人口約94万人なのにずいぶん「らしく」ない…東急の“ナゾの大票田の駅”「世田谷」には何がある?
いよいよ東京都知事選である。まあ、いよいよ、などと振りかぶったところで、その辺の詳しい話は専門の筋にお任せするほかない。いずれにしても、1400万人が暮らす世界的な大都市・東京の次の4年間のリーダーが、まもなく決まるのである。
となると、やはりカギを握るのは人口の多い大票田ということになるのだろう。つまり、たくさんの人が暮らしている地域が、都知事選の趨勢を決める。それはいったいどこなのか。
そう思って調べてみると、これがまたさすがの東京、どこもかしこも人口がめちゃくちゃ多い。「都市部での票が結果を左右する」などという話は選挙報道ではおなじみだが、東京の場合はどこもかしこもとてつもない人口を抱えているので、一概にどこがどうということは言えなさそうだ。
が、そんな中でも圧倒的にいちばんの人口を抱えているのが、世田谷区である。世田谷区の人口は約94万人。2位の練馬区が約75万人だから、その差は約20万人。もうまったく文句ナシのナンバーワンである。
それどころか、世田谷区は全国の市区町村を人口順に並べてみても13位に入る。世田谷区は、そんじょそこらの政令市をも軽く凌駕する、それくらいの巨大な都市なのだ。
そんなマンモス都市・世田谷とは、どのような町なのだろうか。
じつは「JRがない町」世田谷
世田谷区といったら、とにもかくにも住宅地、といったイメージがある。中には砧公園や駒沢公園といった名の知れた緑地もあるが、大部分は住宅地だ。
主に国道246号、玉川通り沿いを中心に、ひたすら延々と住宅地。大きく立派なマンションから広々とした御邸宅、はたまた小さな戸建て住宅まで、ありとあらゆる住宅がひしめきあっている。そんなイメージが、世田谷区にはある。
いったい、この90万都市の中心はどこなのだろうか。ただひたすらに、住宅地ばかりなのだろうか。そう思いながら地図を眺めていたら、名前もそのままの「世田谷」という駅があった。東急世田谷線の世田谷駅だ。
世田谷区の世田谷線の世田谷駅。ついでにいうと、世田谷区役所も世田谷駅からそう遠くない場所にある。となれば、世田谷区の本質的な中心は、世田谷駅周辺にあるのではないか。
三軒茶屋から住宅を抜けて7分。駅のホームに降り立つと…
路面電車のような風合いを持つが、道路上を走るいわゆる“併用軌道”の区間は持たない。線路のすぐ脇には住宅や商店がひしめくような、いかにも世田谷らしい町並みの中を抜け、三軒茶屋駅から7分ほどで世田谷駅に着いた。
見た目には路面電車と変わらないような小さな電車の駅だから、世田谷駅も区の名前を持っているといっても小さなものだ。向かい合う相対式の細いホームが2面あり、駅の脇には踏切がある。すぐ南側にはお寺の境内があって、その脇を歩くとすぐに世田谷通り。人通りもクルマ通りもなかなかに多い、この一帯のメインストリートだ。
さらに、世田谷通りから少し南に入ると、そこには「ボロ市通り」と名乗る道。世田谷通りほどではないけれど、こちらも充分に道幅は広く、通り沿いには商店が連なっている。
その名の通り、毎年12月と1月にボロ市が2日間ずつ開かれ、1日の人出は約20万人という世田谷屈指のビッグイベントの会場でもある。普段からもそれなりに賑やかで、ボロ市通りを散策している外国人観光客の姿もあった。
通りの中にひときわ目立つ木造の門と「一大農村エリア」の面影
そんなボロ市通りの中に、ひときわ目立つのが実に立派な木造の門。なんだこれはと近づけば、世田谷代官屋敷だという。つまりは江戸時代のお代官様のお屋敷というわけだ。世田谷一帯を預かるお代官のお屋敷まである、世田谷駅の周辺は、世田谷の古くからの中心といって差し支えなさそうだ。
いまでこそ住宅地の真ん中のこの地域、お代官様がいた江戸時代までは農村地帯であった。ただ、そうした中にあっても現在のボロ市通りは大山道の道筋にあたり、それなりの往来があったようだ。代官屋敷を中心としたちょっとした町、といったところだろうか。
そして、この一帯は江戸の近郊にありながら、幕府ではなく井伊氏彦根藩の領地だった。お代官様も幕府のお代官ではなく彦根藩のお代官。近くにある招き猫でおなじみ豪徳寺は、桜田門外で殺された井伊直弼をはじめとする歴代当主が眠る井伊家の菩提寺でもある。
そして、この地域に暮らしていた人たちは、江戸にある彦根藩のお屋敷の掃除など下働きを請け負い、その見返りに下肥をもらい受け、それを肥料として農業を営んでいたのだ。
