終戦記念日に関する社説・コラム(2024年8月15・16・18日)

伝え続けねばならぬ歴史(2024年8月18日『産経新聞』-「産経抄」)
 
キャプチャ
第5方面軍司令官として北海道防衛の策を練る樋口季一郎中将(孫の隆一氏提供)
 
 多くの国民は、昭和天皇玉音放送を聞き終戦を知った。<父母(ちちはは)の泣けば幼き子等までがラヂオの前に声あげて泣く>高見楢吉。昭和20年8月15日の点描である。大本営は翌16日、各方面の軍に戦闘行動の即時停止を命じている。
▼自衛目的の戦闘についても、18日午後4時を刻限に銃を置くよう通達があった。ソ連軍が千島列島最北端の占守島に上陸を開始したのは、その18日だった。「断乎、反撃に転じ、上陸軍を粉砕せよ」。現地の守備隊に、そう命じたのは第5方面軍司令官の樋口季一郎中将である。
▼中将の生涯を取材した本紙「正論」メンバーの早坂隆氏によれば、守備隊は終戦の知らせを受けて、燃料の入ったドラム缶をすでに地中に埋めていたという。エンジンを切った戦車の再駆動にも、数時間がかかった(文春新書『指揮官の決断』)。
▼強盗に等しい敵の愚行に、中将は後年、筆を尖(とが)らせて記している。<それを許せば、到る所でこの様な不法かつ無智な敵の行動が発生し、「平和的終戦」はあり得ないであらう>。停戦は21日、ソ連軍の死傷者は約3千人、日本軍の数倍に上った。
ソ連を率いるスターリンには、北海道の北半分を占領する計画があったとされる。中将の果断と守備隊の奮戦がなければ、敵のさらなる南下もあり得た。「戦場としては小さなものであったが、日本という国の形を守る意味では非常に大きな戦いであった」とは、早坂氏である。
▼8月15日を境に「戦後」を迎えたわけではない。北方領土は日ソ中立条約を一方的に破棄したソ連により、8月末から9月初旬にかけて奪われた。占守島の激戦とともに忘れてはならない。どれほど月日が流れても、書き続け、伝え続けねばならぬ歴史がある。

小津の戦後(2024年8月18日『佐賀新聞』-「有明抄」)
 
 毎年、終戦の日を過ぎると、不思議と小津安二郎監督の映画を見返したくなる。それも戦後の作品ばかり
◆遺作『秋刀魚の味』(昭和37年)で、兵隊帰りの加東大介が、かつての上官に尋ねる。「どうして日本負けたんですかねぇ」。若者が米国文化に染まるのが面白くない。元上官の笠智衆は「けど負けてよかったじゃないか」。「そうかも知れねえな、バカ野郎がいばらなくなっただけでも」
◆娘が嫁いで一家は離ればなれになる。そんな切ない物語の数々。『彼岸花』(昭和33年)で田中絹代演じる妻が言う。「戦争はいやだったけど、時々あの時のことがふっと懐かしくなる」。幼い娘たちの手を引いて防空壕へ逃げた。「親子4人、真っ暗な中で死ねばこのまま一緒だと」
◆小津監督は中国戦線で毒ガスを扱う部隊にいた。苛烈な体験が「忘れてはならない記憶」を描かせたのかもしれない。『東京物語』(昭和28年)で、戦死した夫を「このごろ、思い出さない日さえあるんです。忘れてる日が多いんです」と原節子が打ち明ける。「私、ずるいんです」と
◆生き残った人びとの心の機微がさりげなくにじむ。『麦秋』(昭和26年)で外食する場面も印象深い。「やわらかいおいしいご飯」。長く苦しい時代が終わった実感がこもる。戦争の追憶が少なくなっていくころ、胸に刻みたい歴史の断片である。(桑)

旧盆と沖縄戦 今も尾を引く住民被害(2024年8月18日『沖縄タイムス』-「社説」)
 
 きょうは旧盆のウークイ。16日のウンケーの日にお迎えした祖先の霊をあの世にお送りする日である。
 トートーメー(位牌(いはい))のある家には、親族が集まって仏壇に手を合わせる。
 トートーメーは、家庭の中で、沖縄戦で亡くなった人々と今を生きる世代をつなぐ役割を果たしてきた。 公的な場だけでなく家の中でも、お盆の伝統行事を通して戦争の記憶が継承されてきたともいえる。
 沖縄戦では、県民の4人に1人、概数で「12万人以上」が犠牲になったといわれる。
 激烈な地上戦の様相は戦後、繰り返し語られてきた。だが、組織的戦闘がやみ、兵士や住民が捕虜となって収容所に収容された後の、南部の光景が語られることは少ない。
 沖縄戦研究に「戦死後」という新たな視座を導入した北村毅さんは言う。「遺骸のほとんどは、少なくとも半年以上放置され(中略)、亡くなったときの姿そのままを晒していた」(「死者たちの戦後誌」)
 収容所から帰村した人々が真っ先に手がけたのは、遺骨収集だった。
 親兄弟や子どもが本島南部の激戦地で亡くなったと伝え聞いた人々は、遺骨拾いのため現地を訪ねた。
 戦死した場所を探すためユタに頼る人も少なくなかったという。
 今年の慰霊の日、地域の慰霊祭に出席した90代の女性は「父母と兄2人、弟1人の家族全員を亡くしたが、骨は誰一人戻ってきていない」と語っていた。
■    ■
 糸満市で生まれ育った写真家の大城弘明さんは、子どもの頃、崩れた石垣に囲まれた空き屋敷をよく見かけた。
 屋敷の中にブロックや石を積んだ小さな建物がある。ひっそりと香炉が置かれ、花が手向けられている。トートーメーが置かれているところもある。 
 祭主のいない粗末な建物。一家全滅の屋敷跡である。
 糸満市史によると、同市の一家全滅世帯は440世帯を数える。
 大城さんの写真集「鎮魂の地図」は、余分な写真説明を省くことによって想像力をかき立て、深い鎮魂の思いに誘う。
 親族や地域の人たちが丁重に供養していることが写真から伝わってくる。
 戦争を国家の視座からではなく、一家全滅した住民の視座から見つめ直した作品である。
■    ■
 太平洋戦争中、サイパンパラオなどの旧南洋群島やフィリピンで、多くの沖縄県人が戦争被害に遭った。民間人とその遺族らが国に謝罪と損害賠償を求めた南洋戦訴訟は、最高裁で原告の敗訴が確定した。
 1947年に国家賠償法が施行される前の行為に関して国は賠償責任を負わないとの理由で。
 全国各地で争われた空襲訴訟で被告の国が持ち出し司法が採用したのは「受忍論」だった。戦争被害は民間人にとってただの「死に損」なのか。
 戦災市民の救済なしには戦争は終わらない。

 
戦争の日常化にあらがう/戦後79回目の夏(2024年8月16日『東奥日報』-「時論」/『茨城新聞山陰中央新報ー「論説」)
 
 310万人が亡くなった戦争に敗れてから79回目の夏を迎えている。「終戦の日」は、日本が民主国家として刻んできた時間を教えてくれる。1945(昭和20)年を境に平成、令和と非戦の誓いを守り続けた経験は何物にも代えがたい。
 だがその間も世界で戦火が絶えることはなかった。ウクライナにロシアが侵攻して2年半近くになる。イスラエルのガザ攻撃も続いているが、事態は好転する兆しがない。
 15日の全国戦没者追悼式で、遺族代表は「世界では今なお戦争が絶えることなく、多くの犠牲者が出ている」と訴えた。
 戦争が長期化するにつれ、戦地の悲惨や銃後の苦しみを想像する力は次第に失われる。戦争が日々の出来事の一つになってしまえば、それを止める動きは緩慢になる。
 作家の永井荷風は44(昭和19)年3月の日記に、人々が長年の仕事から引き離され職工に徴集されてもさほど悲しまず、空襲が近いと言われても驚き騒ぐことがないとし、「全く不可解の状態なり」と嘆いた。
 不平や不満を口にしない心情を生んだのは、軍部や警察による言論統制や弾圧ばかりではなかろう。戦争が社会の隅々に浸透してしまえば、あとは耐えるしかない。日本は終戦までそんな暮らしが続いたのだ。
 ロシアが引き起こした戦争は、台湾有事への連想を呼んだ。中国の軍拡は、北東アジアと南シナ海に緊張をもたらし、岸田文雄首相は防衛費の大幅な増額を決めた。反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有や、自衛隊在日米軍の指揮・統制の連携を深める方向も示され、日米同盟の変質も指摘される。各地で起きている紛争が日本と決して無縁ではないことを自覚したい。
 戦史を省みれば、どんな戦争も開戦するよりも終結させる方がはるかに難しい。日米欧はウクライナ支援とロシアへの経済制裁を続けている。それと並行して平和をもたらす道を探らねばならない。
 不信と暴力の連鎖が果てしなく続く中東での平和構築は国際社会にとって重い宿題である。日本政府は、イスラエルを支持する米国に追従するのではなく、73(昭和48)年に起きた第1次石油危機から培ってきた中東外交に立脚した貢献を考えるべきだろう。
 世界の貿易秩序も様変わりした。グローバル化は後退し、軍事転用できる先端技術や希少資源を囲い込む「経済安全保障」が基軸になってきた。新たなルールは米中の覇権争いを起点としている。
 渋沢栄一は第1次世界大戦後、新たに発足した国際連盟を支援する会合で「経済は自分も相手も利するが、戦争に双方を利するものは決してない」と語った。どちらか一方だけが繁栄を手にする「経済戦」という言い方も当時の新聞や雑誌によく登場した。だが渋沢はこの言葉を嫌った。
 かつての東西冷戦が核抑止論を生んだように、21世紀の対立は経済安保という新戦略を広げた。現状から見れば確かに避けられない選択なのだろう。だが近未来に起きる分断の深刻化まで受け入れるわけにはいかない。
 遠くの砲声や悲嘆が日常の無関心に埋没するなら、それにあらがわねばならない。そして、戦後日本が育んだ平和と豊かさこそ、戦争と暴力の現実を変革するソフトパワーになると信じたい。

終戦から79年 武力に頼らぬ平和構築を(2024年8月16日『河北新報』-「社説」) 

 小説『ぼくらの七日間戦争』などで人気を博し、4月に95歳で亡くなった作家宗田理さんは、子どもたちに向けて、戦争体験を伝える作品をいくつか残した。
 「戦争がどんなに残虐で、悲惨なものか。時には、穏やかだった普通の人たちまで巻き込んで、国ごと狂気に駆り立てていくか」。『ぼくが見た太平洋戦争』で振り返る。
 刊行は2014年。当時の安倍晋三政権が集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、戦後の安全保障政策が大きく転換した年でもある。戦災の記憶の風化や戦時に近づくような社会に危機感を覚え、「体験者の使命」が筆を執らせたという。
 終戦から15日で79年となった。戦争放棄と戦力不保持を掲げる憲法に守られ、私たちは平和を享受してきた。だが国外に目を転じれば「狂気」がじわりと世界をむしばむ。
 ロシアのウクライナ侵攻が長期化し、パレスチナ自治区ガザでのイスラエルイスラム組織ハマスの衝突は終わりが見えない。子どもも大勢犠牲になっている。つい最近も、ウクライナの小児病院にミサイルが直撃し、ガザの学校が空爆された。
 日本周辺では中国による軍事活動が活発化し、北朝鮮の核・ミサイル開発への緊張が高まる。政府は24年版防衛白書で、ウクライナ侵攻と同じ事態が「東アジアで発生する可能性は排除されない」と危機感を示し、防衛費の大幅増や防衛力強化を強調した。
 不安定な国際情勢を前に、憲法が掲げる平和主義の理念がかすんでいないか。
 政府は今年3月、英国、イタリアと共同開発する次期戦闘機の第三国輸出を解禁する方針を閣議決定した。防衛装備品の輸出ルールを見直し、殺傷能力の高い戦闘機の輸出解禁に踏み切った。
 日本世論調査会が先日まとめた調査では「同盟国や友好国であっても殺傷能力がない装備の輸出にとどめるべきだ」が34%、「武器や装備の輸出は全面禁止するべきだ」が22%と、6割近くが否定的な見方を示した。「なし崩し的に輸出が拡大する不安」を感じる人は79%に上る。
 武器輸出に前のめりな政府と国民の意識との隔たりは大きい。「侵略に使わない」という歯止めはあるが、輸出先が戦闘国になる危険性や紛争を助長する可能性もある。
 国際秩序が揺らぐ今こそ、戦後日本の礎を築いた憲法の理念に立ち返りたい。
 無謀な侵略戦争に突き進んだ反省を踏まえ、9条は「国際平和を誠実に希求」するとした。岸田文雄首相は15日の全国戦没者追悼式で「戦争の惨禍を二度と繰り返さない」と述べた。そのためにも、政府は武力に頼らない平和構築のビジョンを示してほしい。
 来年には戦後80年の節目を迎える。唯一の戦争被爆国であり、不戦を誓った国家の真価を発揮すべき時だ。

世界の平和に思い寄せ(2024年8月16日『福島民報』-「論説」)
 
 いたいけな命、身を寄せ合う家族、罪なきいくたの人々が苛烈な銃火の犠牲になっている。戦下の悲しみ、苦しみをわが身に重ね、心を痛める県民は多いに違いない。終戦から79年。世界の恒久平和を祈り、日本は国際社会と無縁ではいられぬ現実も改めて胸に刻みたい。
 世界の分断は市民社会に立ち入り、不戦の至純な願いを踏みにじる。今夏の原爆の日は象徴的だった。平和祈念式典にイスラエルを招待しない長崎市に対し、米欧の大使が抗議の欠席をした。「政治的理由ではなく、不測の事態を総合的に勘案した」との市側の説明に対し、ウクライナ侵攻を続けるロシア、支持するベラルーシイスラエルを同列化する行為だと異を唱えた。
 パレスチナ問題の根は深く、軽々しくは語れないとはいえ、パレスチナ自治区ガザでの惨状は筆舌に尽くし難い。イスラエル側の大義を超え、日本と世界の心ある人々は一日も早い解決を望んでいる。平和を求める国内外の声に呼応する一地方自治体の主体性を、国家間の同調圧力で封じ、不戦への民意の共感を妨げる。そんな構図の末路に憂慮を禁じ得ない。
 関係国は、イスラエルとロシアは同じという誤ったメッセージを国際社会に発しかねないとの懸念を示したが、不毛の争いを否定する真意こそ世界に正しく発信されるべきだ。平和を誓う原爆の日に禍根を残す結果を許した政府、政権は不戦の根幹が揺らいでいまいか、疑問も湧く。
 パリ五輪は、「平和の祭典」を演出する数々の趣向が練られたものの、開催中の休戦は有名無実化したまま閉幕した。冷え込む日中関係にあって、互いの健闘をたたえ合う選手の姿が印象に残る。日本勢メダルラッシュの余韻の中で、人のつながりは決して非力ではないとの希望も忘れずにいたい。
 来年、終戦から80年を迎える。軍備を競い合う先に、国際社会が協調した穏やかな景色は見いだせない。戦後日本は、防衛力の抜本強化にかじを切っても、大戦の教訓は政治の場で風化せず保たれるのか、注視していく必要がある。
 多難な戦中戦後を生きた人々は、春秋を重ねて限られてゆく。戦禍の記憶を継ぎ、平和をつなぐ現世代の責任は重みを増す。(五十嵐稔)

