終戦から79年を迎えた15日、およそ310万人の戦没者を慰霊する政府主催の全国戦没者追悼式が都内で行われました。
岸田首相「国際秩序の維持・強化を進め 課題の解決を」
岸田総理大臣は式辞で戦争の惨禍を二度と繰り返さないという誓いを継承し、法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序の維持・強化を進め、世界が直面する課題の解決に取り組む必要があるという認識を示しました。
この中で岸田総理大臣は「今日のわが国の平和と繁栄は戦没者の尊い命と苦難の歴史の上に築かれたものであることを私たちは片ときたりとも忘れない。改めて衷心より敬意と感謝の念をささげる」と述べました。
その上で「戦後、わが国は一貫して平和国家として歩みを進め、歴史の教訓を深く胸に刻み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてきた。戦争の惨禍を二度と繰り返さない。戦後79年がたつが、この決然たる誓いを世代を超えて継承し、貫いていく」と述べました。そして「いまだ悲惨な争いが絶えることのない世界にあって、わが国は法の支配に基づく自由で開かれた国際秩序の維持・強化を進め、『人間の尊厳』を中心に据えながら、世界が直面するさまざまな課題の解決に全力で取り組み、国の未来を切りひらいていく」と強調しました。
そして正午になると参列者全員で1分間の黙とうをささげました。
このあと天皇陛下が「戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和とわが国の一層の発展を祈ります」とおことばを述べられました。
天皇陛下のおことば 全文
本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり、全国戦没者追悼式に臨み、さきの大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人々とその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来79年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります。
これからも、私たち皆で心を合わせ、将来にわたって平和と人々の幸せを希求し続けていくことを心から願います。
ここに、戦後の長きにわたる平和な歳月に思いを致しつつ、過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い、戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し、全国民と共に、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。
父が戦病死の遺族「戦争の悲惨さ 平和の大切さ 今こそ語り継ぐ」
最年長97歳の遺族「平和の実現に力を」
最年長の参列者として追悼式に出席した北海道に住む97歳の長屋昭次さんは、戦争で8歳年上の兄の保さんを亡くしました。保さんは昭和20年に肺結核のため出征先の中国・天津で戦病死しました。
長屋さんは「兄は体が弱く、これほど体の細い兄が兵隊として行かなければならないことを知った時には子ども心にかわいそうだなと思いました。
兄は私たち兄弟の面倒をよく見てくれていたので感謝の気持ちは今も忘れません。
ことしで97歳になり、歩くのもやっとのような状態ですが、兄や戦争で亡くなった先輩たちを慰霊することが生き残った私の使命だと思い、生きている限り、何とか追悼式には参加したいと思います」と話していました。
また、いまも世界で争いが続いている現状について「私は空襲を受けたときの爆音など、あの怖さを忘れることができません。ただ、いまは戦争の怖さを知らない人たちが多いです。戦争は絶対にやってはいけないし、世の中が落ち着いてほしいと思っています。来年は戦後80年ですが、政治家には戦争の方には決して向かわず、平和の実現に力を入れてほしい」と話していました。
追悼式には若い世代も参列
追悼式には戦争の体験を直接知らない18歳未満の若い世代も遺族として参列しています。
