妻にも言えなかった父と姉のこと ハンセン病回復者家族の男性 周囲に嘘をつき続けた苦しみ(2024年6月30日『東京新聞』)

 
 ハンセン病患者や回復者の家族らが不当な隔離政策での差別被害を訴えた「家族訴訟」で、国に損害賠償を命じた熊本地裁判決から5年。判決を受け家族に補償金を支払う制度ができましたが、支給件数は想定の3分の1ほどにとどまり、「差別への恐怖」により請求をためらっている人が多いとみられます。差別への恐怖とは何か。回復者家族である埼玉県在住の男性Aさんに思いを聞きました。(石原真樹)
「葛藤が続いている」と語るAさん=埼玉県内で

「葛藤が続いている」と語るAさん=埼玉県内で

◆兄の縁談 近隣はすべて破談に

 現在80代で埼玉県在住。西日本出身で、小学生のときに父と姉が瀬戸内海の島にある国立ハンセン病療養所大島青松園(高松市)に隔離されました。父とは葉っぱを使って買い物ごっこをした記憶がありますが、姉と遊んだ覚えはなく、姉は「弟と遊んじゃだめ」と言われていたのではないかと思います。2人は納屋で生活し、ご飯のときだけ母屋に出てきていました。
 実家は農家で、兄が地元選出議員の後援会や神社の氏子代表など地域のさまざまな世話役をしていました。直接聞いたわけではないですが、「妹や父のことで何か文句があるか」という態度を示すためだったのではないか、と感じています。当時は集落の農家が寄り集まって農作業をしており、作業をしてもらった家はお酒や料理でもてなすのですが、そのときに母たちが「○○さんが食べて行ってくれなかったのはお父さんがあれだからかな」とひそひそ話をしていたことを覚えています。兄はたくさん縁談話がありましたが、近隣からの話はすべて破談になり、県境を越えた人と見合い結婚しました。

◆「らいがあるから付き合ったらダメだと」女性に告げられ

 私自身が直接的に差別を受けたのは、小学校の同級生に「お前のおやじ島流し」と言われたことと、大学時代に親しくなった女性に「あの家にはらい(ハンセン病)があるから付き合ったらダメだと親に言われた」と告げられたことです。逆に言うと、ほかには差別された具体例は思い当たりません。それでもこの2つの言葉が日常生活の中で今でもときどきよみがえってきて、トラウマ(心的外傷)というか、今も私の考えのすべてを支配しているように感じます。目に見えなくても、偏見や差別の恐怖はついて回るのです。影におびえているというか。どこからやじりがとんでくるか分からない、と。
Aさんが飼っているネコ。ネコとの時間に癒やされているという=Aさん提供

Aさんが飼っているネコ。ネコとの時間に癒やされているという=Aさん提供

 就職活動の面接で父親は何をしているのか聞かれ「戦争で目が見えなくなって家でぶらぶらしている」と嘘(うそ)をつきました。妻には父親のきょうだいが遠方にいて、目が不自由なので父親はそこにいる、と。なんとなくは気づいていたかもしれませんが、大島青松園にいるとはっきりとは伝えませんでした。昔妻と2人で高松市にいて、港に大島行きのフェリーがあるのを見つけて、首まででかかったけれど、言えなかった。そんなことを覚えています。父が30年ほど前に亡くなるまで、何年かに一度、四国や中国地方への出張に合わせて家族には内緒で大島青松園に会いに行っていました。

◆父の命日 隔離された日が刻まれた

 妻と結婚するときに実家にあいさつに行ったときに妻は姉とは会っていて、孫が生まれたときに一緒に動物園に遊びに行ったりもしました。でも青松園にいるとは言っていません。市町村合併で大島青松園が高松市になったのを良いことに、姉も「高松市なんとか」という適当な住所でハガキを送ってきたりしていました。そうやってごまかして、なんとか切り抜けてきた。
 でも、嘘をつき続けるのは、つらいです。
 父は平成に亡くなったのに、実家の墓には隔離された日が父の命日として刻まれています。親族の誰かがしたのかもしれません。そこに遺骨はなく、姉が持っていてお寺に預けてあります。

◆姉が社会復帰 自分は「逃げ回っているだけ」

 その姉は15年ほど前、「もう海は見たくない」と社会復帰を決め、今は大阪で支援を受けながらひとり暮らしをしています。姉の家を訪ねてどこかに一緒に出かけたとき、姉がバス停で見知らぬ人と立ち話をしていました。あとから「あれは誰?」と聞くと「知らない人」と。50年余暮らした園を出て姉がしたかった生活はこういうことなのだ、と分かりました。バスが時間通り来ませんね、お天気がどうの、雨が降ったとか降らないとか、そんな話がしたかったのだ、と。園にいたままでは、できなかったことです。園では庭でさまざまな花を育てていたので、マンションのベランダにもたくさん鉢植えを並べていました。園の住まいと違い、マンションでは雨の音が聞こえないことは不満のようです。
写真はイメージです