最後の特攻(2024年8月16日『福島民報』-「あぶくま抄」)
 
 まなこを染めた海は何色だったろう。息をのむような群青か。もはや尋ねることは、かなわない。若い命は果てしない海原に吸い込まれた
▼79年前の8月15日。玉音放送終戦を告げた日の夕刻、特攻機11機が大分から南方へ飛び立った。海軍中将の宇垣纏[まとめ]が率いた「最後の特攻戦」が始まる。いわき市出身、21歳の大木正夫が名を連ねていた。沖縄北部の伊平屋島に至り、攻撃を仕掛けたとされる。宇垣も、大木も散った。出撃した23人のうち、帰還できたのはわずか5人だった
▼大木の親族がまとめた「8月15日の特攻隊員」が先ごろ、文庫化された。生き残った隊員は語る。〈急に止まれと言われたって止まれないでしょう。スピードのついた車と同じですよ〉。特攻隊戦没者慰霊顕彰会の集計では、太平洋戦争の特攻で6371人が戦死した。それぞれに家族、友人、最愛の人と切り開く未来があった。終戦後にも殉じた命があると思えば、やるせない
▼あの日と変わらぬ夏空に語りかけてみる。憎しみの連鎖は引き返すあてなく、いまだ世界で続いています―。深い群青を悲しげな雲が覆い、雷鳴から怒りの声が聞こえる。遠い日の若き死に、どう向き合う。

’24平和考 終戦の日 暴力許さぬ世界の構築を(2024年8月16日『毎日新聞』-「社説」)
 
キャプチャ
ロシアのウクライナ侵攻を非難するデモの参加者=オスロで2022年2月26日、横山三加子撮影
 世界各地で硝煙が絶えない中、79回目の終戦の日を迎えた。新たな世界大戦を招いてはならない。人類の英知を結集する時だ。
 眼前には目を覆うような光景が広がる。ロシアのウクライナ侵攻は長期化し、パレスチナ自治区ガザ地区の人道危機が極まる。スーダンなどでは内戦と飢餓が続く。
 オスロ国際平和研究所によると、世界の紛争は2023年に59件を数え、1946年以来、最多を記録した。世界は「『混沌(こんとん)の時代』に入りつつある」(グテレス国連事務総長)状況だ。
 「ポスト冷戦時代は世界的な戦争リスクの高まりとともに終わりを迎えようとしている」。アメリカン・エンタープライズ研究所上級研究員のハル・ブランズ氏は「世界戦争の足音」に警鐘を鳴らす。
強まる「戦間期」の様相
 第一次世界大戦から第二次大戦にかけての戦間期、三つの危機が同時進行した。ドイツのポーランド威圧、イタリアのエチオピア侵攻、日本の中国東北部支配である。約1世紀後の今、欧州と中東で「二つの戦争」が続き、アジアで緊張が高まる。様相は似通う。
 第一次大戦後、戦争のない「黄金の時代」の到来を予想した日本の外交官がいた。侵略戦争全廃のためのジュネーブ議定書の交渉に関わり、後に常設国際司法裁判所の所長となる安達峰一郎だ。だが、世界は再び大戦に突入した。
 いま懸念されるのは当時同様、国際法の規範が揺らいでいることだ。国連安全保障理事会は機能不全状態である。常任理事国のロシアが国連憲章を踏みにじって隣国侵略を続け、イスラエルのガザ攻撃を前になすすべもない。
キャプチャ2
深刻な水不足の中、貴重な飲料水を入手するため、配水車の前で行列を作るパレスチナ自治区ガザ地区の住民=NPOクリーン・シェルター提供
 既存秩序にあらがう新興国が「帝国化」の動きを見せているのも共通している。第二次大戦では領土拡張主義のスローガンが使われ、ドイツが「東方生存圏」、日本が「大東亜共栄圏」の建設を掲げた。
 プーチン大統領はロシア語と正教の文化圏「ロシア世界」を戦争遂行に利用し、「中国式現代化」を推進する習近平国家主席が目指しているのは、米欧主導ではない「多極世界」の形成だ。
 世界の分断が深まる中、3度目の大戦を回避するための危機管理の枠組みを作る必要がある。国際社会は安保理改革や国際法廷の権限強化に知恵を絞るべきだ。
 紛争や貧困から個人を守る「人間の安全保障」の点では、市民社会が果たす役割も大きい。
 ロシアで真っ先に声を上げたのは女性だった。作家のダリア・セレンコさん(31)らが侵攻開始直後に「フェミニスト反戦レジスタンス」を設立し、抗議運動やウクライナ難民らの支援に取り組む。
 ロシア国内ではLGBTなど性的少数者を守る運動が禁止され、人工妊娠中絶への規制が強まる。「戦争と、女性への暴力は常にセットになっている」。ジョージアに脱出したセレンコさんが訴える。
 ガザにトイレや飲料水を提供するのも2人の女性だ。ドイツ在住のパレスチナ人、セバ・アブダカさん(42)とイスラエル人、トム・ケルナーさん(41)がNPO「クリーン・シェルター」を作った。
 アブダカさんは「危機で最も脆弱(ぜいじゃく)な立場に置かれる女性たちを暴力から守りたい」、ケルナーさんは「行動することが大事」と話す。
キャプチャ3
パレスチナ自治区ガザ地区の避難民キャンプではトイレなどの設置が進められている=NPOクリーン・シェルター提供
立ち上がった女性たち
 「暴力を拒否するフェミニズム運動は平和運動と親和性が高い」とロシア文学者の沼野恭子・東京外国語大名誉教授は指摘する。女性の政治参加が進む国は紛争リスクが低いとの研究結果もある。
 内戦と大虐殺をくぐり抜けたルワンダでは女性が民族和解と国造りの原動力となった。今では、下院議員の6割超を女性が占める「女性活躍先進国」である。
 福島市に住むルワンダ出身の永遠瑠(とわり)マリールイズさん(58)は「日本では平和を当たり前と思う人が多い」と心配する。終戦記念日に合わせ、日本とアフリカの若者による平和集会を祖国で企画した。
 「独裁は伝染する。離れたロシアで何が起きているかに目を向けることが大切だ」とのセレンコさんの言葉に耳を傾けたい。
 女性議員を増やし、声を政治に反映させる。少数派の権利が守られ、誰もが安心して暮らせる包摂的な民主社会を作る。「戦争を起こさない」ための第一歩である。
 暴力をなくし、世界を「混沌の時代」から「黄金の時代」に近づける。市民一人一人の力は限られていても、理想に向けて行動すれば、大きなうねりとなるはずだ。

終戦の日 危機の時代に平和をどう守る(2024年8月16日『読売新聞』-「社説」)
 
◆外交努力と抑止力向上が必要だ◆
 ロシアのウクライナ侵略やパレスチナ情勢の悪化など、世界情勢の混迷が深まっている。戦後の国際秩序が崩れた危機の時代に、平和をどう守っていくかが問われている。
 79回目となった終戦の日、政府主催の全国戦没者追悼式が、東京・日本武道館で開かれた。
 天皇陛下はお言葉で、「過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願う」と述べられた。
 戦後の日本は先の大戦の苦い教訓を踏まえ、憲法の平和主義と、主権と領土の尊重などをうたった国連憲章を忠実に守り、国際社会の安定に力を尽くしてきた。
 国際秩序の回復が急務
 しかし、現在の世界はかつてない危機の渦中にある。
 2022年2月に始まったロシアのウクライナ侵略は、終息の糸口すら見えない。力ずくで他国の領土を奪おうとするプーチン大統領の暴挙は、法の支配に基づく国際秩序を根底から破壊した。
 ロシアへの対応を巡り、世界の分断は深まっている。
 中東では、パレスチナ自治区ガザへのイスラエルの攻撃が激しさを増している。イスラム主義組織ハマスの越境攻撃が端緒となり、女性や子供を含む数万人の民間人が犠牲となっている。
 ウクライナやガザの現状に、心を痛めている人も多いだろう。侵略や非人道的行為を止めるには、国際社会が結束し、圧力を強めることが肝要だ。
 79年前の終戦時、東京をはじめ多くの都市が焼け野原となった日本が今、平和と繁栄を享受できているのは、一度も他国と戦火を交えることがなかったからだ。
 戦後の日本は、日米同盟を基軸に、自由主義社会の一員として歩んできた。戦後の国際情勢や国力を踏まえた現実的選択が、79年間の平和を支えてきたと言える。
 だが、日本を取り巻く安全保障環境は大きく変化した。現実を直視した対応が大切だ。
 世界各地で戦争の悲劇が続く今だからこそ、平和の尊さを日本が訴え、国際秩序の再構築に貢献する決意を新たにしたい。
 争いのない世界は、理想を掲げるだけでは実現できない。戦争を起こさせないためには、正確な情勢認識と自国を防衛する積極的な努力が欠かせない。
 防衛力の整備を着実に
 中国は、尖閣諸島周辺で領海侵入を繰り返し、台湾周辺では大規模な軍事演習を行っている。台湾有事は日本の安全に直結する。
 北朝鮮は核・ミサイル開発を加速させ、ロシアは北方領土の不法占拠を既成事実化している。
 今年の防衛白書は、日本が直面する安全保障環境を「戦後最も厳しく複雑」と明記した。ロシアのウクライナ侵略と同様の事態が東アジアで発生する可能性は排除されない、とも指摘した。
 ウクライナでは、ロシアが占領した地域で、行政組織や法制度の「ロシア化」が進んでいる。北方領土の例を挙げるまでもなく、一度奪われた領土を取り戻すことは容易ではない。
 領土と国民を守るには、防衛力が手薄な軍事的空白を作らぬよう自衛隊の能力と装備を向上させ、米国や友好国と連携して抑止力を高めねばならない。
 一部には、自衛隊の能力を向上させ、日米同盟を強化すると、他国との緊張を高め、かえって日本が周辺の有事に巻き込まれる、という「巻き込まれ論」に基づいた批判がある。
 しかし、これは日本が無防備でいれば他国から脅威を受けることはない、という楽観論を前提にした考え方に立っている。
 ロシアのウクライナ侵略は、こうした考え方が非現実的であることを示した。必要な防衛力を、着実に整備することは不可欠だ。
 抑止力を高める手段は、軍事面に限らない。外交努力も重要だ。日本は、これまで国際秩序の受益者の立場だった。これからは、新たな平和秩序の構築を主導する役割を果たさねばならない。
 非軍事分野でも貢献を
 日本は政府開発援助を通じ、新興国や途上国と良好な関係を築いてきた。こうした財産を生かし、働きかけを強めることで国際秩序の回復に貢献したい。
 これまで培ってきた中東との友好関係も生かし、ガザの人道状況の改善に役割を果たすべきだ。
 日本は紛争や災害などが発生した地域で、医療や食料の支援にも取り組んできた。こうした能力を世界に提供し続けることも、日本への信頼を高め、平和を守ることにつながるはずだ。

「さきの大戦」と呼ぶ意味を考えよう(2024年8月16日『日本経済新聞』-「社説」)
 
キャプチャ
全国戦没者追悼式では天皇のお言葉や首相の式辞でも「さきの大戦」と呼んでいる(15日、東京都千代田区
 さきの大戦の終結から79年目の終戦の日を迎えた。戦禍に倒れた幾多の人々に哀悼の意を表し、再び戦争の惨禍が繰り返されることのないよう心から祈りたい。
 私たちは79年前に終わった戦争を「さきの大戦」と呼んでいる。全国戦没者追悼式での天皇のお言葉も毎年この表現を用いている。一般には「太平洋戦争」が定着しているが、政府が公式の呼称として定めたものはない。なぜ「さきの大戦」と呼ぶのか、そこから見えるものを考えたい。
4つの戦争が複合
 この呼称が今春、クローズアップされた。小笠原諸島硫黄島について、陸上自衛隊の部隊がSNSで「大東亜戦争最大の激戦地」と投稿し、「大東亜戦争という呼称は軍国主義の正当化につながる」などと批判された。
 歴史学者らによる「決定版 大東亜戦争」(新潮新書)をひもとくと、大東亜戦争真珠湾攻撃の数日後に閣議決定された呼称だ。英語表記は「Greater East Asia War」。日中戦争も含め、地理的な戦域を考慮したという。
 軍部は大東亜新秩序の建設という戦争目的の意味もあると解説した。大東亜新秩序はアジアの植民地解放というより日本の権益確保が実質であり、つまりは侵略だ。侵略の肯定と受け取られかねない呼称は避けるのが見識だろう。
 実際、大東亜戦争軍国主義と深く結びついてきたとしてGHQ連合国軍総司令部)が公文書での使用を禁じた経緯がある。日本の独立でGHQ指令は失効し、使用可能になったが、その後も政府は公文書に使っていない。
 代わりに定着したのが「太平洋戦争」だ。太平洋での米国との戦争は本土空襲や沖縄戦、原爆投下の悲劇を生み、多大な犠牲を払った教訓から二度と戦争を繰り返さないという国民感情に結びついた。鎮魂と平和を祈るこの時期にしっくり来る呼び方だろう。
 ただ太平洋戦争というくくりではこぼれ落ちてしまう戦争がある。中国や東南アジアなどを侵略した加害の歴史がその一つだ。
 多面的な戦争をどうみたらよいか。歴史学者国立公文書館アジア歴史資料センター長の波多野澄雄氏は、さきの大戦は4つの戦争が重なった複合戦争であり、分けて考えるべきだという。
 まず1937年に始まった日中戦争である。最も長く戦った戦争だが、日米開戦後の実態はあまり知られていない。次が日米戦争で太平洋戦争として日本人にとってさきの大戦の象徴である。
 3つめに東南アジアを植民地にしていた英仏蘭との戦争がある。これは結果として東南アジア諸国に独立の道を開いた。
 最後がソ連との戦争だ。先の3つの戦争が日本による侵略だったのに対し、ソ連から攻め込まれたという点で様相を異にする。
 4つの戦場は作戦上のつながりが薄く、それぞれを行き来した兵士も少ない。戦争の目的、被害と加害の状況、戦後に残した負の遺産なども異なる。これも呼称を定めにくい一因だろう。
 ただ4つに分けることで、さきの大戦の解像度は上がる。日本人は激戦の太平洋や東南アジアの戦争には詳しいが、ソ連との戦いや日米開戦後の中国戦線の実相はどこまで知っているだろう。
戦争防ぐ道も多面的に
 近年、これらに光を当てる労作が出始めた。麻田雅文著「日ソ戦争」(中公新書)、広中一成著「後期日中戦争」(角川新書)などだ。大陸にいた軍人は多くを語らず資料は乏しいが、現地資料を掘り起こすなどして実態に迫る。
 特に重く描かれるのが加害、被害の双方に及ぶ蛮行だ。軍人が口を閉ざす理由だろう。満州の惨状は「自国の軍隊が作戦を優先して民間人の保護を後回しにするとどうなるのか。日ソ戦争は悪例として後世に語り継がれるだろう」と記される。肝に銘じたい。
 こうした人道危機は、いまもウクライナパレスチナなど世界で絶えない。とりわけ強制連行などのロシアの非人道性は日ソ戦争の時代と変わらないようにみえる。「相手を侵略する意志がなくても侵略されることは歴史上ままある。日ソ戦争にはまだ引き出す教訓は多い」という指摘は、台湾有事にも当てはまろう。
 戦争の新たな側面が明らかになれば、呼称を定めるのはさらに難しくなる。だが戦争をより多面的にみることができれば、それを防ぐ道筋もさまざまな角度から考えられるはずだ。大切なのは、あの戦争をいつまでも「さきの大戦」にしておくことである。