堤さんは「ひいおじいさんはシベリアの寒いところで働かされて病気になり、朝鮮半島に連れていかれ、栄養失調で亡くなったと聞きました。苦しかったと思うので、きょうはここで、戦争で亡くなった人の気持ちを考えたい」と話していました。
上皇ご夫妻と愛子さま 御所で黙とう
岸田首相 千鳥ヶ淵戦没者墓苑で献花
各地で平和を願う集い
東京都
文京区で開かれた東京都の戦没者追悼式には、遺族などおよそ400人が参列しました。
この中で、小池知事は「戦争の惨禍を二度と繰り返してはならず、平和を持続可能なものとして未来の子どもたちに引き継いでいくことを誓う」と述べました。
そして、正午の時報に合わせて参列者全員で黙とうしました。
このあと遺族を代表して、フィリピンのレイテ島で父親を亡くした中村正弘さん(80)が「海外ではイスラエルとパレスチナの紛争などで多くの市民が犠牲になり私たちのような遺族が生まれていて、他人事ではなく、自分たちの身近なところで戦争が起きている。戦争の記憶を決して風化させないよう語り続けていく」と平和への思いを述べました。
そして、参列者たちが会場に設けられた献花台に花を手向けていました。
式典のあと、ひいおじいさんを亡くした鶴羽大悟さん(11)は「戦争を知っている人たちがいなくなって、戦争はいけないという意識が薄れるとまた起こってしまうのではないか。戦争は悲しいことだというのを、これからも伝えていかなければいけない」と話していました。
79年前の東京大空襲を経験した人の証言会が東京・江東区で開かれ、戦争の悲惨さや平和の大切さを訴える声に、参加した親子らが耳を傾けました。
江東区にある「東京大空襲・戦災資料センター」は、毎年、終戦の日に証言会を開いていて、ことしは夏休み中の親子などおよそ50人が参加しました。
15日、証言したのは、7歳の時に当時の深川区、現在の江東区で東京大空襲にあった上原淳子さん(86)で、昭和20年3月10日未明、自宅周辺が火の海となる中、母親やきょうだいとともに地面をはうようにして逃げた経験を語りました。
そして「少し周りが明るくなってあたりを見ましたら、真っ黒に焼けた遺体がそこら中に転がっていました。亡くなる寸前の女性のそばに子どもが寄り添っていた姿は、いま思い出すだけでぞっとするくらい悲しくなります」と話しました。
そのうえで「ウクライナや中東など世界で起きている戦争に毎日、心を痛めています。どうして人間は戦争をするのか。日本は戦後、平和を守ってきましたが、戦時中は食べ物も言論の自由もなく、本当に厳しく苦しい時代でした。二度と戦争だけはやめてほしい」と訴えました。
15日の証言を聞いた小学3年の児童は「自分だったらと思うと、本当に怖く感じました。もっと戦争のことを知って友達にも伝えられたらと思います」と話していました。
広島市
広島市の平和公園にある「平和の鐘」には、世界が一つになってほしいという願いを込めて、国境のない世界地図が刻まれています。
広島ユネスコ協会は、毎年、終戦の日にこの鐘を鳴らして平和への思いを新たにしようと集いを開いていて、15日は、被爆者や地元の高校生などおよそ80人が参加しました。
はじめに、3人の高校生が日本語や英語で平和への願いを込めてスピーチし、このうち、高校2年生の甲斐なつきさんは「私たちは被爆者の声を聞ける最後の世代です。原爆の惨禍を未来につなぎ、戦争で傷つけられる人がいない世界がやってくるまで平和のために行動し続けます」と話しました。
参加者は黙とうをささげた後、戦争や核兵器のない世界を願って順番に「平和の鐘」を鳴らしていました。
原爆資料館の元館長で、母親の胎内で被爆した畑口實さん(78)は「世界で核の脅威が高まる中、広島、長崎と同じことが2度と起こらないようにという思いを込めて、平和の鐘を鳴らしました」と話していました。
長崎市
「不戦の集い」は、長崎の被爆者団体などが毎年、太平洋戦争が開戦した12月8日と、終戦の日の8月15日に開いています。
終戦の日の15日は、長崎市の爆心地公園の近くにある核兵器廃絶と不戦を誓う碑の前に、被爆者や地元の高校生など、およそ30人が集まりました。
はじめに参加者は、すべての戦争の犠牲者に哀悼の意を表して黙とうを行ったあと、1人1人が献花して犠牲者を悼みました。
そして、市内にある活水高校で平和活動に取り組む女子生徒3人が「不戦の誓い」を読み上げました。
