年に靖国神社と社号が改められた。戦死者は「祖国に殉じた尊い神霊(みたま)」として靖国神社にまつられた。死を覚悟した兵士たちが「靖国で会おう」と約束することもあった。
 戦死者の多くは遺体も遺骨も遺族のもとには戻らなかった。遺族たちは、魂がまつられている靖国に参拝することで心の安らぎを求めた。しかし、良司さんはそこに行くことを拒んだのだ。
 帰省から家を出る時、見送る家族に向かって良司さんは叫んだ。「さようなら、と3回。特攻隊のことは知りませんでしたが、母は『もう帰ってこないのでは……』と言った気がします」
 1945年5月11日。良司さんは鹿児島・知覧の特攻基地から、爆弾を積んだ戦闘機「飛燕」で沖縄方面に飛び立ち、戦死した。22歳。「5月11日は今でもすごく嫌な日ですよ。特攻は本当にひどい。死刑みたいなものですものね……。(特攻を始めた人が)どんな気持ちだったのか聞いてみたい」。登志江さんはそう話す。
「兄たちの死はなんだったのか」
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上原家のきょうだいが出征中の父・寅太郎さんに送った写真。左から良春さん、龍男さん、良司さん、清子さん、登志江さん=1938年春撮影(登志江さん提供)
 45年夏に戦争は終わった。8月15日。日本政府が連合国による降伏勧告「ポツダム宣言」を受諾する。玉音放送を聞いた登志江さんは「兄たちが死んだのはなんだったんだ」と思った。
 この時点で、上原家では長男の良春さんが生きていた。留守家族は陸軍軍医としてビルマ方面に派遣されていた良春さんが帰還することを信じていた。だが、良春さんは敗戦後の45年9月24日に戦病死していた。上原家は兄弟3人をすべて戦争で亡くしてしまったのだ。
 長女の清子さん、登志江さんが健在とはいえ両親の悲しみも深かっただろう。それでも「両親は兄たちの話はしませんでした。泣いているところも見たことがありません。一人で泣いていたのか……。家族で『生きていたら』、なんて話したことがありません。つらすぎて、みんなそれに触れたくなかったからでしょうか」。
 ただ戦後、母の与志江さんはしばしば靖国神社を訪れた。登志江さんは付き添いで行くことはあったが、自分から進んでは行かなかった。良司さんの「靖国には行かない」という言葉が胸に刻まれていたからだ。登志江さんはしかし、母に良司さんのその言葉を伝えることができなかった。「だって、母は3人がそこにいると思っていたはずですから」
未来ある若者たちが犠牲に 「特攻を美談にしないで」
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盛夏のスナップ写真。右から登志江さん、良司さん、親戚の青木房子さん、龍男さん、清子さん=1937年8月、良春さん撮影(登志江さん提供)
 良司さんは出撃前夜、陸軍報道班員として知覧にいた高木俊朗の求めに応じ、原稿用紙7枚に「所感」を書き残した。
 「権力主義全体主義の国家は一時的に隆盛であろうとも必ずや最後には敗れることは明白な事実です」とし、さらに日本の同盟国だったドイツ、イタリアがすでに敗北している事実を引き、「権力主義国家は土台石の壊れた建築物の如(ごと)く次から次へと滅亡しつつあります」とした。「日本必敗」を予言しながら「心中満足で一杯です」と結び特攻に飛び立つこの遺書は、これからも読み継がれていくだろう。
 特攻で命を落とした兵士達は「英霊」とたたえられることがある。「若者たちが、家族や国のために命をささげた」などといった美談にされるむきもある。登志江さんは「そういうふうになってほしくないですね」と言う。他方、「新しい戦争」が現実味を増し、政府は備えを進めている。
 「戦争は平和な一家をめちゃめちゃにしてしまう。そう考えたら戦争なんてできるわけがない。兄たちはそれぞれにいろんなしたいことがたくさんあったのに、死んでしまいました。若い人がそういうことがないように、精いっぱい人生を楽しめる社会であってほしいと思います」
 
編集後記
記者プロフィール
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 「一年中8月ジャーナリズム」
 マスメディアは「戦後○○年」という表現をよく使う。大日本帝国の戦闘は、79年前の夏に終わった。しかし、戦争による被害は終わらない。「戦後」何年たとうと、体験者たちが心身に負った傷は完全には癒えない。79年前に戦死した兄・上原良司さんを思う妹の登志江さんの言葉、「5月11日は今でもすごく嫌な日ですよ。特攻は本当にひどい。死刑みたいなものですものね……」が、「未完の戦争」の有りようを私たちに伝えている。
 戦時下、新聞は大日本帝国政府の戦争に協力した。敗戦後の新聞は「二度と戦争に協力しない、戦争のためにペンを握らない、カメラを手にしない、輪転機を回さない」という決意から始まったはずだ。
 私は、新聞ジャーナリズムの最大の役目は国家に二度と戦争をさせない事だと思っている。私が「戦争反対」と何百万回言ったところで、影響力は無いだろう。しかし、戦争になれば庶民に被害が長く深く広く及ぶことを具体的に伝えることが、「戦争なんてとんでもない」という意識の広がりにつながり、ひいては戦争抑止力になると信じている。
 メディアは毎年8月、集中的に戦争報道を行う。私はそれを一年中やっていることから、「常夏記者」を名乗っている。新聞の最大の役目を果たすために、「常夏ジャーナリズム」を続けたい。
※この記事は、毎日新聞とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。