戦没者の遺骨 一柱でも多く帰国実現を(2024年8月16日『産経新聞』-「主張」
 
キャプチャ
パラオアンガウル島で行われた戦没者の遺骨収集=令和5年7月
 先の大戦の激戦地であり、約2600人の日本軍将兵が戦死した北太平洋の米領アッツ島で、70年ぶりの遺骨収集に向けた現地調査が行われる。
 国のために戦い、亡くなった方々の遺骨を収集して慰霊するのは国の責務だ。アッツ島をはじめ異郷の地には、戦後79年となる今も約112万柱の遺骨が取り残されている。
 一日も早く、一柱でも多く帰還させるべく、政府は遺骨の収集事業に全力で取り組んでもらいたい。
 アッツ島は昭和17年6月、日本軍が米国の領土で初めて占領した島である。奪還を目指す米軍は18年5月、1万人以上の大部隊で上陸作戦を行った。日本軍は17日間にわたり徹底抗戦し、米軍に多大な損害を与えたが玉砕した。
 戦後の28年に約320柱の遺骨が収集され、日本に帰還した。アッツ島で遺骨収集が行われたのはその1回だけだ。政府は平成19、20年に現地調査を行ったものの、その後に米国の沿岸警備隊が撤退して無人島になったこともあり、収集には至らなかった。
 今回の現地調査は今月19~23日の日程で、遺骨のある場所の特定を進めたり、道路の状況などを確認したりする。政府は米国と綿密に調整し、必ず収集につなげてほしい。
 アッツ島以外でも積極的な取り組みが求められる。厚生労働省によれば沖縄、硫黄島、および海外の戦没者約240万人のうち、これまでに収容された遺骨は約128万柱である。
 特に大陸には20万柱以上が残されているとみられるが、中国の厳しい国民感情により収集できないでいる。平成3年度からシベリア抑留者を含む遺骨収集が始まった旧ソ連地域でも、新型コロナウイルス感染拡大とロシアによるウクライナ侵略により、令和2年度以降は多くが中断したままだ。
 中露両国は遺骨収集の意図を理解し、協力してもらいたい。日本政府は粘り強く交渉すべきである。 
 平成28年に戦没者遺骨収集推進法が議員立法で成立し、収集は「国の責務」と明記された。異郷で眠る戦没者は、一日も早く祖国に帰りたがっているだろう。遺骨が一柱でも残されている限り、国の責務は続くと肝に銘じなければならない。

終戦の日の翌日の1945年8月16日。福井の敦賀駅では北陸…(2024年8月16日『東京新聞』-「筆洗」)
 
 終戦の日の翌日の1945年8月16日。福井の敦賀駅では北陸線上下各8本の旅客列車が発着した。原田勝正著『日本鉄道史 技術と人間』によると、その日の発着時刻を記録した手書き資料が残されていた
▼上りは青森など遠隔地発の列車が100分超遅れたが、比較的近い金沢以西発の列車はおおむね30分以内の遅れに収まった。特筆すべきは旅客列車の運休が1本もなかったことである
北陸線に限らず日本では終戦を迎えても列車は走った。敗戦という未曽有の事態にあっても、自分の仕事に徹した鉄道員たちがいた
▼79年後の今日16日、東海道新幹線は東京-名古屋間で始発から終日運休する。台風7号が接近するため、事前に発表された計画運休である
▼素人的には、何も丸一日運休しなくてもと考えてしまうが、安全運行を旨とするプロが危険や混乱の回避には必要と判断したのだろう。焦土でも定時運行に努めるのが日本人なら、計画に皆が従い混乱を回避するのも日本人らしい気がする。お盆休みに日程変更を強いられた人の労苦を思い、風雨で線路などに被害が出ないことを祈る
終戦後の輸送を記すために旧国鉄が編んだ『鉄道終戦処理史』には「全国民ひとしく虚脱状態のさ中にあつて人々の心にほのかな希望の光をともしたのは『鉄道は動いている』という事実であつた」とある。鉄路とは貴いものである。

戦争体験者「1割」 「証言」わが事として刻む(2024年8月16日『福井新聞』-「論説」)
 
 福井県の推計人口(昨年10月1日時点)によると、80歳以上は8万1752人で総人口の10・9%だ。終戦から79年、県内でも未曽有の被害を生んだ惨禍を身をもって知る世代が減り、戦争の記憶に直接触れることは難しくなっている。積み重ねられた「証言」の重みを次代に伝えたい。
 県内の高齢者約200人が参加するグループ「福井いきいき会」は昨夏の会誌で、会員の戦争体験を特集した。1945年7月、120機以上の米爆撃機B29から福井市街に1万発もの焼夷(しょうい)弾が投下された福井空襲の詳述が目立つ。
 当時小学2年生だった男性は、防空壕(ごう)に入ったものの、市内を包んだ火の手の熱に耐えきれず、「出たらだめ」という母の叫びを振り切り、外に飛び出した。米軍機が頭上を飛び交う中、幼い弟と小川で水を掛け合って一夜を明かした。翌朝、自宅周辺を歩くと、住宅の玄関先に逃げたところで折り重なり合って死んでいる5人の遺体を目の当たりにしたという。
 「市街地の空が真っ赤に燃え、束にして落とされた焼夷弾がばらけて、花火のように落ちてきた」「一面焼け野原に焼死体や片腕や足がくすぶっていた」「子どもをおんぶした女の人の背中の赤ちゃんは死んでいて、半狂乱になっていた」「焼け跡に目もうつろにたたずむ人々。多くの黒こげの焼死者が焼けトタンで覆われ、小川にも死者が浮いていた」―。創作の中でも、ほかのどこかでもない。79年前の福井で起きた、まぎれもない現実だ。
 戦後、首相の密使として沖縄返還交渉に関わった越前市出身の国際政治学者、若泉敬氏(1930~96年)は94年、「他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス」を出版した。返還後も有事の際は核兵器再持ち込みなどを認める密約を暴露した著書の中で、戦後日本を「物質金銭万能主義に走る愚者の楽園」と表現。「精神的、道義的、文化的に“根無し草”に堕してしまったのではないか」と問うた。
 若泉氏は晩年、沖縄に足を運び、戦没者の遺骨を収集した。生前親交があった元外務事務次官谷内正太郎さんは「沖縄に過重な基地負担を押し付けたまま経済発展に浮かれているように(若泉氏の目には)映った」と語っている。
 台湾や尖閣諸島を巡り、沖縄は今も緊張の「最前線」にある。福井が再び戦場となる恐れがないとは言い切れない。「戦争は一瞬ではなく、人生に関わる長くつらいもの」。体験者の痛切な訴えを、歴史ではなくわが事として刻みたい。

(2024年8月16日『新潟日報』-「日報抄」)
 
 きのうは終戦記念日だった。日本人にとっては79年前に太平洋戦争が終わった日である。8月はかつて直面した戦争について思いを巡らす機会が多い
▼一方、今の世界には戦争が現在進行形の国や地域がある。ロシア国境にほど近いウクライナ第二の都市ハルキウで暮らしていた少女は、戦火の脅威に直面した頃のことを日記に残していた。その文面からは平凡な日常が一変する様子が伝わってくる
▼少女はロシアが侵攻する直前に12歳の誕生日を迎えた。メディアは戦争が近いと報じていたが、スマホには続々と祝福のメッセージが届き、家族らがパーティーを開いてくれた。周囲にはまだ平和な日常があった
▼ほどなくして、早朝に突然の爆発音で目が覚めた。ロケット弾が飛んできた。「考える時間もなかった。もし戦争が始まったら、どうすべきなのか、だれも教えてくれなかった」。少し前までの毎日とは、あまりに大きな差があった
▼避難して数日後、自宅にミサイルが撃ち込まれた。爆弾が落ちるたび心臓が止まりそうになった。国外に脱出し、現在はアイルランドで暮らしているという。この少女、イエバ・スカリエツカさんの日記は、日本でも「ある日、戦争がはじまった」のタイトルで出版された
▼原題の直訳は「あなたは戦争が何なのか知らない」。現代の多くの日本人にとって戦争は未知の存在といえる。ウクライナでも、そういう人が多かったのだろう。でも戦争は始まった。私たちも同じ立場になることはないか。

埋もれた惨禍・上 捕虜収容所の深い傷痕(2024年8月16日『信濃毎日新聞』-「社説」)
 
 入り口から足を進めていくと、丁寧に手入れされた芝生の広場一面に、墓標が整然と並んでいた。
 その中の一つの前で足を止めた。墓碑にこうあった。「息子よ、遠く離れていても、いつもあなたのことを想っています」
 埋葬されていたのは1943年2月22日に22歳で死去した英国の兵士。下伊那郡天龍村にあった東京俘虜(ふりょ)収容所第12分所(満島捕虜収容所)で、急性腸炎のため亡くなったと記録が残る。
 横浜市保土ケ谷区の英連邦戦死者墓地。13ヘクタールの敷地に第2次大戦中に日本国内の捕虜収容所で死亡した兵士を中心に1720人が眠っている。満島で亡くなった59人のうち35人がここに葬られた。
 捕虜収容所は県内の2カ所を含め、国内に130カ所あった。日本はアジア・太平洋地域で捕虜にした約16万人の連合軍兵士のうち、約3万6千人を国内に移送して労働力不足を補った。
   ◇
■民間研究会の成果
 捕虜たちは劣悪な環境で過酷な労働を強いられ、飢えや病、事故や虐待などで、1割近い約3500人が死亡した。
 どの国の捕虜が何人連れてこられ、どんな生活を送ったのか。誰がなぜ、死なねばならなかったのか―。公文書は少なく、実態は戦後79年の歴史に埋もれていた。
 それを掘り起こす作業を20年以上にわたって続けてきた民間団体が、成果を約1千ページの事典にして出版したのは昨年末のことだ。
 戦争捕虜(PrisonerofWar)の調査を続ける市民団体、POW研究会の「捕虜収容所・民間人抑留所事典」。国内全ての捕虜収容所に加え、対戦国籍の民間人を収容した民間人抑留所の調査研究をまとめている。
 場所や収容人数、死者数、捕虜の生活や労働、横浜裁判でBC級戦犯として裁かれた日本人の氏名など詳細に記録した。
 元放送作家で研究会共同代表の笹本妙子さん(76)=横浜市=の出発点は、英連邦戦死者墓地の近くに引っ越してきた1977年にさかのぼる。偶然墓地に足を踏み入れ、英国人やオーストラリア人の墓標を見た。
 なぜ、ここにあるのか。埋葬されているのはどんな人なのか。周囲に聞いても誰も知らず、図書館に資料もない。何も分からないまま気がつけば20年がたっていた。
 墓地では、陸軍通訳として捕虜とかかわり、戦後は犠牲者の慰霊に尽力した永瀬隆さん(2011年死去)や研究者らが、95年から毎年、追悼礼拝を続けていた。笹本さんは97年にその記事を見て、墓地の意味が分かったという。
 礼拝を主催していた研究者を訪ね、日本が連行した捕虜の実情を聞いて衝撃を受けた。もっと知りたいと思った。ところが資料はない。自分で調べるしかないと考えた。捕虜の手記を読み、翻訳者を訪ねた。人脈が徐々に広がり、地道に調査していた地方の教師や研究者とつながった。
   ◇
■知らねばならない
 そうした人たちが集まり、研究会を結成したのが2002年。04年にはメンバーの1人が収容所別の死亡者リストを国会図書館で発見し、研究会のホームページで公開した。海外で元捕虜の話を聞くなど活動を広げていった。
 笹本さんは「生還した人も心的外傷後ストレス障害(PTSD)に苦しんだ。悪夢にうなされ、日本人と間違え奥さんの首に手を掛けたという話も聞いた」という。
 事典は「収容所で何があり、捕虜にどれだけ深い傷を与えたのか。日本人として知っておくべきだ」という思いでまとめた。
 明らかになった事実は断片に過ぎない。例えば、平岡ダム(天龍村)と発電所の建設に捕虜を動員した満島収容所では、日本軍がフィリピンで捕虜らに強いた「バターン死の行進」を経験した米兵73人や、シンガポールで捕虜になった英兵80人、対米謀略放送「日の丸アワー」への協力を拒否した英捕虜らが次々に送られてきた。
 長時間の労働を強いて体調が悪くても休めず、食事も粗末。懲罰は日常的だったとされる。
 死者は収容所が開設された42年11月から半年間に集中する。死因は主に急性腸炎だ。ただ、医師は遺体を診ないで死因を書かされたとの証言もある。
   ◇
■大きくて深い闇
 中国や朝鮮半島から動員したり、強制的に連行したりした労働者も2千人以上働いていた。連合軍捕虜は曲がりなりにも記録があるが、中国と朝鮮人の労働者の実態は、計74人とされる犠牲者の死因を含め解明する手段は少ない。
 日本軍が東南アジアや中国、朝鮮半島に設けた海外の捕虜収容所の実態も闇に包まれたままだ。このまま放置してはならない。事実を明らかにする必要がある。
 見過ごしてはならないことはまだある。大きく暗い闇は、収容所を管理していた旧日本軍の関係者にも、深い傷を残していた。
 その惨禍を掘り起こす試みは、別の場所で始まっていた。舞台はやはり横浜である。

終戦の日 人間の尊厳、守り抜く道を(2024年8月16日『中国新聞』-「社説」)
 