3人は「戦争や原爆の悲惨さを被爆者が直接言葉で伝えることができた時代は終わろうとしています。被爆者の尊い命を絶対に無駄にせず、私たちが次の世代にバトンをつなげていくことを誓います」と宣言しました。
集いに参加した被爆者の山川剛さん(87)は「一刻も早く核実験をすることがなくなる世の中をつくることが無念の死を遂げた人への最大の供養だと思います。『戦争だけはしてはならない』という亡くなった人たちの言葉を、この日が来るたびに胸に刻みたい」と話していました。
佐賀市
佐賀市の願正寺では、毎年、終戦の日の8月15日に戦争による犠牲者の追悼と平和への願いを込めて、境内にある鐘をついています。
ことしは、県内のボーイスカウトやガールスカウトで活動する小学生から高校生までのおよそ40人が参加しました。
最初に、願正寺の前の住職で93歳の熊谷勝さんが中学生の頃を振り返り「『鬼畜米英』と教えられて敵の兵士に見立てた丸太を銃剣で刺す訓練をした。しかし、戦後、佐賀に進駐したアメリカの人たちは私たちと変わることはなく、親しく交流できた。互いを憎むことなく二度と戦争を起こさないという願いを込めて鐘をついてほしい」と訴えました。
このあと参加した人たちは、江戸時代に建てられたという高さ6メートルほどの鐘楼にのぼり、平和を願って鐘をつきました。
小学3年の男子児童は「ウクライナをはじめ、世界各地で続いている戦争が早く終わるようにという願いを込めて鐘をつきました」と話していました。
高校3年の女子生徒は「戦時中の体験談を聞いていまの平和の大切さを改めて感じることができました。意見や考えが違っても相手を理解するように努め、身近なところから争いをなくす努力をしていきたいと思います」と話していました。
岡山市
岡山市の寺では、訪れた人たちが境内の鐘を鳴らし平和について考える催しが開かれました。
この催しは、岡山ユネスコ協会が毎年、終戦の日にあわせて岡山市北区の長泉寺で開いていて、ことしは中学生や高校生、地元の人などおよそ50人が集まりました。
はじめに参加者たちは、ノーベル平和賞の受賞者たちが起草した人権の尊重や思いやりの大切さを訴える「わたしの平和宣言」を声をそろえて読み上げました。
そして、一人一人、順番に境内の鐘を鳴らし、平和を祈っていました。
この後、平和への思いを語る座談会が行われ、参加した人たちは「戦争は悲しむ人がたくさん出るのでしてはいけない」とか「戦争の悲惨さを伝えていくことが大事だ」などと話していました。
参加した岡山市の高校2年の女子生徒は「今もウクライナやガザ地区などで争いが続いていますが、あらゆる立場の人の話を聞いてどうしたら平和が実現できるか考えていきたい」と話していました。
また、岡山市の60代の男性は「日本が戦争をせずに79年がたちましたが、これを続けていかないといけない」と話していました。
三重 名張市
三重県名張市では、日本の戦没者とともに太平洋戦争の末期、この地に墜落して命を落としたアメリカ軍の爆撃機の搭乗員たちを追悼しました。
名張市では昭和20年6月5日、旧日本軍の攻撃を受けてアメリカ軍のB29爆撃機が山の中に墜落し、搭乗員11人が命を落としました。
現場の近くにある寺院では亡くなった搭乗員の供養を続けていて、終戦の日の15日開かれた追悼の集いには、地元の人などおよそ60人が集まりました。
参加した人たちは、爆撃機が墜落した山を訪れ、建立された搭乗員の追悼碑に静かに花を手向けました。
このあと寺に移動し、平和への願いを込めて白い鳩を空に放つと、終戦から79年に合わせ、鐘を79回鳴らして犠牲者をしのびました。
参加した94歳の男性は「働いていた場所は攻撃を受け、同僚が亡くなりました。自分が体験したことをこれからも伝えていきたい」と話していました。
集いが開かれた寺院の耕野一仁住職は「平和の大切さを改めて認識してもらえたと思います。来ていただいた方は、この地で起きたことやきょうの思いを自分だけにとどめず、子どもや孫にも伝えてほしい」と話していました。
岐阜 郡上市
岐阜県郡上市の寺では、平和を祈って参拝者などが合わせて1000回鐘をつく行事が行われています。
これは戦争の記憶を伝えていこうと、37年前から毎年8月15日の終戦の日に郡上市白鳥町の正法寺で行われています。