さらにさかのぼれば、中世には足利将軍家の親族にあたる吉良氏がこの地を治めていたという。世田谷駅の北側の住宅地の中を歩くと、豪徳寺の境内に隣接して小高く木々が生い茂った世田谷城の跡がある。世田谷城は、中世に吉良氏が本拠地を置いた城。後北条氏が関東一円を支配するようになると、吉良氏も後北条氏の傘下に入った。
ちなみに、ボロ市のルーツはこの頃に始まっている。後北条氏四代目・北条氏政は領内の街道として大山道を整備、世田谷城の城下町であったこの地には、世田谷新宿という宿場が置かれた。そして、氏政はここで楽市を開くように命じたのだ。
はじめは月に6度の六斎市、江戸時代に入ると年に1度の歳の市となり、明治になってから12月と1月の年2回になるなど変遷を遂げながらもいまに至っているのだという。この間、吉良氏は後北条氏と共に没落し、吉良の重臣だった大場氏が彦根藩に取り立てられて、世田谷代官として続いている。
農村エリアが住宅地に変わった「きっかけ」
と、まあおおざっぱに世田谷駅を中心としたこの地域の歴史を語れば、このようなところだ。世田谷区全域というといささかムリがあるが、少なくともその大部分は井伊彦根藩の領地として、世田谷代官屋敷を中心に小さな町とその周りの田園地帯から成り立っていたのである。
世田谷駅は世田谷線の中でも比較的地味な存在だが、少し歩けばすぐに両隣の駅にも行くことができる。そちらに足を伸ばすと、松陰神社前駅の脇にはなかなかに賑やかな商店街が南北に延びて松陰神社の鳥居前まで続いている。井伊直弼の安政の大獄で首を斬られた吉田松陰を祀る神社だ。それが直弼の眠る豪徳寺のすぐ近くというのは、何かの縁というべきか。
松陰神社の脇には国士舘大学があり、そこに通う学生たちは商店街の賑わいに一役買っているのだろう。国士舘大学の向かいには世田谷区役所だ。区役所というと、なんとなく市役所より一段劣るイメージを抱いてしまうが、90万都市の役場である。いくつもの庁舎を持つ立派な区役所で、いまは大規模な建て替え工事中。新しい区役所は、さぞかし立派なものになるに違いない。
こうした世田谷駅周辺の活気は、住宅街という要素を除けば原点は吉良氏が治めた世田谷城の城下町、そしてそれを受け継いだ世田谷代官の町にルーツを求めても良さそうだ。
明治に入っても、東京近郊の農村地帯というこの地域の本質は長らく変わらなかった。むしろ、東京近郊の農業生産地として、つまりは食料基地として重宝されたに違いない。明治の半ばには三宿や池尻一帯に練兵場などの軍事施設が設けられたが、世田谷の中心には大きな変化は生まれなかった。
1907年、世田谷区内には玉川電気鉄道の線路が通る。現在の国道246号を走り、多摩川の河川敷と渋谷を結ぶ路面電車だ。まだまだ住宅密集地にはほど遠かった世田谷にあって、玉電の最初の目的は多摩川の砂利輸送。
そして、1925年には下高井戸線として現在の東急世田谷線が開業する。古くからの地域の中心だった現在の世田谷駅周辺にも線路を延ばそう、というのも大きな目的だったのだろうか。そして、1932年には世田谷区が誕生し、東京特別区の一角に加わった。
ただ、支線が乗り入れるだけの世田谷駅周辺の発展は遅れ、本格的な住宅地として生まれ変わったのは、戦後になってからだ。現在の世田谷通りは、1964年の東京オリンピックに合わせて整備されている。
“90万人都市のイメージとはかけ離れた”世田谷線が果たす「役割」
世田谷の町は、こうした歴史を辿ってきた。だから、世田谷の町は古くからの世田谷の中心であったと同時に戦後に開発された新しい町という顔も持つ。
それぞれが入り組み、交わりあっていまの世田谷の町が形作られているといっていい。どことなく昭和の下町の面影があり、それでいて豪徳寺や代官屋敷などがあり、ボロ市も賑わう。世田谷という遅れてできた大住宅地の本質は、実はこうした町にこそある。
世田谷駅に戻り、再び東急世田谷線に乗った。
世田谷区はそうしたネットワークの恩恵は充分すぎるほどに浴しているものの、放射状路線同士を結ぶ便はあまり優れていない。路線バスを除けば、東急世田谷線一本槍といっていい。
世田谷区民にとって、文字通り世田谷線はなくてはならない足なのだろう。だから、90万都市世田谷を知るためには、膾炙している世田谷イメージとはややかけ離れた、小さな小さな世田谷線にまずは乗ってみるべきなのかもしれない。
写真=鼠入昌史