 終戦の日のきのう、全国戦没者追悼式が都内であり、参列した岸田文雄首相らが先の大戦で犠牲となった軍人・軍属230万人、民間人80万人の計310万人を悼んだ。
 例年をほぼ踏襲した短い式辞ながら、首相は「人間の尊厳」という言葉を盛り込み、これを中心に据えて国の未来を切り開く決意を述べた。
 昨年の国連総会の一般討論演説や、国会の所信表明でも使ったお気に入りの表現なのだろう。「人間の尊厳に光を当てることで、体制や価値観の違いを乗り越えていく」という内容は、国連憲章にもうたわれている。世界平和にふさわしい言葉とも感じる。
 作家大江健三郎さんのルポルタージュヒロシマ・ノート」(1965年)が頭に浮かぶ。ルポで大江さんは、幼少時に被爆した青年が白血病を発症しながら最期まで働き続ける姿や、その恋人が青年の謝意を周囲に伝えた後で静かに後を追う姿を記録した。
 20年近くたっても戦争の惨禍は過去のものにならない。その理不尽さに耐え「威厳」を失わずに懸命に生きる被爆者を大江さんは励ました。被爆地選出の政治家である首相が「人間の尊厳」を、大江さんと同じように受け止めているのならばうなずける。
 だが、首相はその一方でアジア諸国への加害責任には全く触れなかった。第2次安倍晋三政権の発足前までは、大半の首相は反省や加害に言及していた。
 首相は退任を表明したばかりである。安倍政権以降の流れを転換し、アジア諸国の思いにもっと配慮しても良かったのではないか。
 戦争の惨禍への想像力が、薄れていると感じる。
 自民党副総裁の麻生太郎氏は昨夏の台湾訪問時に、台湾海峡の平和と安定には日米や台湾に「戦う覚悟」が求められていると強調した。
 戦争は敵味方を問わず多くの人命を犠牲にする。それを分かっていて、麻生氏は日本の若者にも同じ言葉を投げかけるつもりだろうか。
 きのうは現職閣僚3人が靖国神社を参拝した。この日に防衛相が参拝するのは初のケースという。個々の心情までは否定しないが、政治家とりわけ閣僚が、この日をあえて選ぶ必要はあるまい。
 終戦の日戦没者を悼む一方で、祖国のために戦って死ぬことが過度に美化されかねない日でもある。その恐ろしさをもっと認識すべきだ。
 ロシアによるウクライナ侵攻に加え、イスラエルイスラム組織ハマスによるパレスチナ自治区ガザでの戦闘も続く。自国でハマス最高指導者を暗殺されたイランのイスラエルへの報復も危ぶまれる。
 戦争は一度起こしてしまえばなかなか止められない。先の戦争は、その現実を私たちに教えているではないか。
 きのう、広島市平和記念公園で「私たちは被爆者の体験を直接聞ける最後の世代」と話す高校生の姿が伝えられていた。戦争の悲惨さを語り継ぐことが平和への最大の力になる。終戦の日は、その重みを改めて胸に刻む一日にしなくてはならない。

79年目の終戦の日(2024年8月16日『中国新聞』-「天風録」)
 
 長期戦になれば日本は必ず敗れる―。日米開戦目前の1941年夏、経済や軍事データを踏まえた机上演習で、そんな結論が出される。首相の下に各界から集められた若き精鋭たちの見立て通り歴史は動いた
NHK朝ドラ「虎に翼」で、先週も描かれていた総力戦研究所である。机上演習では、不可侵条約を結んでいた当時のソ連に攻め込まれることまで見通していた。冷静な分析がいかに優れていたかを示しているようだ
▲ところが、「日本必敗」の結論は葬り去られる。日清、日露戦争に勝ち、軍部や政府には慢心がはびこっていたのだろう。展望のないまま無謀な戦いに突き進んで、国内外を問わず多くの犠牲者を生む
▲朝ドラには研究所員だった判事が出てくる。無理筋の戦争を止められなかった自責の念に苦しむ姿が胸に迫る。79年目の終戦の日、非戦を誓い続けることが市民の務めだと、心に刻んだ
▲机上演習でもヒロシマナガサキは見通せなかった。その原爆を巡る裁判が朝ドラで描かれる。主人公は判事として裁判に関わる。投下は国際法違反だったのか。戦争を始めた国は被爆者にどう向き合うべきか。未来への扉を開くのは、過ちから学ぶことだ。

まだ遠い(2024年8月16日『高知新聞』-「小社会」)
 
 戦況が厳しくなっていた1943年、大学(旧制)の入試は暑い盛りの8月に行われたという。10月1日、新入生は晴れて大学の門をくぐったが、あまりに皮肉な運命だった。すぐに学徒出陣となる。
 旧制高校・専門学校の学生も同様だった。当時、召集された1人に、以前も本欄で紹介した故芦部信喜さんがいる。戦後、憲法学の大家となる人物だ。学徒出陣から50年の93年秋、月刊誌「法学教室」にコラムを寄稿し、当時を振り返っている。
 新聞は学徒出陣をたたえ、壮行式では文部相がこう訓示したという。「大君の御盾となるべき最も大切なる使命を負ふの秋が来た」。それは「学徒の『無上の栄誉』である」。
 学生だけではないだろう。多くの若者が同じように励まされ、出征したに違いない。きのう全国戦没者追悼式の中継を見ながら思いを巡らせた。芦部さんは生きて終戦を迎えたが、多くの仲間を失った。戦後、日本国憲法を追究したのもそんな体験と無関係ではあるまい。
 寄稿文は最後に読者に呼び掛けている。「昭和の歴史に思いを致し、この秋『わだつみのこえ』(戦没学生の手記が訴えるもの)に耳を傾けてほしい」
 それから30年超。芦部さんの訴えはいまも通じる。理不尽な大義や紛争は形を変え、世界に存続する。ウクライナやガザの悲劇もそうだろう。私たちが戦没者や亡き戦争経験者から託された平和の実現は、まだかなり遠い。

終戦から79年 「戦争を始めない」決意を(2024年8月16日『西日本新聞』-「社説」)
 
 熊本県阿蘇市波野の遊雀(ゆうじゃく)地区は緑深き山奥にあります。旧波野村議会で議長を務めた岩下平助さん(96)は、戦時中のことを思うと胸が詰まります。「冬は氷点下15度にもなって。寒くてひもじくて寂しくて、沖縄の子たちはどれだけつらかったか…」
 沖縄から学童の集団疎開が始まったのは1944年8月、ちょうど80年前のことでした。熊本、宮崎、大分の3県に五千数百人が避難して来ました。
 疎開先も空襲で危険になり、60人ほどの児童や教師が遊雀に再疎開します。岩下さんの実家は農家で、食べ物欲しさに手伝いに来る子たちと接しました。小さなあかぎれの手が忘れられません。
 疎開生活は終戦の翌年まで続きます。九州から沖縄に戻れても、激烈な地上戦で大切な家族を失った子は少なくありませんでした。
 戦争は人の命をいとも簡単に奪います。先の大戦で日本は自国民だけでなく、アジアや太平洋の人々にも多大な犠牲を強いました。
 終戦から79年を迎え、不戦を誓わずにいられません。
■戦中と重なる避難案
 岩下さんは最近気になることがあります。6月の九州地方知事会議で、政府が沖縄県先島諸島から12万人を九州・山口に避難させる案を示し、各県知事は了承しました。台湾有事を念頭に置くこの避難計画が、沖縄の学童疎開と重なって見えるのです。
 80年前、海は既に戦場でした。沖縄から九州に向かった疎開船3隻のうち「対馬丸」が米潜水艦に撃沈され、約1500人が亡くなりました。遊雀に来た子たちもその船団にいました。戦時中、多くの船が攻撃され、あまたの人々が犠牲になったものの軍事機密にされたこともあり、いまだに詳細は分かっていません。
 2022年12月に閣議決定された国家安全保障戦略は、避難について「武力攻撃より十分に先立って」と記しています。
 国民の命を守るために国が危機に備えるのは重要です。避難計画は検討すべきなのでしょう。
 一方で戦争が始まるとして、私たちは本当に無事に避難できるのでしょうか。80年前の事実を考えれば疑わざるを得ません。
 岩下さんには、異論なく進む計画作りが戦争の準備をしているように感じられてなりません。「台湾有事は日本有事」と不安をあおられ、士気を鼓舞されているのではないか。中国への敵意をけしかけられた日中戦争の頃を思い出します。「走り出したら止まらない。騎虎の勢い。時代の雰囲気とは恐ろしいものです」と語ります。
 避難計画の立案が戦争の前提となり、いつ戦争になっても大丈夫という空気をつくってしまわないか。何より避難が不要な状態であり続けるにはどうすればよいか。私たちは立ち止まり、冷静に、賢明に考えなくてはなりません。
■危うい権力者の正義
 集団的自衛権の行使容認、反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有、防衛費の大幅増額など、この10年ほどで日本の防衛政策は大転換しました。中国、北朝鮮、ロシアが不穏な動きを強め、安保環境が変化していることは確かです。
 見過ごせないのは安倍晋三元首相以降、歴代政権が重要な安保政策の変更を国会で議論せず、閣議決定で済ませたことです。岸田文雄首相は憲法9条への自衛隊明記を性急に進めようとしています。
 イラク戦争自衛隊派遣に関わった元内閣官房副長官補の柳沢協二さんは、今年出した共著で「非戦にこだわる」と断言しました。「戦争とは、大切な人を失うリスクを誰かに背負わせること」「権力者が正義を語ることほど危ういことはない」との主張は説得力があります。
 戦争を始めるのは簡単でも、終わらせるのは難しい。ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルパレスチナ自治区ガザへの攻撃を見れば明白です。
 外交や経済、あらゆる平和な力を使って戦争を始めない。その決意を、読者の皆さんと共に新たにしたいと思います。

敗戦から79年 戦後日本の原点忘れるな(2024年8月16日『琉球新報』-「社説」)
 
 敗戦から79年となった15日、政府主催の全国戦没者追悼式が行われた。
 日本の近現代史を省み、これからの歩みを見据える時、1945年8月15日は常に立ち返るべき原点となる。戦争を拒み、平和を築く国民の意思を再確認する日の意義を私たちは忘れてはならない。
 戦争犠牲者を悼み、アジア太平洋の国々への加害責任を問い続けることが平和創造の礎となる。しかし、国政を担う政治家や政府関係者は8月15日の意義を軽んじてはいないか。
 岸田文雄首相は全国戦没者追悼式の式辞で、安倍晋三元首相や菅義偉前首相と同様、アジアの国々への加害責任には触れなかった。「法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序の維持・強化を進め、世界が直面する課題の解決に取り組む」と述べたのは、昨年まであった「積極的平和主義」に相当するものだろう。
 このような認識を踏まえ、岸田政権は「戦争ができる国」づくりを進めてきた。
 退陣を表明した岸田首相は安全保障3文書の閣議決定で「専守防衛」という日本の防衛政策の国是を覆し、防衛費の増額を進めてきた。今月に入り、憲法9条への自衛隊明記に関する論点を整理するよう党に指示している。戦後日本の支柱をなす平和主義が揺さぶられている。
 陸上自衛隊第15旅団がホームページに沖縄戦を戦った第32軍の牛島満司令官の「辞世の句」を載せるなど、戦前の日本軍と今日の防衛省自衛隊の連続性を疑わせるような動きもあり、看過できない。
 現在この国を覆いつつある「新しい戦前」と呼ばれる潮流は今回の式辞からも読み取れよう。国の危険な動きに歯止めをかけるのは世論の力だ。私たちは「戦争犠牲者にも加害者にもならない」という8月15日の誓いを確かなものとしなければならない。
 ポツダム宣言を受諾し、天皇の放送によって敗戦を知らされた全国とは異なるかたちで敗戦を迎えた沖縄でも8月15日を捉え直す必要がある。
 第32軍の牛島司令官らが自決し、組織的戦闘が終わったとされる6月23日を「慰霊の日」として県民は犠牲者を悼み、平和を希求してきた。
 8月15日、本島住民の多くは収容所にいた。マラリアや飢えに苦しむ者も多く、生命の保証はなかった。八重山でも日本軍の強制移動命令が引き起こしたマラリア禍が続いていた。久米島で8月15日以降、日本軍による住民虐殺が起きている。沖縄では戦争は終わっていなかったのだ。
 沖縄でも官民で国の戦争遂行を支え、県出身の兵士が中国大陸などの戦場に駆り出された。この事実を見落としてはならない。沖縄も日本の加害責任と無関係ではない。
 住民の戦争犠牲と日本の侵略行為への加担。これらの事実を踏まえながら、沖縄にとっての8月15日の意味を考えていきたい。

「決意の標語」の陰で(2024年8月16日『長崎新聞』-「水や空」)
 
 覚えている方もいらっしゃるだろう。1942(昭和17)年、大政翼賛会などは「国民決意の標語」を募集した。「時代を映したキャッチフレーズ事典」(電通)によれば、32万点余りの応募があり、〈欲しがりません勝つまでは〉を含めた10点が入選した
▲ほかにも、国民をあおるような入選作が並ぶ。〈その手ゆるめば戦力にぶる〉〈“足らぬ足らぬ”は工夫が足らぬ〉…。人々の頭にすり込み、物資不足をこらえさせたのだろう
▲かたや、国民は自由にものが言えない。話術家の徳川夢声は、戦時下の日記に自作の句を残した。〈出鱈目(でたらめ)に播(ま)きし菜種の霜に堪え〉〈蝉(せみ)鳴くや後手後手と打つヘボ碁打ち〉
▲でたらめにまかれる「菜種」、打たれる「碁石」が“後手後手”の戦争に翻弄(ほんろう)される庶民を指すのは明らかだろう。暗号のような句に心情をにじませるしかなかった時代を忘れてはなるまい
▲季節外れだが、初冬の風を詠み、終戦の前年につくられた山口誓子の一句も暗号じみている。〈海に出て木枯(こがらし)帰るところなし〉。神風特攻隊の悲惨さを「木枯」になぞらえたことが、のちに明らかになったという
▲勇ましい標語の陰で言葉に「裏の意味」「心の声」を込めた人がいる。鎮魂と慰霊の日が過ぎた。声を発する営みは守られているのか、確かめ続けたい。(徹)

きょう終戦の日 平和主義貫く誓い新たに(2024年8月15日『北海道新聞』-「社説」)
 