15日は午前5時から鐘つきが始まり、戦争で父親を亡くした人や帰省で戻ってきている家族連れなどが1分ごとに鐘をついて静かに手を合わせていました。
子どもと訪れた岐阜県の40代の女性は「今も世界ではパレスチナのガザ地区などで子どもが犠牲になっていることを知って心が痛くなります。絶対に子どもを戦争に行かせたくないし、犠牲にもさせたくないので、平和を祈ろうと思って来ました」と話していました。
正法寺の西澤英達住職(77)は「これから戦争を知らない世代が圧倒的に多くなっていくので、戦争の過ちを繰り返さないよう記憶を語りついでいくきっかけになれるよう今後も続けていきたいです」と話していました。
鐘つきは15日午後10時ごろまで続けられます。
埼玉 熊谷市
埼玉県熊谷市は、昭和20年8月14日の夜からアメリカ軍のB29爆撃機による空襲で266人が亡くなり、市街地の3分の2が焼け野原となりました。
火の手を逃れようと多くの人が飛び込んだとされる市の中心部を流れる「星川」のほとりには、慰霊の女神像が設けられていて、15日は午前中から訪れた市民が手を合わせ、犠牲者を悼んでいました。
熊谷空襲で祖父が犠牲になった50代の男性は「父からは、焼夷弾が飛び交う中、逃げまどったことを、祖母からは祖父を亡くして戦後とても苦労したことを聞いて育ったので、毎年必ず手を合わせに来ます。ここに来ると、戦争を繰り返してはいけないと改めて実感します」と話していました。
一方、反戦への願いを込めた「平和の鐘」が設置されている市内の中央公園では、15日正午、市の職員が1分間この鐘を打ち鳴らし、集まった40人ほどが黙とうをしました。
親子三世代で訪れていた30代の女性は「海外に目を向けると戦争が決してひと事ではないと感じます。私も母に連れられてこの場に足を運ぶようになったので、子どもたちにも平和への願いを忘れずに育ってほしいです」と話していました。
北海道 大空町
海外でも戦没者を追悼
太平洋戦争の激戦地のひとつ、フィリピンでは、日本とフィリピンの合わせておよそ150万人の戦没者に祈りがささげられました。
フィリピンの首都マニラ郊外では、終戦から79年を迎えた15日、慰霊祭が行われ、現地に暮らす日本人など200人余りが参列しました。
参列者は慰霊碑を前に全員で黙とうしたあと、献花台に菊の花を手向け、日本とフィリピンの合わせておよそ150万人の戦没者に祈りをささげました。
太平洋戦争末期、旧日本軍はフィリピンを本土防衛の最前線と位置づけ、各地で住民を巻き込んだ激しい地上戦をアメリカ軍との間で繰り広げました。
この戦いで100万人に上るフィリピンの人たちが犠牲になったほか、日本の兵士などおよそ50万人が戦死しました。
日本人の祖父をフィリピンの戦闘で亡くした日系人の女性は「亡くなった先人の方々にその時、何が起こったのかを想像するだけで涙が流れます。戦争を忘れないことが大事です」と話しました。
慰霊祭を主催したフィリピンに駐在する遠藤和也大使は「苦悩や痛みに思いを致し、すべての戦没者の方々に追悼の意を表しました。日本とフィリピンの関係をより一層堅固にしていくべく、さらなる努力をしたい」と話しました。
靖国神社参拝めぐり さまざまな立場の団体が集会
東京・千代田区の靖国神社では、総理大臣や閣僚による靖国神社参拝を求める団体が集会を開きました。
主催者の発表でおよそ140人が出席し、戦争で犠牲になった人たちに黙とうをささげました。
海上自衛隊トップの海上幕僚長を務めた「英霊にこたえる会」の古庄幸一会長は「きょうは何の日かということすらまったく意識のない若い人たちがたくさんいる。英霊の皆様が日本のために殉じたが、総理がなぜお参りしないのか、皆さんと一緒に考えていきたい」と述べました。
東京・千代田区の千鳥ヶ淵戦没者墓苑では、総理大臣や閣僚による靖国神社参拝に反対する立場の団体が集会を開き、主催者の発表でおよそ150人が参加し、黙とうをささげました。
集会を主催した「フォーラム平和・人権・環境」の染裕之共同代表は「あの壮絶な大戦を単に歴史的事実としての理解にとどめるのではなく、2度と繰り返してはならないということを世代を超えて語り継ぐことが私たちに課せられた責務だ」と述べました。
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