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 社会復帰したいと最初に姉に聞いたときには大反対でした。大阪での生活なんて無理に決まっている、と。でも姉は「とにかく出るんだ」と意志がとても固かった。いざ暮らし始めて、支援する人たちとの距離の近さに驚かされました。世間知らずの姉が丸め込まれるのではないかと心配すらしたのですが、姉の部屋のベランダから見える距離に支援者が住んでいたのです。
 それに引き換えお前はなんだ、逃げ回っているだけじゃないか―と突き付けられたことは、ハンセン病問題と向き合わなくてはと思うようになったきっかけのひとつになりました。

◆「回復者だから」「ああそうなの」あっけなくカミングアウト

 十数年前、妻ががんで闘病中に姉が大島青松園から何度も見舞いに来てくれました。そのときに孫が姉の手を見て「おばちゃんのお手て、痛そう」と言ったのです。そのときに自然に「姉さん、回復者だから」と口に出て、娘も「ああそうなの」。それであっけなく終わりました。家族に伝えられたことも、この問題を正面から考える契機になりました。
 でも、カミングアウトすることが正しい、素晴らしいという風潮には反対です。裁判に参加したり実名を明かすことは立派だとは思う。でも、そうできない人はダメなのでしょうか。できない人の気持ちも分かってほしい。裁判の原告になったり家族被害への補償金を申請することで、役所のどこかに名前が残ることさえ怖くて言い出せない人の気持ちはよく分かります。私自身、姉に裁判に誘われましたが参加しませんでした。原告番号で参加できると知らなかったので、名前と住所が出ると思うと怖くて。補償金は受け取りましたが、もしばれても隣人が自分を差別することはないと分かっていても、それでも怖さはあります。社会的にさまざまな差別を受けている事例はたくさんありますが、その多くは同じ差別を受けている人などとスクラムを組んで対抗することもできますが、ハンセン病は各戸、各個人になってしまう。その難しさがあるのではないでしょうか。

◆原告になれなかった、入れなかった疎外感

写真はイメージです

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 強く記憶に残っていることがあります。姉が社会復帰して何年かたったあと、支援者数人と姉と私が一緒にいる場面で、私は姉のペットボトルから飲んだのですが、「回復者の姉が飲んだペットボトルに口をつけるところを見せつけたい」という気持ちがあった。スタンドプレーをしようと、わざわざ大げさにやった。今思うとバカな気持ちだったなと思いますが、でも、あのときは真剣でした。たったそれだけのことなのに、今でもあのときの気持ちは鮮明に覚えています。
 裁判の原告の方何人かと会ったことがあります。彼らが原告番号で呼び合っていて、疎外感を感じました。裁判をされた人の厳しさは分かるけれど、同じ家族なのに、さみしいなと。原告になれなかった、入れなかった人の弱さを理解してほしい、というのは甘えなのだと分かっていて、「何で原告にならなかったんだ」と責められているわけでないのも理解している。それでも、分断されてしまった感覚になりました。
「打ち明けられない人の気持ちも分かってほしい」と話す男性

「打ち明けられない人の気持ちも分かってほしい」と話す男性

◆本当は伝えたい 葛藤の中講演活動

 80代になって身体のあちこちに不調が出るようになり、このままでは終わりたくないという気持ちが強くなっています。さんざん逃げ回ってきて、このままでいいのか、と。講演会に招かれればサングラスをかけて匿名で参加します。安心できると思えた場では名前を出して語ったこともあります。でも、怖さもある。でも本当はもっとあちこちで伝えたい。その葛藤の中にいます。
 秘密は、あってもいい。でも、誰かがおとしめられるような秘密はなくしたい。腹を割って、お互いに泣いて笑って、そういう人をひとりでも多く作っていけるような社会になってほしい。どうすればいいのか分からないですけれど。

【取材して】つきたくない嘘をつくということは、尊厳をおとしめさせられること

 やりがいのある仕事を勤め上げ、子や孫もいるAさん。もし私が別の機会に知り合っていたら、Aさんがハンセン病回復者の家族だと100%気づかなかったと断言できます。それでも、お目にかかり、やりとりを重ねる中で、たったひとりで家族にも言えない秘密を抱えて生きることの重みを私は少しずつ理解してきました。他人を欺くことはできても、自分を欺くことはできない。つきたくない嘘をつくということは、自分の尊厳を自らおとしめさせられるようなことなのかもしれないと思います。大好きな父と姉、そして自分の大切な家族を裏切っているような申し訳なさもきっとあったでしょう。そういったさまざまな感情が、ふとした瞬間にわっと押し寄せてくる。Aさんのいう「影におびえる」とはそういうことなのではないかと感じています。
 同じように苦しんでいる人が、実はすぐ隣にもいるかもしれない。そして、その苦しみは、社会が変われば苦しむ必要のないものです。差別や偏見におびえて秘密を抱えなくてもいい社会になってほしい、というAさんの願いが多くの人に伝わってほしいです。