 79回目の終戦の日を迎えた。
 侵略と植民地支配から対米開戦へと破局に突き進んだ歴史の教訓を糧に、日本は新憲法の下で非戦の国として再出発した。
 その平和国家が、戦後80年の節目を前に岐路に立っている。
 ウクライナや中東の戦火はやまず犠牲者が増え続けている。
 米国と中国、ロシアの対立が先鋭化する世界で、日本は従属的な対米関係の下で防衛費を半ば聖域化し、防衛力を増強している。東アジアでも軍事的緊張が高まりかねない。
 日本世論調査会の調査で日本が今後、戦争をする可能性があると答えた人は48%に上る。
 時代の空気を表す「新しい戦前」という言葉も生まれた。
 これから戦争体験世代はさらに減少していく。貴重な記憶と記録を受け継ぎ、過去への真摯(しんし)な反省に立ちながら平和主義を貫く誓いを新たにしたい。
■米国は「国体」なのか
 政治学者の白井聡氏は2018年、「国体論―菊と星条旗」(集英社新書)で対米従属の構造を「戦後の国体」と呼んだ。
 国体とは国の主権や統治権の所在であり、戦前の日本では天皇制を指した。戦後は天皇になり代わり米国が体制の頂点に鎮座している―というのだ。
 研究者の仮説ではある。ただ安全保障分野に限れば米国を国体とみなすことで、日本が独立国であることすら疑わせる沖縄の米軍基地問題に合点がいく。
 集団的自衛権の行使を容認した安全保障関連法の制定から、安保関連3文書を改定し敵基地攻撃能力の保有へと踏み出した一連の流れにしてもそうだ。
 専守防衛の原則が形骸化し、日本は「戦争ができる国」への道を開いた。底流に一貫してあるのは米国の圧力であり、防衛機密を守る特定秘密保護法制定も米側の要求だったとされる。
 4月の日米首脳会談では作戦の根幹を成す指揮・統制の連携強化にまで踏み込んだ。自衛隊は台湾有事をにらむ米中対立の最前線に立たされつつある。
 問題は日米同盟強化が本当に日本の安全を守るかどうかだ。
 日本政府は、中国が領有権を主張する沖縄県尖閣諸島防衛のための対米連携を重視する。
 だが自国第一の内向き志向を強める米国側に立てば、台湾有事の際に米軍の犠牲を極力抑えようと、自衛隊に戦闘を肩代わりさせる思惑があっても不思議ではない。米国の戦争に日本が駆り出される構図である。
 国の命運を米国に委ねるような安保政策は見過ごせない。
■聡明な外交こそ必要
 一方で気がかりなのは中国との緊張を和らげ相互理解を進める外交の姿が見えないことだ。
 戦前期の自由主義的言論人だった清沢洌(きよし)は1942年に「世界無比に戦争に果敢なる日本国民が、同じ程度に外交に聡明(そうめい)であるかどうかが、将来に残された最も大なる課題である」と書いた。外交交渉で終戦に持ち込む必要性を説いたとされる。
 清沢は戦時下につづった「暗黒日記」で45年の年頭に「いままでのように、蛮力が国家を偉大にするというような考え方を捨て、明智のみがこの国を救うものであることをこの国民が覚るように―」とも記している。
 敗戦は軍事力を妄信して外交をおろそかにした結果だった。現代の日本政府は戦争を起こさせず、他国の戦争をやめさせる外交にこそ聡明であるべきだ。
 憲法は国際社会において「名誉ある地位を占めたい」とうたう。分断が進む世界で、戦争のない国際秩序を目指す憲法の精神を外交構想として具現化していくことが求められる。
■「戦前」を繰り返すな
 発足70年の自衛隊は特定秘密の漏えいや潜水手当不正受給などの不祥事が相次いだ。不正受給を巡り4人逮捕者が出ても木原稔防衛相に報告がなかった。文民統制シビリアンコントロール)が働かず深刻な事態だ。
 幹部の靖国神社集団参拝や、連隊の公式X(旧ツイッター)で「大東亜戦争」との表現を使用していたことなど、自衛隊歴史認識も問われている。
 実力組織が戦前への反省を忘れ、文民統制を外れて暴走したら民主主義社会の脅威になる。
 だが統制する政治の側も機能不全が著しい。岸田文雄首相は自民党の金権体質を改めることができずに国民の信を失い、きのう退陣を表明した。
 歴史は繰り返さないが韻を踏むという。統治力を欠き抗争に明け暮れた政党政治が国民に見放され、軍部の台頭を許した戦前を思い起こさざるを得ない。
 だが私たちは過去に学び、未来を変えていくこともできる。
 ノンフィクション作家の保阪正康氏は非戦の戦後80年を「ある時代のある国の僥倖(ぎょうこう)」として済ませず「思想化」すべきだと語る。「何かここから生み出すという、歴史の使命感を与えられている」と捉えたいと言う。
キャプチャ
 揺らいだ平和主義の理念を国の基盤として鍛え直し、「戦後」を続けていかねばならない。

「焼跡闇市派」の8月15日(2024年8月15日『北海道新聞』-「卓上四季」)
 
 日本が戦争に敗れた1945年8月。野坂昭如(あきゆき)さんは14歳の少年だった。神戸空襲で焼け出され、薄い縁を頼りに福井県の農村に疎開する。栄養失調になった1歳半の妹と2人きりで
▼のちの作家はこの夏を克明に記憶する。広島や長崎の「新型爆弾」の被害を知り、15日の玉音放送を聞いた。「もう焼夷弾から逃げなくていい。生きていける」。ほっとする気持ちだった
▼安堵(あんど)をよそに死は身近にあった。妹が息を引き取る。首がすわらず、泣き声を上げず、骨と皮だけになった。荼毘(だび)に付すと、爪の先ほどの骨しか残らなかった
▼焼跡闇市派と自称した作家は戦争の正体を問い続けた。日本人は戦災を天変地異のように受け止め、だから仕方がなかったと考えがちだが、それは違う。戦争を進めた者がいて支持した国民がいる―
▼この節目の日を前に、岸田文雄首相が退陣を表明した。会見で多くの「実績」を並べたが、どれも金権腐敗の問題を前にくすんで見える。なにより「新しい戦前」へ国を進めた懸念が拭えない。軽武装路線の宏池会出身と広島選出は本当か
▼戦後70年に没した野坂さんは死を前に記した。<日本に再び敗戦はない。次は滅びるだけ。かつて愚鈍なリーダーのもと、大日本帝国は戦争に突き進み、崩壊した>。繰り返さぬよう国民は他人任せの思考停止を排せ、と。

終戦から79年 外交で平和に貢献せよ(2024年8月15日『秋田魁新報』-「社説」)
 
 きょう79回目となる「終戦の日」を迎えた。先の大戦で亡くなった人々を悼み、戦争という過ちを二度と繰り返さないために平和の尊さを改めて胸に刻む日としたい。
 世界情勢を見れば、「平和の祭典」であるはずのパリ五輪が開かれていた間も戦火が収まることはなかった。パレスチナ自治区ガザでイスラエルイスラム組織ハマスの戦闘が始まってから10カ月が過ぎた。
 先月31日にはハマス最高指導者ハニヤ氏が訪問先のイランで殺害された。イランはイスラエルの犯行と断定して報復を宣言しており、中東情勢の緊張が一層高まっている。
 ハマスに捕らわれたイスラエルの人質はなお120人ほどいるとされる。その半数以上が既に死亡したとの見方もある。ガザ当局の発表では、イスラエルの攻撃によるガザ側の死者は約4万人。このうち子どもは約1万6千人に上る。多くの民間人が戦闘の巻き添えになっている状況は到底容認できるものではない。
 ロシアによるウクライナ侵攻は2年半近く続いており、双方で既に多くの人命が失われた。戦闘の終結はなお見通せない。ウクライナでは国外避難した国民の帰還のめどが立たず、人口減少や労働力不足が課題となっている。
 今月6日にはウクライナ軍がロシアに対して最大規模の越境攻撃を仕掛け、新たな戦線が開かれた。始まってしまった戦闘を終わらせる難しさを、二つの争いは示している。
 日本を取り巻く安全保障環境は厳しさを増している。中国は軍備拡張や海洋進出を続けており、北朝鮮も近年、核兵器の搭載が可能とされる弾道ミサイルなどの発射実験を繰り返している。
 政府は2022年に安保関連3文書を改め、反撃能力(敵基地攻撃能力)保有を打ち出すとともに防衛費の増額を決めた。今年に入ってからは英国、イタリアと共同開発する次期戦闘機の第三国への輸出を条件付きで解禁した。
 戦後日本は武器輸出に抑制的だっただけに、重大な方針転換といえる。戦闘機が輸出されれば、世界のどこかで日本の武器が人の命を奪う事態につながりかねない。
 これらの方針は、いずれも国会で十分に議論されないまま閣議決定された。変化する安保環境への対応が求められるのは確かだろうが、政府の進め方には危うさを覚える。前のめりな姿勢は周辺国の警戒感も高めかねない。戦後の平和の歩みを逸脱しないよう、慎重に議論を重ねていくことが不可欠だ。
 混迷を深める世界で日本に求められるのは、外交で平和に貢献することだと再確認したい。その役目を果たすためにも、戦後79年間、戦争をしなかった日本が積み上げた国際的な信頼を守り抜かなければならない。

(2024年8月15日『秋田魁新報』-「北斗星」)
 
 戦死といえば、爆撃や銃撃に倒れるなど激しい戦闘の場面を想起しがちだ。だが実際は、伝染病をはじめとする病死や餓死が少なくないという
日中戦争が勃発してから太平洋戦争が終結するまでの日本の軍人・軍属の戦死者は約230万人とされる。戦争末期の1944年以降に集中し、特に餓死が多かったようだ。米軍に制空権と制海権を奪われるなどして補給路を断たれ、深刻な食料不足に見舞われたことが主な理由とみられる。「日本軍兵士」(吉田裕著、中公新書)に詳しく記されている
▼以前、南方で戦死した県南部出身の男性が戦地での生活をつづった日記を読んだ。その中には過酷な行軍の様子のほか、水と食料の確保に苦労したことなどが赤裸々に書かれていて、わずかながら戦場の実態の一端を見る思いがした
▼戦況が悪化する中、満足に食べることもできないまま痩せ細り、倒れていった多くの兵士たちのことを思うと胸が詰まる。どうにか命拾いして帰国できたという人も、心の傷は容易に癒えなかったのではないか
終戦からきょうで79年になる。このお盆期間中、戦地に散ったご先祖を迎えて、あらためて手を合わせている人も多いだろう。どんなにつらく無念だったことかと
▼年月の経過とともに、戦争を体験した人が減っていくのは避けられない。だがそれによって平和を希求する活動が停滞することがあってはならない。悲惨な戦争の実態をいかに伝え、語り継いでいくかが問われる。

(2024年8月15日『山形新聞』-「談話室」)
 
▼▽人は何を記憶し、何を忘れるのか。脳科学者の沢田誠さんによると、使わない記憶は不要と見なされ、脳の細胞に“食べられて”消える。劣化する場合もある。忘れたくないことは定期的に思い出す必要があると説く。
▼▽25歳で終戦を迎えた詩人石垣りんさんに「弔詞」という一編がある。戦後20年の節目に、勤務先の職場新聞に戦没した同僚105人の名が載る。その紙面に寄せた詩だ。「もうここに並んだ死者たちのことを、覚えている人も職場に少ない」。記憶を継ぐのは容易ではない。
▼▽だから石垣さんは犠牲になった仲間たちが離れていかないように、引き留める。「私は呼びかける。/西脇さん、/水町さん、/みんな、ここへ戻って下さい。(中略)語って/下さい」。どのように戦争に巻き込まれて、一人一人の命が閉じられたかを教えてほしい、と。
▼▽79回目の終戦の日を迎えた。惨禍を今に伝える戦争体験者は年々減少していく。その声と、死者が語る言葉に耳を傾け、忘却と劣化を防ぐために反すうしたい。先の詩はこう続けられる。「戦争の記憶が遠ざかるとき、戦争がまた/私たちに近づく。/そうでなければ良い」

終戦の日/不戦の誓いが今こそ重要だ(2024年8月15日『福島民友新聞』-「社説」)
 
 世界各地で戦闘が続き、収束の見通しが立たない。日本周辺での危機も現実味を帯び、その備えの重要性が高まっているのは事実だ。しかし、武力行使をやむを得ないとしたり、不戦の重要さを強調するのが、あたかも現実を直視しない態度であるかのようにみなしたりする雰囲気があることは、極めて危うい兆候だ。
 第2次世界大戦では全国で約310万人が犠牲になった。旧日本軍兵士約230万人に加え、原爆投下や本県などへの空襲で一般人約80万人も命を落とした。戦争は何としても避けなければならない愚挙だ。終戦の日を機に、不戦の誓いを改めて胸に刻みたい。
 政府は2023年度から5年間の防衛費を増額し、防衛力の強化を進めている。背景にあるのは、北朝鮮のミサイル開発と断続的に続く挑発行為、周辺海域の実効支配や台湾掌握への意欲を隠さない中国の動きだ。
 防衛力の強化によって攻撃に備える以上に重要なのは、攻撃を受ける恐れのない状況を着実につくっていくことに尽きる。政府には東アジアの安定化に向けた対話を進める姿勢を前面に押し出し、融和に向けて行動していくことが求められる。
 国同士などの戦闘は一度始まってしまえば、終わらせるのが極めて難しい。それは太平洋戦争までさかのぼるまでもなく、現在の世界情勢からも明らかだ。
 ロシアによるウクライナへの侵攻は、国境付近での動きが活発化しており、開始から2年を経てなお、戦闘激化の様相を呈している。イスラエルイスラム組織ハマスは、パレスチナ自治区ガザで激しい戦闘を繰り広げている。また、イランがハマス幹部殺害への報復として、イスラエルを直接攻撃する構えを示しており、戦闘の拡大が懸念されている。
 二つの実質的な戦争により、民間人を含めた多くの命が失われていることには胸が痛む。一刻も早く戦闘がやむよう世界各国が力を尽くさなければならない。
 戦中に青春時代を過ごした評論家加藤周一は、戦争で多くの友人が亡くなったことを挙げ「私の友達を殺す理由、殺しを正当化するような理由をそう簡単に見つけることはできない。だから戦争反対ということになる」(「私にとっての20世紀」岩波書店)と書いている。この言葉は、ウクライナでもガザでも同様であろう。
 危機が高まる現実を直視するならば、最初にすべきは、戦争を正当化する理由などあり得ないと一人一人が再確認することだ。

終戦の日(2024年8月15日『(2024年8月15日『福島民友新聞』-「編集日記」)
 
 ヘンゼルがポケットに詰めた小石を道に落とす。継母の悪巧みで、ヘンゼルとグレーテルの兄妹は山奥に置き去りにされたものの、小石を頼りに家に帰る。グリム童話の一場面である
▼兄妹は再び山奥に連れていかれる。小石を準備できなかったヘンゼルは次の手を考える。なけなしのパンをちぎり、道しるべにした
▼1940年、日本は対英米路線の傾向が強くなり、日独伊三国同盟に慎重な海軍の立場は揺らいでいた。開戦のブレーキ役となるはずだった海軍は、勝利の確信がないまま、大した議論もせず同盟になびく。作家の半藤一利さんは、ここに大きな問題があったと指摘する
▼海軍が賛成したのは、同盟が成立せずに内閣が倒れた際の責任を取りたくない、軍備増強の予算が欲しいーなど内向きの理屈だった。歯止めがきかなくなった日本は、引き返すことのできない亡国への道を突き進んだ(「昭和史」平凡社
終戦から79年。自衛隊在日米軍が、台湾有事などへの備えを強化している。有事となれば、米国の求めに応じる形で、日本が戦闘に参加する恐れは否定できない。考えるべきは戦争を回避する手だて。歴史に学び続けたい。私たちはまだ、引き返せるのだから。

「この頃頻繁にあらはれる知名人の回想録、過去の感想談も…(2024年8月15日『毎日新聞』-「余録」)
 
キャプチャ
1963年の8月15日に開かれた第1回全国戦没者追悼式で戦没者に黙とうをささげられる昭和天皇、皇后両陛下=東京・日比谷公会堂
キャプチャ2
東京・新宿御苑で行われた独立後初の全国戦没者追悼式で参拝する遺族代表=1952年5月2日
 「この頃頻繁にあらはれる知名人の回想録、過去の感想談も、眉に唾をつけて見るべきであり聞くべきである」。作家の正宗白鳥(まさむね・はくちょう)が終戦の年の末に「8月15日」について書いている。今では当たり前のような終戦記念日への見方も当初はさまざまだった
終戦詔書への署名は8月14日。大本営の停戦命令は8月16日。ミズーリ号での降伏文書調印は9月2日。14日を重大な区切りと考える識者も少なくなかった
▲「玉音放送」の国民的体験と戦前も戦没者追悼法要がラジオ中継されていたお盆が重なり、共通認識が形成されていったという。1955年の終戦10年を機にした「記憶の55年体制」と呼んだのは歴史学者佐藤卓己(さとう・たくみ)上智大教授だ
▲79回目の終戦記念日を迎えたが、戦後初の全国戦没者追悼式はサンフランシスコ平和条約の発効で独立を回復した直後の52年5月2日。政府主催の追悼式を8月15日に実施するようになったのは63年からで今年の式典は62回目になる
▲「戦没者を追悼し平和を祈念する日」という正式名称を閣議決定したのは82年。多くの犠牲者を出した戦争を追悼する日の法的根拠が閣議決定というのは心もとない
▲来年は戦後80年の大きな節目だ。ロシアのウクライナ侵攻やイスラエルのガザ攻撃に終わりが見えない中、平和の価値は重い。岸田文雄首相の総裁選不出馬表明で誰が来年の式典の壇上に立つかも見通せないが、判で押したように前例踏襲が続いてきた首相のあいさつだけはそろそろ見直してもらいたい。

全ての御霊安らかなれ 靖国神社参拝は戦没者との約束だ 論説委員長 榊原智(2024年8月15日『産経新聞』ー「論説」)
 
キャプチャ
終戦の日を翌日に控え、靖国神社は大勢の参拝客で混雑していた=14日午後、東京都千代田区(桐原正道撮影)
79回目の終戦の日を迎えた。日本は、大東亜戦争と呼称した先の大戦で、陸海軍人、民間人合わせて310万人の同胞を喪(うしな)った。全ての御霊(みたま)安らかなれと心からの祈りを捧(ささ)げたい。
 昭和天皇の玉音(ぎょくおん)放送を拝聴し終戦を知った国民は齢(よわい)を重ね、ごく少数になっている。そうであっても、日本史上、最大の悲劇だ。あの戦争を語り継ぎ、鎮魂と平和の祈りを重ねたい。
 戦没者(英霊)は日本や故郷、愛する人たちを守ろうと出征した。子を儲(もう)けずに逝った若者も多かった。
頭を垂れた安倍元首相
 尊い命を捧げた英霊にとって靖国神社に永く祀(まつ)られることは自明で、いわば日本の国との約束だった。これは極めて大切な話だ。
 だからこそ靖国神社戦没者追悼の中心であり続けるべきなのである。後世の人間が賢(さか)しらぶって「新しい国立追悼施設」など造っていいはずもない。
 日本の独立を守った120年前の日露戦争など幾多(いくた)の戦いの戦没者靖国神社に祀られている。
今から11年ほど前の話になる。平成25年4月、安倍晋三首相(当時)が硫黄島を視察した。昭和20年3月に2万余の日本軍守備隊が玉砕した激戦地だ。
 自衛隊の航空基地などの視察を終え父島へ向かう飛行機に搭乗する際、安倍氏は予想外の行動をとった。滑走路にひざまずき、手を合わせ頭(こうべ)を垂れた。そして滑走路を撫(な)でたのである。その下にも英霊の遺骨が眠っていると知っていたのだろう。滑走路地区を含め遺骨収集は今も続いている。
 記者団は父島へ先乗りしており、報道を意識したパフォーマンスではなかった。当時、海上幕僚長として案内役を務めていた河野克俊元統合幕僚長は「心底、戦没者に対する哀悼の意が深い方だった」と振り返っている。
政治のリーダーが英霊への感謝の念を持つことは大切だ。ただ、安倍氏でさえ、首相在任中に靖国神社を参拝したのは平成25年12月の一度きりだった。
 以来、首相の靖国神社参拝は途絶えている。勅使参向はあるが、天皇陛下ご親拝(しんぱい)の環境はいつまでたっても整わない。政治家が、中韓両国の干渉、メディアを含む左派勢力の反発を懸念しているからだろう。
 英霊との約束を守らない日本であっていいわけがない。自民党総裁選不出馬を表明した岸田文雄首相や閣僚、総裁選への立候補を志す政治家らは終戦の日や春季、秋季の例大祭などの機会に参拝してもらいたい。
 国会は主権回復後の昭和28年8月、「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」を全会一致で採択した。政府は関係国政府の同意をとりつけ、死刑を免れたA級を含む全ての「戦犯」の釈放を実現した。刑死・獄死した受刑者の遺族にも年金を支給した。
 その後、連合国によって刑死した人々も靖国神社に合祀(ごうし)されるようになった。
自衛隊は勇戦の顕彰を
 「A級戦犯」として禁錮7年の判決を受けて服役した重光葵(まもる)は東条英機内閣の外相当時、人種平等を掲げた世界初の有色人種諸国のサミット、大東亜会議を実現した人物だ。恩赦後に衆院議員に当選し、昭和29年から31年まで鳩山一郎内閣の副総理兼外相だった。国連総会で日本の加盟受諾を演説し、各国代表から盛大な拍手を浴びている。
 このようないきさつを顧みず、刑死した「A級戦犯」合祀などを理由に靖国神社参拝を難ずる勢力があるのはとても残念だ。
 日本は平和を希求する民主主義国だ。政治家は日本を敵視する国への配慮よりも、英霊や遺族へのおもんぱかりを優先してほしい。
 靖国神社を忌避する勢力は自衛隊との切り離しにも拘(こだわ)っている。だが、自衛隊も陸海軍も日本の軍事組織である点は同じだ。自衛隊自衛隊員は、英霊が祖国を守ろうと必死に戦った勇戦奮闘の史実を学び、語り継ぎ、顕彰してほしい。それは自衛隊を一層精強に育て、平和を守る抑止力を高める。
 戦後最も厳しい安全保障環境にある今、台湾有事や朝鮮半島有事が日本有事に容易に転化することは世界の安保関係者の常識となっている。ロシアのウクライナ侵略や中東情勢、米大統領選の行方も、日本の針路に深く関わる。
 首相選びとなる自民党総裁選に名乗りを上げる政治家は英霊への追悼、顕彰の思いを示すとともに具体的な外交安保政策、抑止力向上策を語るべきだ。いずれも平和を守っていくために大切なことである。

戦後79年、記憶語り継ぐ頼もしい世代(2024年8月15日『産経新聞』-「産経抄」)
 
 布袋からのぞく固形物は黒く変色していた。展示ケースに添えられた説明文には「乾パン」とある。先の大戦末期、硫黄島の日本軍は米軍と激戦を繰り広げた。栗林忠道中将が指揮した地下壕(ごう)にその乾パンは残されていたという。
靖国神社の資料館である「遊就館」では、特別展『兵食』が開かれている。乾燥牛肉、携帯粉みそ…。ケースの中に並ぶのは過酷な戦場の「食」をいまに伝える証人たちである。錆(さ)びてぼろぼろになった数多の缶詰も。これも硫黄島で見つかった。
ニューギニアや「餓島」と呼ばれたガダルカナル島など、南方の激戦地では多くの餓死者が出た。戦線では武器弾薬もさることながら、皿の代わりとなる飯盒(はんごう)の中蓋やスプーンが大事にされたという。シベリア抑留者の一人が自作した木製のスプーンもあり、見る者の胸を打つ。
▼「ひもじい」や「飢え」を体験として語れる世代は少なくなりつつある。戦後79年とは、そういう歳月でもある。忘却という敵と、どう戦うか。総人口の約9割は戦後生まれで、戦争にまつわる記憶や記録の継承は難しい時代に差し掛かっている。
▼希望はある。パリ五輪で戦った卓球女子メダリストの早田ひな選手は、13日の帰国会見で語った。鹿児島の知覧特攻平和会館を訪ねたい、と。「生きていること、卓球ができていることが、当たり前じゃないというのを感じたい」。24歳は「戦後」を決して軽く捉えてはいない。
▼思えば小欄が靖国を参拝したきのう、炎天下で九段の坂を上っていたのも、遊就館の展示に熱いまなざしを向けていたのも、多くは早田選手と同じか、それより若い人たちだった。戦争を語り継ぐ。そのバトンを受け取るのは、実は頼もしい世代なのだろう。

終戦の日に考える 凄惨な体験を語り継ぐ(2024年8月15日『東京新聞』-「社説」)
 
 79年前のきょうを境に日本人の運命が大きく変わりました。エッセイストで、初代林家三平さんと結婚して落語家一門を支える海老名香葉子さん(90)のいとこ「お咲ちゃん」もその一人です。
 お咲ちゃんは10歳下の海老名さんにとって絵本を読み、一緒に遊んでくれる、器量よしの憧れの存在。戦時中でもハイヒールにパラソルという洋装で海老名さん宅を訪ねたり、1944(昭和19)年のお正月には人目につかぬよう、もんぺ姿の下に振り袖を着て見せに来たりしたそうです。
 でも海老名さんにとってこれがお咲ちゃんの最後の姿でした。この年の夏、お咲ちゃんは2人の弟とともに、南満州鉄道に勤める長兄が住む旧満州中国東北部)鞍山(あんざん)に縁故疎開したからです。
 未知の土地での暮らしに慣れ始めたころ、45(同20)年8月のソ連参戦と日本敗戦で状況は一変。ソ連兵が鞍山に攻め入った後も一家はしばらく鞍山にとどまりますが、日本人、特に女性は外出しないよう促される不安な日々です。
◆お咲ちゃん襲うソ連
 9月のある日、お咲ちゃんは弟の清水章吾さんを連れて鞍山駅の生計所(売店)へ食料調達に出かけました。途中の神社山の鳥居に手を合わせ、駅に向かって駆け出したときでした。眼前に突然、ソ連兵の一団が姿を現したのです。
 「うおおー」とうなり声を上げながら、お咲ちゃんのもんぺズボンを引き裂き、裸にして押さえ付けて暴行する大男。その横で5、6人のソ連兵がたばこをふかして笑い声を上げていました。
 姉の悲鳴が聞こえても章吾さんは恐ろしさで体が動きません。その後46年間、記憶を封印し、誰にも語りませんでした。
 お咲ちゃんは身ごもり、子どもを堕(お)ろした後は体調がすぐれず、伏しがちの日々。いよいよ最後の引き揚げ団で日本に帰ることが決まると、にわかづくりの担架に乗せられて、鞍山を後にします。
 家族が力を合わせ、ようやく葫蘆島(ころとう)まできて最後の引き揚げ船、氷川丸に乗り込みましたが、お咲ちゃんはあと少しで帰国できるというところで息を引き取ります。遺体は船内で火葬されました。
 海老名さん自身も静岡県・沼津に縁故疎開中の45年3月の東京大空襲で両親と祖父母、兄2人の家族6人を失い、戦災孤児になりました。
 海老名さんがお咲ちゃんの鞍山での暮らしやその後の運命を知ったのは91年、章吾さんとともに鞍山などを巡ったとき。章吾さんもそのときになって初めて、自分やお咲ちゃんがたどった凄惨(せいさん)な体験を話せたのです。
 少し長くなりましたが、海老名さんが今月出版した「大大陸に陽(ひ)は落ちて 満州引揚(ひきあ)げ者たちの哀(かな)しみの記憶」(鳳書院)から引きました。お咲ちゃんの思い出は97年にも徳間書店から出版されています。なぜ、この時期に再び出版を? 海老名さんからの手紙にはこう記されています。
 「毎年、終戦の日が近づくと、沖縄戦や広島、長崎の原爆投下などが取り上げられますが、満州での出来事が紹介されることは多くありません。日本に帰還した人たちも高齢化が進み、存命する語り部は少なくなっています。『満州引揚げ者たちの哀しみを伝えたい』、そんな思いをしたためたのが本書です」「平和の尊さを改めて感じ取って頂ければ幸いです」
 新版にはお咲ちゃん同様、少年時代を満州で過ごした漫画家ちばてつやさんの挿絵や、海老名さんとちばさんの対談、海老名さんが作詞し、歌手のクミコさんが歌ったCDも収録されています。
 先の戦争では日本国民だけで310万人もの命が奪われました。戦場はもちろん、空襲や原爆被害に遭った内地に加えて、お咲ちゃん一家同様、満州など外地から命からがら帰還し、塗炭の苦しみを味わった在外邦人も多いことでしょう。
◆戦争再び起こさぬため
 ちばさんは対談で「ウクライナやガザのことを思うと、戦争を知っている人間が、戦争が始まるとお互いの国が、世界中がまきこまれてめちゃめちゃな地獄になるんだよ、ということを伝えなければならない」と語っています。
 権力者が起こす戦争で犠牲を強いられるのはいつの時代も、何の罪もない無辜(むこ)の人々の命や平穏な暮らしです。権力者に戦争を思いとどまらせるためにも、凄惨な体験を語り継がねばならない。そう固く誓う「終戦の日」です。 

終戦の日 平和の尊さを確かめたい(2024年8月15日『新潟日報』-「社説」)
 
 約310万人もの国民が犠牲になり、アジア諸国などに多大な苦しみを強いた太平洋戦争の終結から、79年が過ぎた。「終戦の日」のきょうは、過ちを二度と繰り返さぬと誓い、平和の尊さを確かめ合う日としたい。
 しかし今なお、世界で戦火がやまず、命が奪われ続けていることは、残念でならない。
 ウクライナへロシアが侵攻して2年半になる。パレスチナ自治区ガザでのイスラエルイスラム組織ハマスの戦闘は、イランを巻き込んで中東地域に波及しかねない状況にある。
 多くの一般市民が犠牲になり、人の営みが破壊されている。両地域とも戦乱は泥沼化しており、和平の実現がいかに難しいかを突きつける。
 わが国の足元に目を向けても、現状は平和国家としての基盤が揺らいで見える。
 岸田文雄首相は14日、自民党総裁選への不出馬を表明した。岸田政権下で反撃能力(敵基地攻撃能力)保有や防衛費大幅増を決めるなど、安全保障の在りようを足早に変容させてきた。
 総裁選を機に自民は一度立ち止まり、憲法が掲げる平和の理念を見つめ直してもらいたい。
 ◆米国一辺倒に危うさ
 政府は今年3月に、英国、イタリアと共同開発する次期戦闘機の第三国への輸出を解禁すると閣議決定した。
 殺傷能力の高い戦闘機の輸出解禁は、日本の安保政策の転換となるものだ。
 道を開いたのは、2014年の安倍政権下で行われた武器輸出三原則の見直しだった。防衛装備移転三原則を新たに閣議決定し、装備品の輸出や供与のルールを定めて武器輸出を事実上可能にした。
 さらに岸田政権は23年末に運用指針を改定し、殺傷能力のある武器の輸出に踏み切った。
 戦争を下支えできる仕組みが徐々に整ってきたことは否定できない。加えて、なし崩しに歯止めが取り払われてきたことにも大いに問題がある。
 重要な法案や政策を、十分な国会審議を経ずに閣議決定などで決める手法は、安倍政権から岸田政権まで3政権にわたって引き継がれ、国会の空洞化を招いたと言わざるを得ない。
 発足から70年を迎えた自衛隊を巡っても現在、近年では例を見ない大規模な組織改編が予定されている。
 政府は陸海空3自衛隊を一元的に指揮する統合作戦司令部を本年度末に発足させる。4月の日米首脳会談で合意したもので、米国側も歩調を合わせ、在日米軍の権限を強化した統合軍司令部を組織する方針だ。
 政府は「自衛隊の全ての活動はわが国の主体的な判断で行われる」としているが、米軍との一体的運用への懸念は根強い。有事の際に、自衛隊在日米軍の指揮下に入りかねないという指摘もある。
 日米同盟は日本の安全保障の基軸ではあるが、あらゆる面で米国に追随していては周辺諸国との間で軋轢(あつれき)を生じさせてしまう恐れがある。戦争の回避が何より優先されるべきだ。
 軍事的な緊張が各地で高まる今こそ、日本には主権国家として多元的で戦略的な外交を志向する柔軟性が求められている。
 ◆戦争当事者になるな
 新潟日報社が加盟する日本世論調査会は6~7月に、平和に関する世論調査を実施した。
 日本が今後、戦争をする可能性について、「大いにある」「ある程度ある」と考えている人が合わせて48%に上った。
 20年の調査では32%だったが、21年は41%と次第に増加し、22年以降はほぼ半数が続く。
 日本が戦争当事者になり得ると考えるのは、「戦争ができる国」へ向かう日本の現状に危うさを感じ取っているからだろう。見過ごせない事態である。
 戦争を体験し、その生々しい実態を知る戦中世代が減る中で、戦争への断固とした拒否感が国民の間で薄れてきてはいないか。気付いた時には戦争の渦中にいたという事態だけは、絶対に招いてはならない。
 安全保障や防衛政策を身近に感じることは少なくても、方向性に疑問や不安を感じた時は、臆することなく声を上げることが私たち国民に求められる。
 後世に平和のバトンを手渡していくため、今を生きる世代が負う責務である。
 平和は決して当たり前にあるのではない。常に希求し、努力し続けなければ、保たれないことを深く胸に刻みたい。

戦後79年/「モノと記憶」を次代につなぐ(2024年8月15日『神戸新聞』-「社説」)
 
 終戦から79年たち、戦争の記憶の継承が切実な課題となっている。実体験を語る証言者が急速に減っていく中で、重要性を増すのが各地に残る戦争遺跡や廃棄を免れた当時の資料などの存在だ。それらをどう読み解き、次代に伝えていくかの模索が続く。積み重ねてきた「戦後」を新たな戦前にしないために学ぶべきことを身近な地域から探りたい。
    ◇
 北条鉄道法華口駅から約3キロ、道しるべ代わりのカラー舗装に沿って進んだ先に、加西市地域活性化拠点施設「soraかさい」が見えてくる。建物に向かう一本道の脇に戦争末期に造られた姫路海軍航空隊鶉野(うずらの)飛行場の滑走路跡(1200メートル)が当時のまま残る。周辺には素掘りの防空壕(ごう)群やコンクリート製の爆弾庫跡、敵機を迎え撃つ機銃座跡などが草木に覆われて点在する。soraかさいは国から滑走路跡の払い下げを受ける際、市が活用策として整備し2022年に完成した。
 中に入ると、飛行場に隣接していた川西航空機姫路製作所の工場で組み立てられた戦闘機「紫電改」と、訓練機だが体当たりの特別攻撃にも使われた「九七式艦上攻撃機」の実物大模型が存在感を放つ。同飛行場から出撃した特攻隊「白鷺(はくろ)隊」の状況を映像や遺品で紹介するコーナーは奥にある。カフェや特産品の売店も併設され、明るい雰囲気だ。
 中核となる資料や関係者の証言を約30年かけて集め、地元でも忘れられかけた歴史を「なかったことにはできない」と掘り起こしたのは、滑走路跡近くの会社に勤めていた上谷昭夫さん(85)=高砂市。講演などでは「技術の粋を集めた戦闘機で、多くの若者が犠牲になったことを忘れないで」とも伝えてきた。
 修学旅行や平和学習で訪れる小中学生も多いが、戦闘機の雄姿と平和の尊さがすぐに結びつくとは限らない。モノだけでは伝わらない背景を体験者の語りや歴史を踏まえた解説で補う必要性は高まっている。
■平和学習の理念は
 注目は、地元の北条高校で探究学習に取り組む「うずらの班」との連携だ。同班は施設ができる前から地域の戦争遺跡の調査や体験者への聞き取りを続け、防空壕などでガイドも務めてきた。生徒たちは「戦争がここで実際にあったと実感できた」「歴史をもっと知り、平和の大切さを同世代にも伝えたい」と学びを深めている。5月にsoraかさい開設2周年企画として実施された戦跡ツアーも好評だった。
 一方、オープンから2年連続で10万人を超えたsoraかさい全体の入場者数は3年目に入り減少傾向にある。新型コロナウイルス禍の収束で広島、長崎への修学旅行が復活したことなどが要因という。観光資源としての活用にとどまらず、平和学習拠点として軸となる理念が求められているのではないか。
 12年に開館した滋賀県平和祈念館(東近江市)は、県が運営する全国でも珍しい施設だ。収蔵資料は5万点を超え、戦時中の県民の暮らしを豊富な資料とエピソードで浮き彫りにする基本展示が充実している。小中学校への出前授業など平和学習にも力を入れる。館長の朝倉敏夫・国立民族学博物館名誉教授は「利用者の満足度は高い。戦後80年を前に、改めて平和とは何かを問いかける企画にも取り組みたい」と語る。
■市民の力を生かす
 同館では、ボランティアの主体的な活動を運営に生かしている。20~80代の約50人が登録し、当時の手紙の解読や演劇創作、戦時食の再現などのグループに分かれて、資料を活用して「平和への願い」を伝える方法を考え、発表している。その活動を行政が支える意味は大きい。
 鶉野飛行場跡の調査に携わった神戸大人文学研究科研究員の佐々木和子さん(71)は「戦跡の発掘や保存は市民の地道な活動から始まる場合が多い。ばらばらだった資料が時を経て結びつき、答えが見つかることもある。資料を生かし、時代を超えて検証できる仕組みをつくるのは自治体や政府の役割ではないか」と指摘する。
 soraかさいで10日、北条高生による初めてのイベントが開かれ、うずらの班も活動を報告した。高校生がひたむきに戦争の悲惨さと平和の大切さを伝える姿は、施設を訪れる人と、地域に残る戦争の記憶の架け橋になるだろう。
 若者を見守るだけでなく、自分でも身近な戦跡を訪ねたり、体験者の言葉に触れたりできる機会を探してみよう。継承の裾野を担う一人一人の行動が問われている。

終戦の日 厳しさ増す平和堅持の道(2024年8月15日『山陽新聞』-「社説」)
 
 1945年6月の岡山空襲で市街地の建物が焼け落ち、がれきの街と化した岡山市―。終戦後、市内の様子を水彩のスケッチにして残した画家・佐藤一章の作品だ。市立中央図書館で9月1日まで展示されている。
 無差別な爆撃で都市が破壊された情景は、現在のウクライナガザ地区からの映像と重なる。病院や学校も被害に遭い、戦闘とは関係ない子どもたちも傷つき、亡くなっているのが現状だ。国際社会がその理不尽を止められないまま、犠牲者が増えていく。
 きょうは日本の「終戦の日」。第2次世界大戦の終わりが告げられた時でもある。世界は国連を立ち上げて国際秩序の再構築を図ったものの機能は低下。戦後79年を経ても戦禍を繰り返す事態に誰しもむなしさを覚えるだろう。
 無謀な戦争に突入した軍国主義を反省して戦後、平和国家として歩んだ日本。国内に賛否がありながらも、米国が日本の防衛義務を負う「日米安全保障条約」を基軸とし、防衛費を国内総生産(GDP)比1%以内を目安に抑える「軽武装・経済重視」の路線を続け、平和を維持し経済発展も遂げたと言えよう。
 しかし近年、世界の秩序は大きく変容し、日本も影響は免れ得ない。今年の防衛白書は、権威主義国などが力による現状変更の動きを強めていることを念頭に「国際社会は戦後最大の試練のときを迎え、新たな危機の時代に突入」との現状認識を示した。
 具体的には中国の軍事活動の活発化、北朝鮮の核・ミサイル能力の向上、ロシアと中国両軍による日本への示威行動などを懸念。ウクライナ侵攻と同様の事態が「東アジアで発生する可能性は排除されない」と危機感を表した。
 多くの人が人生を狂わされ塗炭の苦しみを受ける戦争は絶対に避けねばならない。安保環境の悪化を受けて日本での論点は、「日本が戦争を仕掛けなければ平和が保たれる」といった議論だけでは十分でなく、「他国の攻撃をどう防ぐか」に重点が移ってきた面があろう。
 政府は、反撃を恐れて相手が日本を攻撃するのを思いとどまらせる「抑止力」を高めることに力を入れ、防衛費の大幅増、反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有など新たな段階に踏み出した。先に日米両政府は、米国が核を含む戦力で日本防衛に関わる「拡大抑止」の強化でも合意した。
 平和のために軍備を増強することに矛盾を感じたり、さらなる軍拡競争を招くのではと懸念したりする人も多かろう。国民の不安をどう拭い去るのか、分かりやすく丁寧な説明が求められる。
 一方で、外交努力を尽くさねばならないのは当然である。自由主義陣営と権威主義の国々の分断が深まる中で、日本はこれまで培ってきた平和外交を基に、アジアの新興国などに働きかけて国際秩序の立て直しに貢献したい。

杉本苑子さんが見た五輪(2024年8月15日『山陽新聞』-「滴一滴」)
 
 数々の名勝負と華やいだ余韻を残し、パリ五輪が終わった。街には色とりどりの国旗が揺れ、一方で、祖国を離れた難民選手から初のメダリストが生まれた
▼政治からの独立をうたう「平和の祭典」も競技場の外と切り離された理想郷であることは難しい。ロシアとベラルーシの不在や、イスラエル選手への度重なるブーイングの向こうには、つい忘れそうな現実世界の争いがある
▼「きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれが恐ろしい」。昭和の東京五輪の開会式を観客席で見た作家の故杉本苑子さんが書いている
▼たった20年前、同じ場所で出陣学徒を見送った。五輪開会式で天皇、皇后両陛下が臨席された辺りに当時の東条英機首相が立ち、敵を撃滅せよと激励していた。今後どうなるかなんて誰にも分からない―と
▼ちなみに今から20年前はロシアで独立派によるテロが相次ぎ、プーチン大統領が中央集権を強めた年だ。米国との戦争で混迷するイラク自衛隊が派遣された年である。振り返れば現在地まで延びる道が見えるだろう
▼きょうをきょうの美しさのまま、なんとしてもあすへつなげなければならない。杉本さんはそう結んだ。かの五輪から60年、終戦から79年。傷のある、でも美しい「きょう」を、未来へ手渡すのは私たちだ。

アンパンマンの精神 8月15日 終戦の日(2024年8月15日『山陰中央新報』-「明窓」)
 
キャプチャ
終戦の日の様子を描いた、やなせたかしさんの絵
 戦時中の日本で広まった標語「欲しがりません勝つまでは」は、戦争の長期化で食料が不足する中、倹約の精神を国民に植え付けた。それが求められたのは戦地の兵士も同じ。中国に出兵した漫画家のやなせたかしさん(1919~2013年)は「戦争はとにかく腹が減る。人間一番つらいのはおなかが減っていることなんだ」と振り返っていた。
 終戦が伝わり「勝つまでは」のたがが外れた兵士たちは「欲しい」ままに極端な行動を取った。敵軍に奪われないよう、ためていた食料に全員が群がったのだ。79年前のきょうのこと。
 やなせさんはその時の様子を一枚の絵に書き残していた。上海近くの農村でアヒルの群れがにぎやかに泳ぐ横で兵士7人が走る姿。満腹なのに残りを食べ尽くすため、おなかを減らそうと走ったのだ。戦争の愚かさに対する風刺画にも見える。
 こうした体験がやなせさんの作品の根底にある。代表作『アンパンマン』の主人公は、あんパンでできた自分の顔を食べさせる。敵を倒すのではなく、分け与えることで飢えをなくす唯一無二のヒーロー。まるで平和の象徴のようだ。
 やなせさんは戦地で飢えに苦しんだのに加え、2歳下の弟を戦争で亡くした。だからだろう。自著『やなせたかし 明日をひらく言葉』にこう記した。「この社会で一番憎悪すべきものは戦争だ。絶対にしてはいけない」。終戦記念日に肝に銘じたい。(健)

終戦の日】再び手遅れになる前に(2024年8月15日『高知新聞』-「社説」)
 
 童謡「ぞうさん」などで知られる詩人の故まど・みちおさんは、1992年出版の「全詩集」に長いおわび文を載せている。
 第2次大戦中に「戦争協力詩」を書いたという理由だ。本人は書いた記憶がなかったが、出版前年になって当の作品を見て、大きなショックを受けたという。
 「天皇陛下 をいただいた 光栄の日本人よ 君らの祖先がしてきたように 今こそ君らも 君らの敵にむかえ 石にかじりついても その敵をうちたおせ」(作品「はるかな こだま」
 勝つまで引くなと鼓舞する内容だが、本人の記憶にも残らなかったほど、命を投げ捨てることが当然の時代だった。
 しかし現実は重い。日本の敗戦で終わった戦争は邦人だけで310万人もが犠牲になった。まどさんは「懺悔(ざんげ)も謝罪も何もかも、あまりにも手遅れです」と記した。
 きょうで敗戦から79年になる。戦没者の冥福を祈り、過去の教訓と平和実現の誓いを改めて胸に刻む日としたい。
 特殊な環境下だったとはいえ、戦時中は多くの文人が戦争をあおった。本紙を含む新聞も同様である。でたらめの大本営発表を流し、世論を鼓舞し、誤った方向に導いた。
 戦後はその深い反省に立ち、反戦平和を掲げて再出発した。その姿勢は79年たっても変わらない。
 世界はいま、きなくささが増している。ロシアのウクライナ侵攻は間もなく2年半になる。この1年の間に新たな悲劇も生まれた。中東ガザでのイスラエルイスラム組織ハマスの戦闘である。
 いずれも終わりが見えないまま、子どもを含む多くの民間人が犠牲になり続けている。国連をはじめ国際社会が戦闘の拡大を食い止められなかったことも悔やまれる。一刻も早い停戦と撤退が求められる。
 ガザの戦闘の余波は日本にも及んだ。長崎市で今月9日に行われた「原爆の日」の平和祈念式典。市がイスラエルを招待しなかったところ、日本を除く先進7カ国(G7)と欧州連合(EU)の駐日大使がそろって欠席した。
 同じく招待しないロシアとイスラエルが同列に扱われるのに反発した。原爆被害者を慰霊し、核なき世界実現を誓う式典だ。核保有国、特に原爆投下国である米国大使の欠席は残念でならない。
 一方で日本は、防衛費倍増や反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有などを目指している。東アジアの安全保障環境が厳しくなっているのは事実だが、軍拡競争に歯止めがかからなくなる恐れがある。
 いまの日本や世界が進む方向は、戦没者に誓ってきた平和の姿とかけ離れていないか。世の中の空気はゆがんできていないだろうか。しっかりと見極める必要がある。再び手遅れになる前に。
 平和の道をもっと深く追求していかなければならない。メディアの役割、姿勢も問われる。

戦没オリンピアン(2024年8月15日『高知新聞』-「小社会」)
 
 92年ぶりと何度も書く夏になった。パリ五輪レスリング競技で金メダルを手にした県勢2選手の快挙。1932(昭和7)年のロサンゼルス五輪で水泳1500メートル自由形を制した北村久寿雄さん以来の偉業になった。
 92年前といえば、戦争に向かう時代だった。大戦末期。日米の壮絶な戦闘になった硫黄島では有名な馬術の西竹一さんともう一人、ロスのオリンピアンが戦死している。北村さんと同じ水泳の男子100メートル自由形で「銀」に輝いた河石達吾さん。
 梯久美子さん著「硫黄島 栗林中将の最期」に記述がある。五輪の数年後から中国戦線へ。除隊になった後、再召集された。ロス五輪の同僚には「アメリカは大きな国だ。おそらく日本に勝ち目はないだろう」。親族には「今度は生きて帰れないだろう」と漏らした。
 妻に送った硫黄島からの手紙には、生誕まもない息子を〈3歳になったらきっと泳がせよう〉という一節があった。だが、凄惨(せいさん)な戦いになり、最期の状況さえ分からないという。
 パリ五輪は平和の祭典という理念の一方、世界の分断が影を落とした。期間中もウクライナや中東の戦火は続いた。岸田首相が退陣を表明した日本はどうだろう。防衛費大幅増や反撃能力(敵基地攻撃能力)の保有にかじを切り、人々に「新しい戦前」といわせた任期に思いは至る。
 きょうは終戦の日。またロスで五輪を開く4年後の世界は、理念に近づけているだろうか。

終戦の日 分断深まる今だからこそ(2024年8月15日『熊本日日新聞』-「社説」)
 
 空から舞い降りた紙片には、米国とソ連の兵士が軍靴で日本列島を踏みつけ、握手する絵が描かれていた。「ぬくい(暑い)時季だったのに、雪が降ってきたと思った」。1945年、この紙片を天草市で拾った80代の男性2人が先月の本紙に当時の様子を語っている。紙片は太平洋戦争末期、米軍が日本の戦意をくじくため上空からまいた「伝単[でんたん]」と呼ばれるビラだった。幼かったため内容は分からなかったが、周囲の大人たちは「ソ連アメリカと手を組んだ。日本は負けるばい」と口々に話したという。
「戦後生まれ」9割
 戦争を体験し、当時の空気を知るこうした証言は貴重になるばかりだ。きょうは終戦の日。多大な犠牲を払い、ようやく終わった戦争から79年がたつ。長い歳月である。今や戦後生まれは、およそ9割に達する。戦争は遠い昔のことで、自分とは関係ない。そう思っている人も多いかもしれない。
 当時の日本は「必敗」とされた戦争に突き進んでいった。記憶を風化させ、過去から目をそらしたままで、同じ過ちを繰り返さないと断言できるだろうか。真摯[しんし]に歴史に向き合い、今、そして未来を考える日にしたい。
 くまもと戦争遺跡・文化遺産ネットワーク代表の髙谷和生さんによると、日本には約2千種類、約7千万枚の伝単が投下された。熊本県内では天草市熊本市で計5種類が確認されている。
正しい戦争と決別
 天草市立本渡歴史民俗資料館で開催中の企画展「紙の爆弾・伝単と天草の軍人像」には、約20種類の伝単が展示されている。これらも物言わぬ戦争の“証言者”だろう。「空襲予告」と記された1枚には「この都市が米空軍の次の攻撃目標です」とあった。
 日本への空襲が始まったのは44年11月。当初は大都市が狙われ、45年3月の東京大空襲からわずか10日で名古屋、大阪、神戸が爆撃された。その後、60を超える地方の中小都市が相次いで焼夷[しょうい]弾爆撃を受ける。熊本市にも壊滅的な被害がもたらされた。同年7月1日の熊本大空襲である。
 昔話と片付けるのは簡単だが、そうだろうか。世界に目を向ければロシアによる侵攻を受けているウクライナイスラエルからの攻撃にさらされているパレスチナ自治区ガザ地区では、空爆におびえる日々が今も続いている。子どもたちが通う学校や病院までが標的となった。身を守るすべを持たない民間人や非戦闘員のはずの幼い子どもまで犠牲となる状況は、かつて焼け野原となった日本とも重なって見える。
 米国を代表する歴史家ジョン・W・ダワー氏の『戦争の文化』(岩波書店)によると、非戦闘員という概念が消滅したのは42年の英国によるドイツ空爆だったという。その後、人口密集地に対する空爆の手法は磨き上げられ、米国が45年に日本を対象に完成させたとする。それは、それまで国際連盟や米国が唱えていた「正しい戦争」からの決別を意味した。
 ダワー氏は「非戦闘員の大量殺害は、敵のインフラを標的にするだけでなく、総力戦の時代における心理戦に不可欠という理由で正当化された」と記す。それは地上で逃げ惑う市民らにとって「無差別テロ爆撃」とかわりなく、そうした思考の延長線にヒロシマナガサキがあると指摘する。
 もちろん国家による戦争とテロリストによる攻撃は違う。しかし、自らの目的のためには罪のない市民を巻き込むことも正当化する思考は共通しており、世界で幅を利かせている。
安保理の機能不全
 先の大戦後、世界は戦争を防げなかった反省から国際連合を中心とする国際秩序をつくった。国連憲章で他国への武力行使を禁じ、安全保障理事会に世界の平和を保つ責任を持たせた。ところが、その常任理事国のロシアがウクライナに侵攻。2年半になろうとしているが、停戦協議の糸口さえ見えない状況である。米国も、ガザ地区攻撃で4万人近い犠牲者を出したイスラエルを拒否権を使って擁護し、国連安保理を機能不全に陥らせている。大いに憂慮すべき事態だ。
 自らに都合の良い思考、異論や批判の排除、過度なナショナリズム、敵の動機や能力の過小評価、文化や人種への偏見-。こうした要因が絡み合い、戦争は起きる。始まってしまった武力衝突を終わらせるのは難しい。世界では、きょうも戦火が命を脅かしている。歴史に学び、多くの難題が行く手を阻む「今」を考え、分断が深まる現実を乗り越えるための力としたい。その積み重ねが平和な世界を築く礎となるはずだ。

世界の声(2024年8月15日『佐賀新聞』-「有明抄」)
 
 1945年8月15日正午、玉音放送が流れ、天皇が戦争終結を国民に告げた。音声や映像で知る「堪ヘ難キヲ堪ヘ…」、こうべを垂れる人々。それから3カ月後に発売されたラジオの新聞広告。売り出し文句は「世界の聲(こえ)を聽(き)け」である
◆〈天気予報さえ禁止されていた暗い時代からの解放の喜びと、ある種の気負いが溢(あふ)れている〉。『キャッチフレーズの戦後史』(深川英雄著)にそう書く。太平洋戦争開戦後、予報は軍の機密事項として日常から消えていた。〈これからは「大本営発表」以外の「世界の声」を自由に聞ける〉
キャプチャ
◆8月15日、佐賀新聞は表裏2ページ。記事には既に「ポツダム宣言御受諾」があり、交渉の経緯や「終戦詔書」全文が載っている。配達されたのは午後。玉音放送が終わるまで待つ情報統制に従った
◆紙面では「機械化部隊を猛爆」「空母巡艦〓(ほふ)る」など戦果もまだ伝える。編集、制作に携わった先輩諸氏はその日をどう迎えたのか。ラジオに耳を傾けたのか。社史などで一端に触れることはできるが、もう直接聞く機会はない
◆戦後生まれが人口の9割になり、体験し、記憶する世代の高齢化は進む。戦没者の慰霊と平和への誓いを新たにするきょう。学び、継承し、事実を伝えていく。その「自由」を理解、体得しているか。今なお同じ問いを突きつけられている。(松)

土中の人(2024年8月15日『琉球新報』-「金口木舌」)
 
 国家による過ちを償う機関でもあろう。その取り組みは見習いたい。米国の国防総省には遺骨収容の専門機関「捕虜・行方不明者調査局」(DPAA)がある
▼戦地に派遣され、行方が分からない兵士を追跡調査し遺骨も収容する。去る大戦、朝鮮戦争ベトナム戦争…。外交がいかに厳しくてもこの任務は続き、2018年には北朝鮮から遺骨などが返還された。身元判明の事例もある
▼沖縄では228人の米兵が未収容という。遺骨収集を続ける具志堅隆松さんは、日本の身元特定事業への参加を米国の遺族に求める。「米兵の犠牲者を探すため米国が入ってくれば、韓国、台湾の犠牲者も故郷へ返す動きに発展するかもしれない」という呼びかけに、米国はどうこたえるか
▼名護市辺野古の新基地は大浦湾側の工事が今月20日にも始まろうとしている。沖縄戦の激戦地で米兵の遺骨も混じるかもしれぬ「南部の土砂」を使わないか。具志堅さんは懸念する
▼異郷の地で絶えた命に目をつむるようなことはないと米政府には期待したい。きょうは終戦記念日。米兵も含め戦争が終わったことも知らぬまま、土中に眠る人がいる。

終戦の日を前に 記憶を育て戦争に抗う(2024年8月14日『東京新聞』-「社説」
 
 空襲で焼けた街に立つ少女は、イタリアの世界的文学者、ダーチャ・マライーニさん(87)の遠い日の姿=写真。第2次世界大戦が終わった1945年夏、人類学者で写真家の父フォスコさんが名古屋で撮影した貴重な一枚です。
 戦時中、日本で暮らしていたマライーニ一家には終戦までの約2年間、愛知県の外国人強制収容所に収監された経験があります。同盟国だったイタリア人家族がなぜ収容所に入れられたのか。
 一家は38年、アイヌを研究するフォスコさんの北海道帝国大(現北大)留学に伴い来日しました。ダーチャさんは当時2歳。札幌から京都に移った41年に日米が開戦し、日本やドイツと三国同盟を結ぶイタリアが連合国に降伏した43年、一家の生活は急転します。
◆敵国人として強制収容
 失脚したムソリーニがナチス・ドイツの支援を受けて北イタリアにファシズム(独裁主義)の政権を樹立。海外のイタリア人も新政権への忠誠を迫られ、自由や人権を尊ぶフォスコさんと母トパーツィアさんは拒んだため、7歳に近かったダーチャさん、日本生まれの妹2人までもが敵国人として名古屋の収容所に送られたのです。
 そこは不衛生で、飢えと死の恐怖に苦しむまさに「牢獄(ろうごく)」。冬は室内でも氷点下でした。16人の民間イタリア人がいましたが、官憲に食料を横取りされ、皆、過酷な飢えで栄養失調になりました。
 フォスコさんは官憲が捨てた野菜の皮や魚の骨などをあさり、食べ盛りのダーチャさんは石を食べ物に見立てて色を着け、口に含んだと作品に残しています。
 名古屋に空襲があった日、ダーチャさんはB29爆撃機と燃える街を見て「ドウシテ、パパチャン、ドウシテ」と言って泣いたそうです。空襲が激しくなり疎開した農村の寺で終戦を迎えました。
 ダーチャさんは62年に「バカンス」でデビュー。反ファシズムフェミニズムに立脚し、「牢獄からの解放」をテーマに小説や詩、戯曲を発表してきました。国家の暴力や性暴力、抑圧された女性や子どもの声なき声を描く原点にあるのは、収容所の体験です。
 ダーチャさんは戦後、何度も来日しています。今年6月には「宮沢・レーン事件」の犠牲者で、北海道帝大の学生、宮沢弘幸さんの名誉回復を求める市民の招きで来日しました。
 フォスコさんと親しかった宮沢さんは日米開戦の日、米国人の教員夫妻と話したことが軍機保護法違反とされ投獄。戦後釈放されましたがほどなく亡くなりました。宮沢さんの死は、ダーチャさんにとっても消えない痛みです。
 全国に延べ約60カ所あった外国人収容所のうち、反ファシズムの人々が集められた一家の収容所では幸い全員が生きて解放されました。自由を取り戻した人々はどんなに喜びに浸ったことでしょう。
 ダーチャさん自身は「残忍な官憲はいたが、収容所の外の人は私たちの味方だった。官憲の拷問に屈せず、日本人の乳母は食料を届けようとしてくれたし、寺や村の人は親切だった。だから日本への愛は消えなかった」と語ります。
 しかし、日本政府は強制収容した外国人被害者に謝罪していません。宮沢さんにも治安維持法の被害者にも、空襲被害者に対しても同様です。戦後日本は民間人の戦争被害を放置してきたのです。
◆痛みを顧みない権力者
 ダーチャさんは昨年、「Vita mia(私の人生)」を刊行しました。邦訳は今秋に出ます。
 ウクライナパレスチナで起きた新たな戦争の犠牲を避けたい一心で、思い出すのが辛(つら)かった収容所の体験を自伝の形で綴(つづ)ったのです。どんなに痛ましくても忘れられない、後の自分を形成したあの時代を抱きしめるようにして…。
 こんな一文があります。
 「収容所の恐ろしい体験は心の隅に追いやっておけと本能的に身を守ろうとする声が聞こえます。でもその一方で、別の声がそっと責め立てるのです。語って、思い出して、証言してと」(私訳)
 体験者の証言は想像力をかき立て、戦争反対のどんな理論や考察にも勝ると考える作家による、自らを励ますような言葉です。
 そして「良心に基づく記憶を育てることが、現代の戦争に抗(あらが)う唯一の手段です」とも。
 権力者は犠牲を強いられる側の痛みを顧みません。新たな戦争犠牲者を生まないために、体験者の声に触れ、記憶を受け継ぎ、犠牲を強いられる側の視点や想像力を養うことが必要です。それは今を生きる私たちの責任なのです。